第五幕:♠と恋人
パリにある射撃場の中にアガーテは立っていた。
ヨーロッパは銃規制がそれほど厳しくは無い。
ただ、銃を携帯するには免許所とちゃんとした理由が必要とされている。
別に家に置いておくのは問題ではなく持ち歩く事が問題されているだけの話である。
射撃場はパリの中にも幾つかあり、観光客向けにも開放されている。
そこでアガーテはS&W M36チーフススペシャルを片手で構えて撃っていた。
引き金を引いて的に何発か当てた。
ライフルの方がブランクを直すのは早い筈だが、アガーテの場合は拳銃の方が早いようだ。
しかし、心臓部には遠い。
『拳銃のブランクも困ったわね』
射撃の腕は自信があるが、やはりブランクは痛い。
何発か撃ち続けては、感覚を取り戻す事に努めた。
2時間ほど時間を潰していると、喫茶店のパリ・ジャンヌが来た。
ジーパンにカジュアルなカーディガン姿であった。
手にはシャネルのハンドバッグと茶色の封筒が握られていた。
「お待たせ。御注文の品を持って来たわ」
「見せて下さい」
直ぐに射撃を止めて、休憩室に足を運んで資料を見る。
獲物は現在、スペインで仕事をしているらしい。
「何でもドラッグの売人が司法取引に応じたから、それを阻止する為に行ったらしいわ」
「ドラッグですか・・・・・・・」
「まぁ、金を稼ぐには一番の方法なのは、否定しないわ」
でも、ここではそんな真似をすれば命が幾つあっても足りない、と付け足す。
ヨーロッパではコロンビアなどからの麻薬が密売される。
コロンビア製の麻薬は純度も高く、それだけ高額だから急いで金を稼ぎたいなら持って来いだ。
だが、伯爵は麻薬を嫌う。
そのため警察と連携して、麻薬を取り締まったりもする。
マフィアと警察が手を組むなど前代未聞だが、警察では伯爵を尊敬している者まで居るから大した人望だ。
「で、その仕事を片付けるのにおよそ1週間から2週間は掛るわね」
警察でも事前にキャッチしているからか、警備が厳重でチャンスが無いらしい。
更に情報収集なども考えれば、それだけ掛るのも無理は無い。
「これは貴方にとってもチャンスでしょ?」
ブランクを少しでも直す為に。
「えぇ。それでこの他に資料は?」
「この男、それなりに女好きなの」
内の宿六よりは女好きじゃない、とパリ・ジャンヌは言った。
宿六と言われている男も伯爵に仕える者で殺し屋だ。
ナイフ技術に長けており、“切り裂きジャック”と言われている。
しかし、女好きと殺しの現場に証拠を残す癖があるらしい。
更に金も踏み倒したりするなどする事からパリ・ジャンヌには、宿六と有り難くも無い名前を頂戴しているのだ。
話を戻すと、この獲物も女好きらしい。
「仕事前には必ず女を抱くの。しかも三日間ぶっ通しでね」
「・・・・・・・・・・・」
「好みのタイプは、何処か儚げで清楚系。高飛車な女はお断り。ストリップを好んでやらせるらしいわ」
「・・・・・・・・・・・」
「どうやら清楚な娼婦にストリップをやらせて、その恥ずかしがる様子を見て楽しむらしいの」
アガーテは沈黙していた。
とんだ変態も居たものだ、とパリ・ジャンヌは顔に似合わず言った。
「儚げで清楚。・・・貴方にピッタリね」
「・・・・・・・・・・」
アガーテは、とても不快な顔をした。
こんな変態に好かれたくない、と全面に押し出していた。
「まぁ、ただの情報として受け取っておいて。かなり用心深い男だから。狙撃するのは難しいと思ったの」
だから、ここで娼婦などに変装して近付けば良いと思った、とパリ・ジャンヌは弁解した。
どうやらアガーテを怒らせたかもしれない、と思ったらしい。
「参考程度に聞いておきます」
アガーテは怒らずに頷いた。
「ありがとう。私もまだまだね。御贔屓な客を怒らせるなんて」
パリ・ジャンヌは苦笑しながら煙草を取り出して銜えた。
しかし、直ぐに煙草を戻そうとした。
「どうして戻すんですか?」
「え?貴方、煙草嫌いじゃなかった?」
前に一度、煙草を吸い苦情を言われた事をパリ・ジャンヌは思い出したらしい。
「昔の話です。煙草は吸いませんが、別に相手が煙草を吸っても不快に思いません」
「そうなの?助かるわ。今じゃ何処もかしこも禁煙で喫煙者には形見が狭いから」
そう言って煙草を銜える。
自分で紙を捲いて吸う手製の紙巻き煙草であった。
些か不器用な捲き方から、アガーテは推測した。
パリ・ジャンヌは、シャネルのハンドバッグからカルティエの洒落たライターを取り出して、火を点けた。
「そう言えば♠さんは、どうしたんですか?」
パリ・ジャンヌの喫茶店に居候している宿六こと殺し屋には、♠という偽名がある。
何時もなら店に居るのに居なかったから、気になった。
「宿六なら“お嬢様”とデート中。朝から香水とか服を選んでいたわ」
パリ・ジャンヌは、何処か面白くない口調だった。
「・・・・まったく、私の時は荷物運びだから嫌だって逃げるくせに」
ぶつぶつと煙草を吸いながらパリ・ジャンヌは愚痴を零した。
「貴方も彼も若いから仕方ないわ」
アガーテは苦笑しながら資料を封筒に戻して笑った。
「そりゃ、まだ23歳だけど宿六よりは歳上だし、性格的にも上よ」
あいつは自分に甘くて他人には厳しい。
しかし、自分は自他共に厳しい。
そこが違う、とパリ・ジャンヌは煙草を吸いながら言った。
「でも、私から見たら若いわ」
私はもう30を越えたから、とアガーテは言う。
「何を言っているのよ。女は30を越えてから良い女になるのよ」
年下の女にこうも説教をされるとは、とアガーテは苦笑した。
「ねぇ、それよりこれから少し買い物でも行かない?」
「構いません。何処に行きます?」
「そうね。取り敢えず2区で買い物しましょうよ」
「あそこは余り好きじゃないんですけど・・・・・・・・・」
2区は、オペラ界隅と呼ばれ、高級ショッピング店から銀行などが並ぶセレブレティな者たちが集まり易い場所だ。
その他にも日本食などを扱う店もある。
アガーテは、自分のような者が行く場所ではないと思っていた。
元より華やかな場所は苦手なのだ。
「偶には嵌めを外しましょう」
パリ・ジャンヌは尚も強く言ってきた。
「それじゃ・・・・・見るだけなら」
「決まりね。それじゃ、行きましょう」
パリ・ジャンヌは屈託のない笑みを浮かべて、アガーテを伴い射撃場を出た。
パリのオペラ界隅を歩くアガーテとパリ・ジャンヌ。
二人揃って美人であるため男達が声を掛けるもあえなく撃沈している。
二人は先ずショッピング店に行き、アガーテの服を選んだ。
「何時も背広姿なんて勿体ないわ。もっとお洒落しないと」
パリ・ジャンヌは色々と服をアガーテに合わせては唸る。
「そんなお洒落をしたいとは思いません」
アガーテ自身はお洒落に気を使うのが好ましくなかった。
何よりスーツの方が自分には好ましい。
何処に行こうと目立たないし、大人としての平常服と言う事もある。
殺し屋も営む自分などには、黒のスーツが一番だ。
まぁ、場所にもよるが、スーツが妥当なのだ。
黒だと血を仮に浴びても対して目立たない。
「そんな事を言わないの。女は着飾ってこそ何だから」
パリ・ジャンヌは嫌がるアガーテを解き伏せる如く言い続けた。
ドアが開く音がして、アガーテはそちらに眼をやった。
金髪の男性とプラチナ・ブロンドヘアーの娘だった。
男の方は黒いスーツにサングラスでネクタイはダーク・ブルーだった。
女性の方は水色のフリルが付いたワンピースに白いガルボハットを被っていた。
とても気品ある女性で、何処かの令嬢と思える。
男がアガーテの姿を見て、近付いてきた。
「これは、アガーテさん。相も変わらず美しいですね」
「久し振りですね。ヴィンセントさんにマリィ様」
アガーテは二人の名を言った。
「こんにちは。アガーテさん。ラビーヌさん」
マリィと呼ばれた女性はアガーテと一緒に居るパリ・ジャンヌに挨拶をした。
「こんにちは。宿六に何か酷い事をされなかった?」
「いいえ。ただ、今日・・・初めて・・・・キスを・・・・・されただけです・・・・・・・・・・」
きゃあ、とマリィは頬を赤く染めて、両手で隠した。
それだけで保護欲をそそられそうだ。
「はー、やっぱりマリィちゃんは、良い子だ。何処かの“暴力女”と違ってな」
「何で私を見るのよ」
ラビーヌと呼ばれたパリ・ジャンヌは、睨みつけるようにしてヴィンセントを見た。
「怒るって事は、自覚しているのか?」
「あんた、ぶん殴られたいの?」
「ここは店の中だぜ?それにパリ・ジャンヌってのは、お上品で華やかな筈だぜ?」
「時代錯誤も良い所ね。それに今は、男女平等社会よ。あんたを殴っても罰なんて当たらないわ」
「おお、怖い怖い」
ヴィンセントは、恐れ戦くように身を引く。
「ラビーヌさん。ヴィンセント様に手を上げないで下さい」
マリィがヴィンセントを庇うようにして立った。
「マリィちゃん。貴方がこの宿六を好きなのは痛いほど解かるわ」
ラビーヌがマリィにまるで言う事を聞かない妹を解き伏せるようにして、喋った。
「だけど、こういった男は、女がしっかりと手綱を握らないと、何処にでも行っちゃうのよ?」
それこそ何処で女を孕ませるか分かったものじゃない、とまで言い切った。
「ヴィンセント様。まさか、ラビーヌさん以外の女性にも手を出したのですか?」
マリィは、ヴィンセントを上目使いで睨んで来た。
どうやらラビーヌと肉体関係を持っている事を知っていながら、容認している様子だ。
「まさか。そんな事をしたら、君の御父上に殺されっちまうよ」
ヴィンセントは、マリィの父親、すなわち将来の義父に当たる男を思い出したのか身震いした。
それを見てアガーテは何処か納得していた。
『あの方なら、やりそうだわ』
マリィの父親は、彼女が仕える主の父親に仕えている男。
かなり上位クラスに食い込む容姿をしているが、性格はかなりやばい。
まぁ、職業柄なのだろうが、特にこのマリィは眼に入れても痛くないほど溺愛しているらしい。
その愛娘を泣かせたとあれば、恐らくヴィンセントを本当に殺す事だろう。
「あの人に狙われたら、それこそザミエルに狙われると同じね」
ラビーヌはアガーテを見た。
「私は、別にヴィンセントさんをどうこうしようとは」
「ただの例えよ。そんなに真面目にならないで」
ラビーヌは苦笑した。
「アガーテさんに狙われるほど落ちこぼれていないぞ」
ヴィンセントはアガーテの発言に眉を顰めて言い返した。
「あらそう?まぁ、3年前に比べればマシになったけど、“まだまだ”ね」
「・・・・好い加減、その口を閉じさせられたいのか?」
「貴方みたいな若造に出来るのかしら?」
「・・・・・・・上等だ。この場で、てめぇをやって後世の憂いを断つとしよう」
「お生憎様。まだあんたには借金が山ほどあるから死ねないわ」
「死ぬ直前まで金に執着するか。・・・・・・強欲の権化が」
「お褒めに預かり光栄だわ」
ヴィンセントの挑発にラビーヌは笑みを浮かべて応えたが、眉が痙攣しているからやはり怒っている様子だ。
険悪なムードになり始めた二人。
「二人とも、ここは店内ですよ」
アガーテの一言で険悪なムードが壊された。
まるで一発の銃弾で壊された窓ガラスのように。
「ここは、他のお客様も来る場所です。この場で事を起こす事は私が許しません」
もしも、事を起こすのであれば、私が止めます。
それこそ鉛を撃ち込む覚悟です。
その一言で二人は一気に仲良くなった。
「や、やだなぁ。じょ、冗談ですよ。アガーテさん」
「え、えぇ。そ、そうよ。だ、だから、そんなに怒らないで・・・・・・・・・・」
アガーテは到って普通だが、二人にはそう見えなかったらしい。
後日二人は口を揃えてこう述べた。
『猟犬を連れて、弓と斧を持った狩りの魔王が立っていた』