11. 恋なんて綺麗なモノじゃない
「ヨミもすっかり大きくなったねぇ」
洗い場でリタが僕の背中や腕に泡をつけて撫で回すようにして洗いながら感慨深そうに言う。
「筋肉もついてきて、ヨミが逞しく育って嬉しい限りです」
満足そうに言いながら、後ろから抱きつくようにリタが手を伸ばし、そのまま僕の胸や腹の辺りも撫で回し始めた。
自然、リタの体が密着して、僕の背中に直にリタの胸の感触が伝わる。
「リ、リタ、離れてください、その、ダメです……」
反射的に、僕はリタの手をつかんで手を止めさせる。
「ダメ? 何がダメなの?」
対してリタは不思議そうに僕の肩に顎を乗せて耳元で尋ねる。
僕の左耳をリタの吐息が掠める。
「だから、その……こういうのは、あんまりよくないというか、いけないと……思います……」
何がどうダメなのか上手く言葉にできず、しどろもどろになって口ごもる僕の耳元で、妖しげな甘い囁きが聞こえた。
「じゃあ、もっといけないことする?」
僕が目を覚ませば、空はうっすら白み始めており、外からは鳥の鳴き声が聞こえた。
同時に左の耳元にかかる吐息を感じる。
リタだ。
今、僕はリタに後ろから抱きつかれるような形で寝ている。
リタの右手は僕の背中に、そして左手は下っ腹辺りにあり、リタの胸が先程の夢と同じ様に僕の背中に密着している。
もちろん薄物は着ているが。
リタを起こさないようにそっと左手をどけて体を起こせば、幸せそうな顔で眠るリタがいる。
その寝顔や無防備な姿に、邪な感情が湧き上がるが、何とかそれを理性で押さえつけ、着替えを持って浴室に向かう。
最近はすっかりこれが日課になってしまった。
さっぱりして身支度を整えた後は、暇なので朝食の準備をしたり、リタが起きそうな時間になってきたら朝の目覚め用の紅茶を淹れる。
僕がリタに拾われてから八年が経った。
最近やっと自力でも不帰山に生息するドラゴンを狩れるようになり、リックさんからはもう教えることは何も無いと言ってもらえた。
ローザさんにも、そろそろ最低限のマナー程度は身についたのではないかと言われた。
それでも二人とは、たまにお茶会に呼ばれたり一緒に狩りに行ったりと交友は続いている。
僕の身長はこの八年ですっかり伸び、今ではリタよりも少しだけ高い。
魔族の成長の仕方というのは種族によって多種多様でかなり違いがあるらしく、成人を迎える位までは人間と同じ様なスピードで成長し、ある時からそれが急に緩やかになる者もいれば、体が大人になりきるまでに五十年程かかる種族もいるらしい。
どうやら僕は前者のタイプのようだった。
アベルやロニーとは今もよく遊ぶが、今では僕が三人の中では一番身長が高い。
ロニーは僕とあまり年は変わらないように見えるが、アベルは身長があまり伸びてなく、見た目だけなら完全に僕達の弟分みたいになってしまっている。
「この中では俺が一番年上なんだからな!」
とはよく言うが、それが余計見た目の幼さを強調する結果になってしまっている。
リタは八年経っても全くと言っていい程変わっていない。というか、僕とロニー以外僕の周りで大きく見た目が変わった人はいない。
まあ、アベルも多少身長は伸びているような気はしないでも無いが、今だに声は高いままだ。
「リタ、朝ですよ」
紅茶を持ってリタの部屋に向かえば、既に起きてはいたらしいリタがごろりとこちらへ寝返りを打って
「あぁ、おはよう~」
と気だるげに手を振る。
ベッドの横の棚に持ってきた紅茶を乗せ、二、三言葉を交わした後、僕は台所に戻る。
朝食の準備も大詰めだ。リタが紅茶を飲み終えて身支度を済ませてリビングに出て来るのに合わせて完成させる。
最近はリタの料理の腕も上がり、本格的な料理もするようにはなったが、朝は僕の担当だ。
元はと言えば、僕が以前のように朝リタとほぼ同時に起きる訳にはいかない状態になったからなのだが。
「ヨミ、毎朝ありがとう」
朝食を食べながら、リタが柔らかく微笑む。
「なんですか、急に」
リタの笑顔は反則だ。
この笑顔を見ているだけで、僕は胸が苦しくなる。
「えへへ、だって最近は毎朝ヨミが早起きして紅茶や朝食を作ってくれてるでしょ?なんか幸せだなぁって思って」
そんなリタの無邪気な言葉に、また僕は罪悪感を感じる。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
アベルがすごい物を見つけたのでウチにこいと言うので、何かと思ってロニーと一緒に着いていけば、アベルが父親の成人向けの画集を見つけたので僕達にも見せてやる。ということらしかった。
「なんだこれ……」
画集のページをめくると、女の人と男の人が裸で抱き合っていた。
「すごいだろ、結婚したら夫婦はこんなことするんだってさ」
他のページでは、キスを交わし、うっとりした顔の女の人に男の人が首筋や胸に唇を這わせている。
なんだかいけない物を見ているような気がして落ち着かなかった。
その画集の中に、どことなくリタさんに似た女の人の絵を見つけた時、一瞬その絵の女の人がリタさんのように見えた。
同時に以前リタさんが言っていたことを思い出す。
「リタさんは、結婚とかしたいんですか?」
「そりゃしたいよ~寂しいもん」
リタさんはそう言って笑っていたが、結婚をするということは、その相手とこういうことをするのだろうか。
そう考えた時、僕はなんとも言えない気持ちになった。
今のところ、リタさんの結婚相手として、一番可能性がありそうなのは魔王様だろう。
一度負けているとはいえ、魔王様も勝機が無い訳ではないと言っていたし、リタさんは自分に勝てる程相手が強ければそれでよさそうではある。
リタさんが、あの魔王様と……正直、魔王様の嗜好のことはアベルとロニーから話だけ聞いたが、今いちよく解らないのでそれによって夫婦の営みがどう変化するのかは想像つかないが、結局の所こういうことをするのは間違いないのだろうと女の人が裸で足を広げている画集の絵を眺めて思った。
しかしそれは、僕にとってどうしても受け入れられなかった。
誰かがそんな風にリタさんとそんな行為に及ぶことが我慢ならなかった。
いつも笑っていて優しいリタさんが、汚されるような気がした。
それまで僕はあまり深く考えていなかったが、リタさんが誰かと結婚するということはつまりそういうことだ。
今までは僕だけに話しかけて笑いかけてくれたのが、僕だけじゃなくなる。それどころかその男とこんな事を……考えるだけで憤りを覚えたが、その営みも夫婦として当たり前の事ならば、僕のこの思いは全く正当性のないただの逆恨みだ。
その日の夜、僕は酷い夢を見た。
アベルに見せてもらったあの画集の絵のように、僕がリタを押し倒して事に及ぼうとした夢だった。
その時のリタの反応は憶えていないが、今まで散々一緒に風呂に入ってリタの裸なんて見慣れていたはずなのに、異様に興奮したことは憶えている。
その日、初めて僕は夢精というものを経験した。
と同時に自分に対して酷い嫌悪感を感じた。
外がうっすら明るくなり、薄暗いながらも横で何も知らずに眠るリタを見て、すぐにでも逃げ出したい気持ちに狩られた。
きれいなリタが汚されるのが嫌だなんて思いながら、そのリタを一番汚そうとしているのはきっと僕だと思うと、無性に気持ち悪くて、悲しかった。
どうしようもなく寂しくて、辛くて苦しいだけだった日々から僕を救い出してくれたリタ、少し抜けてる所はあるけど、優しくて、温かくて、大好きだった。
だけど今の僕のこのドロドロとした感情は、そのリタへの僕の気持ちさえもどす黒く濁った物へと変質させていく。
僕は、リタをずっと自分だけの物にしておきたい。
他の誰かと結婚なんかせず、ずっと僕だけを見ていて欲しい。
そして、僕はリタを……
そこまで考えて、やっと僕はリタを異性として好きになってしまったのだと気付いた。
そういえば前にリタがとても良かったと勧めてきた恋愛小説に、恋をすると、その人のことばかり考えてしまったり、胸が苦しくなったり、些細な事で一喜一憂したり、自分の世界がその人を中心に回り始める。なんて書いてあったのを思い出した。
それが恋だと言うのなら、正しく今の僕はその基準を満たしている。
というか、その考え方でいくとリタに拾われた時から僕はリタに恋をしていたことになる。
もしリタに嫌われて捨てられたらと考えると胸が苦しくなったり、リタに優しくされたり、僕に笑いかけてくれるだけで、どうしようもなく嬉しかった。
だけど、今の僕の気持ちはそんな可愛らしいモノじゃない。
ただ、リタの側にいたくて、リタが自分以外の誰かを見るのが嫌で、リタを完全に自分だけのものにしたいとさえ思ってしまう、このドロドロした欲望にまみれた気持ちは、きっと恋なんて綺麗なモノじゃない。