第一幕:魔弾の射手
フランス最大の港都市として栄えるマルセイユ。
海の幸が毎日、市場で売り買いをされヨットや漁船が青い海を泳ぐ。
そのマルセイユに一軒の小さなカフェ店がある。
レンガで造られた店で、フランスでは当たり前のオープンカフェだ。
カフェの名前は「魔弾の射手」という風変わりな名前である。
これは、ドイツの作曲家ウェーバーが作ったオペラ「魔弾の射手」から来ている。
このオペラはドイツのロマン主義を確立させた記念的な作品であり、新しい音楽をドイツに齎した作品としても知られている。
この店の主がドイツ人であり、尚且つ射撃の腕前が良い事から名付けられた。
店の主は女性で名前をアガーテ。
魔弾の射手に出て来るヒロイン的な存在の名前だ。
そのアガーテという女性は御歳31歳になるが、未だに無駄な肉一つ持っておらず艶やかな身体付きを誇っている。
アガーテに求婚する者は後を絶たないが、彼女は断固として聞き入れようとはしなかった。
どうしてかと理由を聞いても彼女は無言で答えようとしない。
だが、彼女の明るくて優しい心遣いに客達は、いつも訪れては世間話をする。
「アガーテさん。カフェ頂戴」
一人の客が紺色のブラウスにロングスカートに白いエプロンを腰に巻いて、忙しく動いている女性に声を掛けた。
「はーい」
アガーテと呼ばれた女性は振り返った。
金糸の髪を頭の上で纏めていた。
明るい碧色の瞳は、大らかな光を放っていた。
アガーテは直ぐに奥へと行き、カフェを作り始めた。
フランスでカフェと頼めば、エスプレッソが出て来る。
そのためカフェを頼みたい場合は、カフェ・“アロンジェ”と付け加える必要性があるのだ。
5分ほどでエスプレッソもといカフェを用意したアガーテは、外にあるテーブルに持って行った。
「はい。どうぞ」
「ねぇ、今度二人でデートしない?」
「御免なさい。そういう類いの誘いは断っているんです」
バッサリと言い切るアガーテ。
そしてまた戻って行った。
「ガードが堅いな」
カフェを頼んだ男は、苦笑しながらカフェを飲んだ。
「仕方ないさ。あの人は、心に決めた男性が居るって噂だ」
同じテーブルに座る男が新聞を捲りながら、噂で聞いた事を言った。
「本当かよ?て事は、結婚も?」
「考えているだろうな。だが、男の方はどうかな?」
「どう言う事だよ」
「よくあるだろ?不倫とか遊びだけの恋とか」
「アガーテさんに関しては無いだろ?」
「いいや。恋は盲目と言うだろ?例え、向こうが遊びの恋と考えていても女ってのは一途だぜ」
「アガーテさんを泣かせたら俺が殺してやるっ」
些か物騒な事を言う男に、新聞を読んでいた男は苦笑した。
『殺してやる、か。お前さんが逆に殺されるぞ?何せ相手は・・・伯爵様だからな』
そう・・・アガーテが愛した男は、暗黒街の領主と謳われる伯爵だった。
ただあくまで噂だ。
だが、アガーテが誰かを想っているのは、周知の事実とされている。
本人は黙して語らないが、もはや事実と周囲が決めているのだ。
午後の13時。
やっと客足も落ち着いた所で、アガーテにも昼食の時間がやってきた。
「ふぅー、やっと昼食に有り付けるわ」
テーブルに腰を降ろして、自分で造ったカフェを飲む。
これから昼食を取ったら、暫くは自由時間とも言える。
午後を過ぎるとさほど、人が来ないのだ。
今日はアルバイトの学生が夕方に来る。
最初は一人で切り盛りしていたが、やはり一人では荷が重いし、運用も充実してきた事から学生を2人ほど雇った。
どちらも大学生で、学費を稼ぐ為に働きたいらしい。
その純真な心にアガーテは心を撃たれて、一気に二人も雇ったのだ。
昼食を終えて、暫くシャンソンを一人で聞いていると洒落た電話機が鳴り始めた。
「はい。こちら魔弾の射手です」
『・・・・・・“ザミエル”。仕事を頼みたい』
ドスの効いた低い男の声が受話器越しに聞こえて来る。
「はい。どのような注文でしょうか?」
対してアガーテは、まったく顔に出さず流れる動作で聞いた。
『少し掃除を頼みたいんだ』
「畏まりました。では、夕方の18時にそちらに行きますが、良いですか?」
『あぁ。頼む』
ツー、ツー
電話が切られた音が受話器から聞こえてくる。
「掃除、か。あれからもう3年も経つのね」
あの日から、ザミエルと言う名と魔弾の射手という称号を得てから既に3年という月日が経過している。
そんな事を改めて実感するアガーテ。
あれから3年も経つのに、まるで衰えた気持ちがしない。
寧ろ以前より洗練された気がする。
「きっと人間を捨てたからね」
3年前に人間を捨てた。
その時から以前の名前も捨てた。
過去も家族も経歴も全て。
アガーテは久し振りの本業だ、と自身に言い聞かせた。
3年前に人間を捨てたアガーテだが、その3年間で請け負った本業は僅かだ。
殆ど請け負っていない。
いや、殆ど請け負う事も許されなかった、と言うべきであろうか。
彼女が仕える主は、自分に対して何処か負い目を感じている。
だからだろうか?
この店を任された。
きっと裏の世界で生きずに表の世界で、生き甲斐を見つけて欲しいのだろう。
『あの方も・・・・過去に傷を負う者、なのね』
過去に傷を負う者だからこそ、自分の気持ちを痛いほど理解している。
あの男の過去は噂程度で知らない。
あの男自身が話そうとしないからだ。
アガーテ自身もそれを無理に聞こうとはしなかった。
「どんな仕事かしらね・・・・・・・・・・・・・」
最近は表の仕事が忙しくて、ライフルを持つ事も無かった。
そのブランクをどうにかして回復させないと不味い、とアガーテは思った。
夕方になり、バイトの大学生が来た。
「私はこれから出かけるから店番を宜しくね」
「何処に行くんですか?」
「古い友人に会いに行くの」
「友人?」
「えぇ。とても良い方だけど、哀しい方よ」
とても深く、底が見えない沼のように深い悲しさ。
その古い友人を話すアガーテは、本当に哀しそうな顔をしていた。
普段とは違う。
そうアルバイト生は思った。
「その人をアガーテさんは、助けたいんですか?」
「えぇ。私の恩人であり・・・・大切な方だから」
そうアガーテは答えて店を出て行った。
アガーテが向かった場所はマルセイユの丘に立つ白い家。
ここは古い友人であり大切な人が住む家。
その家まで徒歩で行き、ドアに付いた鈴を鳴らす。
すると、ドアが開いた。
「久し振りだな。ザミエル」
ドアを開けて出て来たのは男だった。
身長は192cmもあり、アガーテより頭が2つ分もある。
黒い髪を一本に纏めており衣服も黒尽くめで、その姿はまるで黒い悪魔だ。
端正な顔立ちで東洋系と西洋系の血が上手く混ざり合い、彫が深い顔立ちとなっていた。
しかし、右目の眼帯が常人ではない男という事を思わせている。
「お久し振りです。・・・我が主」
アガーテは、片膝を地面に着かせて、男の右手を取り恭しくキスを落とした。
彼女なりの忠誠を表しているようだ。
「元気そうで何よりだ。入れ」
男はアガーテの肩を掴んで優しく立たせて、中へと入れた。
中に入ったアガーテは一歩後の感覚で男の背中を追った。
とても大きな背中でありながら、とても小さな印象を受ける。
まったく矛盾しているが、そうなのだ。
居間へと通されると一人の女性が酒を飲んでいた。
茶色の長髪を男と同じように真後ろで一本に纏めたスタイルを取っている。
こちらは、ブラウン色などの色を好んで着ている。
年齢は男より若く20代半ば位で、こちらも端正な顔立ちであるが、何処か危険を好むように見えた。
赤ワインのように赤い道を好き好んで歩くような女だ。
しかし、決して無闇に進むようには見えなかった。
黄緑色の瞳がこちらを見た。
澄んだ瞳で何処か面白がっている眼にアガーテには見えた。
「久し振りね。“ザミエル”ちゃん」
女はアガーテの渾名をちゃん付けで言った。
「お久し振りです。ガブリエル様」
アガーテは、女性の本名を言った。
「どうかしら?表の職業は」
「充実しております。しかし、私には闇の世界が似合っておると痛感しております」
「・・・・・・・・・」
男はそれを聞いて無言の顔を更に貝のように閉じて、懐から煙草を取り出して銜えた。
「そう。私は、貴方が生きたいようにすれば良いと思っているから良いけど」
ガブリエルと言われた女性はグラスを煽り、アガーテにこう言った。
「それで、どうなの?今回の仕事は」
「御引受け致します。しかし、3年間のブランクはとても大きいです」
「尤もだわ。常に硝煙と血の匂いを銃に嗅がせておかないと、どんな猟犬も鼻が廃るからね」
「期日はどれ位、頂けますか?」
それは、この人に聞いて。
ガブリエルは煙草を吸う男に眼をやった。
男は無表情な顔をしていたが、よく目を凝らして見れば、迷っていると解かる。
「我が主よ。この狩人の質問にどうかお答え下さい」
いつまで期日を頂けますか?
男は、我が主と言われた男は暫く無言だったが、答えた。
「・・・・・1ヶ月だ」
「畏まりました。では、その日まで必ず獲物を仕留め、貴方様に献上致しましょう」
「決まりね」
ガブリエルはグラスをテーブルに置いて、茶色の封筒をアガーテに渡した。
「これが今回の獲物の資料よ」
アガーテは、封筒の中身を開けて見た。
「ハンター・ティモンズ。元フランス警察でGIGN-フランス国家憲兵隊介入部隊に所属していた警部だが・・・・・・・現在は、殺し屋」
遠距離での狙撃が得意でその距離は、1000mにも及ぶ。
ライフルはGIAT FR-1ボルトアクション式ライフル。
アガーテは流れるように資料を読む。
「狙撃という事もあって、私たちより貴方に向いていると思ったのよ」
「ブランクを直すには、もってこいの獲物です」
「と言うと?」
「ここに来るまで考えておりました。これからは、闇の世界の仕事をもっとこなそうと」
つまり爪先まで踏み込んでいた足を片脚とまで言わず、両足ともども入れようと。
「それは・・・・・・・・・・」
男が、何かを言おうとした。
「我が主。私は貴方の僕です。しかし、パンサー殿達と違い、私は狩人です」
どうか聞き届けて欲しい。
私の願いは、貴方に害なす者共を容赦なく狩る任務が第一。
決して表で幸せになろうとは思っていない。
だから、どうか聞き届けて欲しい。
私は狩人であるが、犬ではない。
どうか、自分の意思を聞いて欲しい。
お願いです。
どうか、どうか聞いて下さい。
「・・・・・・・・・・考えておく」
男は苦しい言い訳に近い言葉を述べた。
「主・・・・・」
「ザミエルちゃん。この人の気持ちも少しは組んで頂戴」
ガブリエルが静かに語り掛ける。
先ほどまでの声とは違い、静かで制止させる力がある。
「分かりました」
アガーテは静かに片膝を着いた。
「我が主。必ずや獲物を仕留めて御覧に入れます」
「あぁ・・・・・・・・・」
男は煙草を灰皿に捨てて頷いた。
その背中は、何処かやはり小さかった。