閑話 遠見する女神
天界と呼ばれる神々の世界。
そこにある質素な部屋に、金髪蒼眼の美しき女神、ルシアはいた。
ルシアの視線の先には水が浮かべられたお盆があり、その水の中にはノブトが映っていた。
「なんとか辛い思いだけはさせずに済みましたが……」
ルシアは一人、安堵のため息を吐く。
学院長にお告げを出し、ノブトを雇うように仕向けたのは、メルランが肝心なところで抜けているための保険だったが、しっかりとその保険は役立っていた。
天才であるメルランは他者の気持ちに疎い。
いくら優秀であっても、怪しさ満点の人間を普通は雇いはしない。
「普通というものを知らない方ですし、仕方ないのかもしれませんが……」
呟き、ルシアは水に触れて映像を変える。
次に映ったのは空から見た大陸の映像だった。
ノブトがいるリヴァーシス大陸だ。
カタカナのコの字型の大陸で、アストルム王国は中心部に存在する。
コの字の間には島があり、ルシアが注目しているのはその島だった。
「エリオス島……魔王が現れる島……」
黒霊と呼ばれる実体を持った怨霊たち。
これらの中でも、一際、強い力を持ち、自我すら持つ者をアーウェルサの人間は魔王と呼ぶ。
黒霊は怨霊たちの集合体のため、強い怨霊が集合すれば、それだけ強い個体が生まれてくる。
そしてどうしても怨霊は生まれてしまう。それが世界の仕組みなのだ。
魔王と呼ばれるほどの個体が生み出すには、当然、それ相応の数の怨霊が必要になる。
その周期は基本的に五百年。
しかし、最後の魔王をルシアが討伐してから、千年。魔王は現れてこなかった。
もうアーウェルサでは魔王は現れないと思われていたのだが。
「千年分の怨霊の集合体……」
かつて魔王と対峙し、それを打ち倒した者だけに、さらに強力な魔王というのは、ルシアにはとても脅威に思えた。
神は基本的に下界には介入しない。今の時代の人々が、その時代の困難を乗り越えてこそ、世界の発展はある。
その方針にルシアも賛成ではあったが、今度ばかりは楽観視はしていられないような気がしていた。
「魔王の時代には、常に英雄が現れるものですが……」
千年前、魔王を討伐したルシアしかり、千五百年前に魔王を支配下に置くという荒業をやってのけたメルランしかり。
突出した人物が登場するのは、常に魔王の時代だった。
だが、ルシアの目にはそれに見合うだけの人物は今のところ見当たらなかった。
魔王の復活で黒霊の活動は活発化してきている。
早急に手を打たねば、アーウェルサが滅びる可能性もありえる。
「所詮は可能性。メルラン様ならそう笑うでしょうが……」
ルシアは溜息を吐き、また水に触れる。
次に映ったのは、金と茶が混じったような色の髪を持つ少女だった。
優れたガラス細工のような美しさを持つその少女は、白いローブを身に纏い、神々しさすら感じる姿で歩いていた。
その姿は確かに美しかったが、同時に儚げでもあった。
そんな少女の周りには、恭しく頭を下げる神官たちがいる。
その様子をルシアは不憫そうな表情で見つめる。
「やれること、打てる手は打っておくべきでしょうが……それがこの子のためになるのかどうか……。ノブトも何とか日本に戻さなければいけませんし、世界のことも考えなければいけない……。こう問題ばかりだと、いい加減なメルラン様が少々、羨ましいですわね……」
頬に手を当てたルシアが溜息を吐く。
ちょうど、水に映っていた少女も一人になったのか、ルシアと同じように溜息を吐いていた。
先ほどとは違い、人間らしさを感じさせる少女の姿を、密かにルシアは気に入っていた。
同時に、少女と行動が被ったことがおかしくて、ルシアは笑う。
神になっても困難なことは困難であり、人間のように悩むこともある。
神も人も結局は、生きていることには変わりはない。
生きている以上、多少の困難は降りかかる。
「いつも乗り越えてきましたし、今回も乗り越えるとしましょうか」
そう言って、ルシアは両手を胸の前で可愛らしく小さく握り、決意を新たにした。
そんなルシアの部屋を覗く影があった。
メルランだ。
所用でルシアの元に来たメルランは、ルシアがコロコロと表情を変えるのを、部屋の外からこっそりと見て。
「相変わらず、人間臭い女じゃなぁ。儂のように超然とできんのか。超然と。魔王なんぞ、儂の翻訳家が一瞬で消し飛ばすわい!」
などと好き勝手なことを言っていた。
神も人も変わらない。
迷惑をかける者は、常に迷惑をかけ、苦労する者は常に苦労するのであった。
それはまさしく真理である。
ルシアが再度、水に触れるとノブトの姿が映し出される。
気持ちよく寝るノブトだが、エミリアによって強制的にたたき起こされる。
そんな様子を見て、ルシアはクスリと笑いつつ、部屋の外にいる不躾な覗き魔にどのような制裁を加えようかと考え始めた。