第七話 規則正しい生活
朝。
窓から差し込む朝日と、ドアをガンガンと叩く音によって、俺は少しだけ意識を覚醒させられる。
意識は覚醒しているものの、体は思ったように動かない。俺の体は、〝寝る〟ということにとても素直なのだ。
時刻はおそらく七時前後。
怠惰な生活を決して許さない少女が、そろそろ突入してくる頃だろう。
「キサラギ君! 起きなさい!」
ほら来た。
日本基準で言えば、かなり粗末なベッドの上で寝返りを打った俺は、声に反応することなく布団を頭まで被る。
粗末なベッドに粗末な布団。枕すらない環境だけど、俺には関係ない。どこでだって寝れるから。
けど、やっぱり上質な睡眠を味わうためには、それなりの寝具が必要になる。
そのためにはお金が必要で、そのためには働かなければいけない。
だから、昨日は夜まで働いた。
翻訳の能力があるから、本の翻訳が難しいと感じることはないけれど、どれだけ簡単でも、延々と文字を書いていれば疲れる。
まぁそういうわけで、俺は眠い。そして眠い理由も、夜更かしとかではなく、仕事という立派な理由だ。
「つまり二度寝する権利がある……」
「ないわよ!」
無慈悲な言葉と共に、俺が被っていた布団が剥ぎ取られた。
朝の冷たい空気が俺を襲う。
体を丸くして耐えようとするけれど、無理だった。
この寒さは布団がないとキツイ。
「返せぇ……」
「起きたら返すわ」
「起きてるじゃん……」
視線を向ければ、案の定、制服姿の赤い髪の少女、エミリアがいた。
朝から清々しいほどキッチリしている。
「体を起こしなさい。このまま布団を返したら、二度寝するでしょ?」
「しないよ」
「嘘おっしゃい! それで昨日は起きてこなかったでしょ!? もうアカデミアに来てから五日も経っているのに、朝食に顔を出したのは一回だけじゃない!」
「一回顔出しただけいいじゃないか……。だいたい、職員は朝食に顔を出さなくちゃいけない決まりでもあるの?」
「朝食を食べないと体調を崩すから、食べなさいって言ってるの! それに職員が不規則な生活をしていたら、生徒に示しがつかないでしょ!」
「いや、誰も俺を模範とはしないから平気だよ。というわけで」
返して、という意味を込めて右手をエミリアに差し出す。
しかし、エミリアは笑顔を浮かべたまま動かない。布団を返す気はないようだ。
「それ、俺のなんだけど?」
「学院の所有物よ。あなたには貸してるだけ。そして怠惰な生活を送る職員には、貸せません」
「横暴だぞ! たかが朝飯食わないだけで、布団を奪うなんて!」
「どれだけ布団と睡眠が大切なのよ……」
「天国に行くより大事だ」
エミリアが小首を傾げた。
俺の言っている意味がわからなかったらしい。まぁ、わかるわけないか。
といっても、事実、俺は天国行きを蹴ってまでここに来た。
寝るために。
それを妨害する権利が、いくら生徒会長で王女だといっても、あるだろう?
いや、否である。
「返せ! 俺は寝るんだ! 仕事はちゃんとしてるだろう!」
「仕事もして、規則正しい生活もしなさい! ほら! 朝食に行くわよ!」
エミリアが断固とした口調で、俺が伸ばした手を打ち落とした。手刀でしっかり落とされたせいで、地味に痛い。
けど、今日のエミリアは退く気はなさそうだ。
流石の俺もこれだけ騒げば、それなりに目が覚めてきてしまった。二度寝をしようと思えばできるけれど、そもそも、エミリアが見逃したりしないだろう。
ここは大人しく朝食だけ食べて、エミリアが授業中に寝るとするか。
「わかったよ……行けばいいんだろ? 行けば」
「最初からそう言ってるでしょ? さぁ、早く支度しなさい」
「……」
「何してるの? 早く!」
俺は寝間着から着替えたいのだけど、エミリアは一向に部屋から出ていく気配がない。
これはここで着替えろということだろうか。
そういう趣味があったとは。まぁエミリアもお年頃ということか。
「んじゃ遠慮なく」
俺は着ていたシャツに手を掛ける。
そこでようやくエミリアは、俺が着替えようとしていると察したらしく、一瞬に間合いを詰めて、いつの間に取り出した剣を俺の喉元に突き付けていた。
「なにをする……?」
「いきなり女の子の前で着替えるなんて、何考えているのかしら……?」
「そっちが急かしたんだろ? だいたい、俺の部屋だし。そっちが出ていくのが筋だ」
「うっ……」
エミリアは基本的に真面目なせいか、正論に弱い。
ここ数日でわかったことだ。
自分に非があるとどうしても強くは出てこれない。美点と言ってもいいと思う。
何か言おうとして、何度か口を開き、しかし、エミリアは何も言わずに悔しそうに部屋から出て行った。
このまま着替えずに寝れば、エミリアも諦めそうな気もするけれど。
「さすがに申し訳ないか……」
エミリアがわざわざ朝食に俺を誘うのは、俺を早くアカデミアに馴染ませようという親切心から来ている。
俺の前任者である翻訳家は随分と人気だったらしく、代わりに来た俺は、正直、歓迎されていない。
なにせ、生徒たちと年が変わらない。
しかも素性もはっきりしない。噂すら聞いたことすらない男だ。ここは名門校だし、そんな男が歓迎されるわけがない。
俺のことを、翻訳家として類まれな才能を持っていると、学院長は初日に紹介したが、それを信じている生徒はごくごく少数で、ほとんどの生徒が俺の能力を疑っている。
エミリアは、それが嫌で、俺が朝食に顔を出さないと思っている節がある。単純に人が多いところが苦手っていうのと、朝は寝ていたいってのが理由なんだけど、それを言うとエミリアが可哀想だから言ってない。
ぶっちゃけ、生徒にどう思われようと気にしない。なにせ絡みがないから。
教師陣も、ほとんどが学院長が認めたなら問題なしってスタンスだし、俺の学院生活に問題はない。
問題があるとすれば、予想外に仕事量が多くて、思っていた睡眠ライフが送れていないということだけだ。これが一番の問題でもある。
「日本よりも規則正しい生活をしているとは……これ如何に?」
着替え終わった俺は、天井に向かって問いかける。
イメージとしては、神様に問いかけたつもりだけど、たぶん届いていないと思う。
向こうは向こうで、話が違うと思っていることだろう。
なにせ、俺はメルランの本を翻訳してはいない。
理由は単純で、本が多すぎて、どれがメルランの本なのかわからないからだ。
探しているうちに出てきたら翻訳するつもりだけど、この量では当分、難しいと思う。
神と人間。
どちらにも利がある転移だったはずなのに、どちらにも利がない状況に陥るとは。
「人生は早々、上手くはいかないってところか」
呟き、俺は部屋の扉へと向かって歩き出した。
◆◆◆
アカデミアの食堂は二つある。中等部と高等部の食堂だ。
俺が向かうのは高等部の食堂。
エミリアに付き添われて食堂に入ると、元々、ざわついていた食堂がさらにざわめく。
俺の服装が変だとか、エミリアと一緒にいるからとか、そういう理由じゃない。単純に、あいつ来やがったっていう話が、あちこちで始まったのだ。
「天才翻訳家が来やがったぞ」
「ふん。天才様は寝坊しても平気ってか」
「翻訳の才能があるとそんなに偉いのかっての。戦えもしないし、教師みたいに教えることもできない。ただ、古い本を訳せるだけだろう?」
「魔力も並みで、身体能力も高いわけじゃないって話だし、本当にそれだけなんだろ? それでアカデミアの職員になるとか、俺だったら恥ずかしくて無理だぜ」
聞こえてくる言葉は、どれも生徒のモノだ。
まぁ、無理もない。同年代の人間が職員に入ったのだから。普通に考えれば嫌だろう。
しかも、ここは名門校であるアカデミア。
優秀な者たちが集まるのは、教師、職員たちが一流だからだ。
優秀な者たちにとって、俺みたいなポッと出が、その一流の仲間になるのは許されないことなのだ。
と、エミリアが言っていた。
そういうエミリア自身が優秀な者たちの代表者だから、なんとも説得力がない。
結局、個人の性格の問題なんだろう。
人を受け入れられるかどうかは、個人の度量の問題だ。
実際、俺の能力は神様が、自分の目的のために渡してきた能力だ。俺自身が努力して身に着けたものだ。そのせいで、この能力に誇りも思い入れもない。
だから、馬鹿にされても痛くも痒くもないわけだが、その態度も余裕に見えて気に食わないんだろう。
人は無視されることを嫌う。相手にされてないからだ。プライドの高い者、能力のある者は、基本的に幼少時から人に相手されるのが当たり前だから、とくに無視されるのを嫌う。
といっても、相手にしたら面倒だから相手にはしないけど。
「言わせておきなさい。あなたの翻訳の速さを見たことないから、調子に乗ってるだけよ。いずれ、黙らせるから」
「別に言わせておけば? 言ってることは事実だし」
「あのね? 悔しくないの? 自分が不当に貶められているのよ?」
「別に。人の評価とかどうでもいいし」
「あなたがよくても、私がよくないの。あなたが馬鹿にされれば、間接的に連れてきた私とアダムス先生が馬鹿にされたことに繋がるわ。そして、あなたを認めた学院長も」
「結局、負けず嫌いなだけじゃないか……」
エミリアの物言いに呆れつつ、俺は食堂の職員席に向かう。
この学院はみんなで食事という伝統があるせいで、職員用の食堂がない。
流石に生徒と隣り合って食事することはないけれど、正直やりにくい。
「おはようございます。ノブト」
「おはようございます。学院長」
職員席の最奥。
学院長の席に座るコーネリアが挨拶してきたので、挨拶を返す。
「あなたが朝食に顔を出すなんて珍しいですね」
「お節介な生徒会長に起こされまして」
「流石はエミリアです。素晴らしい」
学院長はエミリアの味方らしい。
この学院に俺の味方はいないのだろうか。
「おはよう。ノブト。遅かったな?」
「おはようございます。アダムス先生」
俺は指定席であるアダムスの隣に座りながら、給仕係がせっせと出してくる食事が揃うのを待つ。
この食堂で働くシェフは、王宮勤めのシェフ並の腕を持っており、給仕係の人たちも社交界に出ても、問題なく働けるスペシャリストだということだ。
そんな人たちが給仕してくれるわけで、ストレスなく俺の前に食事が揃う。
「仕事のほうはどうだ?」
「ぼちぼちです。そろそろ一冊目が終わりますね」
そう言うと、職員用のテーブルが一気に静まり返る。
見れば、ほとんどの教師たちが手を止めて、俺のほうを凝視していた。平然と食事をしているのは、学院長とアダムスくらいだ。
「流石に早いな。やろうと思えば、もっと早くできるのか?」
「翻訳のスピード自体は上がるでしょうけど、文字を書くスピードがあがりませんよ。腕が疲れちゃって。腕さえ動けば、一日一冊くらいいけるんじゃないですかね?」
「マジかよ。じゃあ今度、俺が持ってる黒文字の本、翻訳してくれ。俺もできなくはないんだが、時間がなくてな」
「俺も時間がないです。まぁ、そのうちお受けしますよ」
その瞬間、教師陣が全員、かすかに腰を上げた。
その様子に俺はビビッて、椅子を引いてしまう。だって、今にも襲い掛かってきそうな雰囲気だったし。
「皆さん。食事中ですよ」
学院長の注意を受けて、教師たちが我に返って、椅子に腰を落とす。
そして隣の先生たちとひそひそ話を始めた。
たぶんアダムスみたいに、翻訳をお願いしてくる気だろう。
「ノブト。個人的な依頼を引き受けるのは構いませんが、仕事に支障が出ればわかっていますね?」
「わかってます。というわけで、アダムス先生。機会があればってことで」
学院長は月に一冊のノルマを俺に課している。
もちろん、教師たちには内緒だ。月一ノルマを達成できる翻訳家なんて、ほぼありえないからだ。
なにせ、あの書庫にあるのは、黄文字以上の本だけだ。どの文字でも一瞬で翻訳できる俺ならまだしも、普通の翻訳家は文字の難易度が上がれば、翻訳ペースが落ちる。
だから、秘密のノルマというわけだ。それでも俺にとっては結構、楽なノルマだ。
まぁ、今の俺の発言で、俺の異常な翻訳スピードがバレたわけだけど、学院の教師くらいならバレても問題ないと思う。学院長も注意はしなかったし、口止めもされてないし。
そんなことを思いつつ、朝から随分と凝った料理を口に運ぶ。
おいしいことはおいしいのだけど、上品な味付けというべきか、淡泊というべきか。
なんというか物足りない。
ああ、ファーストフードが恋しいな。