夏のあの忌まわしき音
※武頼庵(藤谷K介)様主催『みずに纏わる物語企画』参加作品です。
※公式企画『夏のホラー2026』参加作品、テーマは『音』です。
――ふと気がつくと、僕は涼やかな風の吹く草原に立っていた。
あ、これは夢だな。
すぐにわかった。僕はなぜか少年の頃の姿になっていたからだ。
本当の自分はもうくたびれた中年男で、自分を『僕』なんて呼ばなくなって久しいのだけど。
少し離れたところからは白樺のような木の森になっていて、何やら人々が楽しそうにはしゃいでいる気配がする。
その手前で、初恋の子に少し似た美少女が立っていて、にこやかに手招きをしていた。
とりあえずそちらに歩いていくと、その少女も駆け寄ってきて、僕の手を握ってきた。
「ねえ、キミもいっしょに遊ぼう!」
きれいな鈴の音にも似た声で話しかけてくる。
「遊ぶって、何をして?」
「何だっていいんだよ! みんな向こうで待ってるから、早く行こうよ!」
彼女が森の方を指差す。そこには、僕らと同じくらいの歳の子どもたちが、楽しそうに追いかけっこをしているのが見えた。
ああ、楽しそうだなあ。
彼女が僕の手を引いて、森の方へといざなう。
僕は少しワクワクしながら、彼女と一緒に歩き始めた。
だけど少し歩いた時──僕はそこに、きれいな水がちょろちょろと流れる小さな川があることに気づいた。
それを見て、『僕』の中にかすかに残る大人の『俺』の部分が、最大級の警戒警報を発する。
――マズい! これは絶対に渡ってはいけないヤツだ!
やめろ、行くな! そこを超えたら二度と戻れなくなるかもしれないぞ!
必死で伝えようとしたのが少しは届いたのか、『僕』は小川の手前でためらうように足を止めた。
「――どうしたの?」
「本当に行ってもいいのかなぁ。お母さんにまだ何も言ってないし」
「大丈夫、後で言えばいいよ」
「それに、知らない子となかよくなれるか、自信ないし」
「心配ないよ。みんないい子だし、あそこではイヤなことなんて何もないんだから!」
少女はニコニコしながら誘ってくるけど――大人の『俺』は気づいてしまった。子どもたちが遊んでいる楽園のような森の奥──そこには禍々しさを持ったどす黒い霧のような何かが、ぞわぞわと蠢いている。
おそらく、誰もがあの楽園にいられるわけではないのだろう。その資格を持たない者は、向こうのあの闇のような何かに呑み込まれてしまうのではないだろうか。
そして──『俺』はどっちだ?
これまでに犯罪をやらかしたことはないけど、そこまで品行方正だったわけでもない。
自分は、あの楽園に留まれるような人間だと言えるのだろうか?
そういう視点で観察してみると、彼女の誘い方はちょっと強引だし、その表情にも何か含むものが垣間見える。
でも子どもの『僕』は、すっかり楽しそうな楽園の様子に心惹かれていて、『俺』が気づいた違和感にはまったく意識が向いていないようなのだ。
──ダメだ、行くなって! これは罠かもしれないんだぞ!
『俺』は何とか『僕』に伝えようとするのだが、『僕』はいそいそと森へと歩みを進め始めた。
チクショウ、何とかならないのか!? このままじゃ──!
その時、耳元にかすかに不快な音が飛び込んできた。──蚊の羽音だ。
なぜかやたらと蚊に刺される俺にとって、この音はこの世で最も忌々しい音なのだ。
その音が頬の近くで止まったのを感じた俺は、頬のあたりを思いっきり引っぱたいて──。
その痛みで、目が覚めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――うう、頭痛ぇ……」
どうやら昨夜の俺は、しこたま呑んだあげくに、マンションの自室の玄関で倒れるように寝てしまったらしい。
電気もつきっぱなしだし、脱ぎ散らかした靴がドアに挟まって半開きになったままだ。そりゃ、蚊も入ってくるよなぁ。今も何匹か飛び回ってるし。
クーラーもつけてなかったので、サウナのように蒸し蒸ししていて、ヤバイくらい汗だくになっている。
俺は猛烈な喉の渇きを感じて、急いでキッチンに行って冷蔵庫のミネラルウォーターをがぶ飲みした。
──あっぶねー。もし朝まで目が覚めてなかったら、脱水症状か熱中症でかなり危険な状態になってたかもしれない。
いや、それどころか、あの少女に誘われるがままに小川を渡って森の中に行ってたら──と想像して、ぞっとする。
──ふと鏡を見ると、頬に潰れた蚊の死骸がついてるのに気付いた。心底憎たらしいヤツだけど、今回だけはこいつに命を救われたと言えるかもしれない。
俺はその死骸をそっとティッシュでふき取ると、軽く手を合わせてヤツに感謝の言葉を送り、冥福を祈るのだった。
――ただ、お線香はウチになかったので、代わりに火をつけたのは『蚊取り線香』だったんだけど。




