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魚人姫

このお話は人魚姫をモチーフに、シュールな設定でお届けします。

しかし、設定のコメディ加減とは裏腹に割りと甘く仕上がっております。

このシリーズ共通。肩の力を抜いてお楽しみくださいませ。

 海の中の、奥底の、さらに深い所にあると語り継がれる珊瑚と海藻で彩られた魚達の帝国。そこを訪れし者は誰もなく、しかし存在だけは知られている、未知の地。

「はぁ……」

 そんな場所に、上半身は魚、下半身は人に生まれついてしまった、半魚人の娘がいました。彼女は自らの運命を呪い、今日も一人溜息をついています。だって、父も母も見目麗しく、水底でも光り輝く美貌を持っているのに、生まれてきた彼女の顔は、比喩ではなく本当に魚そのものだったのですから。これを憎まずとして、何を妬むというのでしょう。

 それでも、そんな彼女にも、憧れる物は存在しました。

「人魚姫みたいな恋がしたい」

 美しい容姿と声を持ち、王子様とのすれ違う想いを描いた悲恋の物語。儚くも綺麗なそれに、彼女は幼い頃から虜になっていました。否、こんな姿だからこそ、素敵な思い出と共に消えていきたかったのかもしれません。

 そして、小さな頃の願いは消えないまま、十八歳になり、家を出て一人暮らしを始めたある時、ふとこんな事を思いついてしまいました。

「無いのなら 作ってしまえ 物語 半魚人でも 恋がしたいの」

 飽きるほどに、ページがすりきれるほどに何度も何度も読んでいた、憧れの物語。実現する為なら、彼女は本気でした。

 ……彼女の最も不幸だった点は、親身になって心配し、止めてくれる優しいお姉さんがいなかった事でしょう。一人っ子で大切に育てられた事も手伝って、大抵の事は何でも叶うと思っておりました。その為、彼女は自分の道をどかどか突き進む事しか出来なかったのです。

「まずは……王子様を探す所からよね」

 本来ならば偶然出会う所なのですが、生憎とそれを悠長に待っていられるほど、彼女の気は長くありませんでした。それに、現代に王子など、ほとんどいません。いたとしても、彼女のお眼鏡には適わなかったり、警備が厳しくて近付けないなどそこには多くの壁が存在しました。

 しかし、彼女はそのぐらいでめげたりはしません。

「障害が多いほど、燃える物よね!」

 むしろ、俄然やる気となって、王子様探しを続行しました。


 それから、一カ月ほど経ち、もうやっぱりいい加減諦めた方が良いかしら、とようやく思いかけつつも捜索を続けていました。その一環で、情報収集にと流れてきた雑誌やらをめくる日課をしていると、向こうからどんぶらこどんぶらこと何やら紙が流れてくるではありませんか。

「何かしら……」

 ややぐしゃぐしゃになり、丸まっているそれをそーっと開くと、

「まぁ! なんて格好良いの!」

そこには、彼女好みのイケメンがポスターから微笑んでいました。さらにそこには、“流星のごとく現れた現代のプリンス”と書かれています。

「彼に、決まりね」

 甘いマスクが売りの人気絶頂アイドルは、こうして知らない間にこの物語に巻き込まれる事と相成りました。


「うーん……でも、どうしようかしら」

 さて、ようやくお目当ての王子様を見つけた魚人姫。しかし、彼女の前にはまた新たな難関が立ちふさがりました。そう、それは衝撃的な出会いの場面。王子の窮地を救うというシーンです。

――本当に嵐で襲わせる訳にも行かないし、というか出来ないし。

 ところが、そんな彼女のねじ曲がった根性、否、想いが伝わってしまったのでしょうか。なんと、彼が写真集の撮影にと向かったとある南の島に、本当に台風が近付いていってしまったのです。

「ちょ、嘘でしょう……!?」

 テレビで彼の居場所を知り、風の妖精からお天気情報を聞いた魚人姫は、急いで彼の下へ、南の島へと向かいました。


 一方、何も知らない撮影隊御一行。それもそのはず。何故なら、今は雲一つない青空だったからです。これでは、例え台風が近付いていると言われてもピンとこないのも当然でしょう。

「良かったわねー。良いお天気で」

 そんな訳で、スタッフ一同快晴を喜んでいましたが、当の本人であるアイドルだけは、何やら不穏な雰囲気を感じ取っていました。

「ああ……」

――おかしい。このメンバーでこんな晴天なんて。

 彼自身もそうでしたが、実はこの撮影隊、マネージャーやカメラマン、メイクや衣装など諸々含めて、雨男・雨女が集まった集団だったのです。

 当然のごとく、彼の嫌な予感は的中します。しばらくの間は順調に進み、粗方写真も撮り終わり、後は海岸で波と戯れるシーンを残すのみとなりました。そこで、浜辺に向かうと、

「なんか雲行き怪しくないか!?」

そこには先程の晴天とは打って変わって、一面の雲が広がっています。

「あら、いいじゃない。荒れ狂う日本海をバックに、野性味あふれるイケメン。す・て・き」

「俺はそういう方向で売ってないし、大体ここ太平洋だぞ!?」

「細かい事は気にしなーい☆」

 彼のツッコミも、珍しく晴れで撮影スケジュールに余裕があって、るんるん気分のマネージャーの耳には届きません。

――仕方ない。さくっと撮って、さっさと帰ろう。

 そう思い、波打ち際に足を踏み入れたその時です。

「なんだ、あの風!」

 背後の海から、竜巻がやってくるではありませんか。

「うわっ」

 叫び声を上げる暇も無く、彼は風に攫われ、そのまま水の中に呑まれてしまいました。


「ちょ、まじ!?」

 さて、事の次第の一部始終をこっそり窺っていた魚人姫。流石の彼女も、この突然の出来事には驚きを隠せませんでした。しかし、そこは半魚人。大切な王子様候補を守る為、自ら沖へと向かって泳いでいきます。

「見つけた!」

 そうして、ようやく海の中で意識を失っているアイドルの姿を確認するや否や、ものすごいスピードで突進するように水をかき、彼を波から奪い返しました。そのまま全身で彼を支えると、必死で海面を目指して泳ぎます。

――絶対、助けてみせるんだから!


「あー、吃驚した。私、泳ぎだけは得意で良かったわ」

 どうにかこうにか、近くの浜辺まで彼を担いでこられた魚人姫。幸い、アイドルの方も気絶しているだけのようで、命に別条はないようです。

 ですが、彼女の紡いだ筋書きはここから狂いだすのでした。

「う……」

「やばっ、気が付いちゃった。逃げなきゃ」

 そう、ここでばれてはお話通りにはいきません。後で偶然を装って立場を違えて出会う所に意義、あるいは醍醐味があるのです。ところが、

「え?」

がしっと力強く、彼女の足首は何者かの手によって掴まれてしまいました。

「逃げるなよ。……あんただろ、俺を助けてくれたの」

 どうやら、彼女が隠れる前に、彼の方が先に意識を取り戻してしまったようです。そうなってはもう仕方ありません。

「え、ええ。そうよ」

 せいぜい格好付けて、虚勢を張って答えます。

「ありがとうな……」

「ちょ、ちょっとまだ寝てた方が」

 まだふらふらなのに起き上がろうとするアイドルを、魚人姫は肩を持って再び寝かせようとします。その際、ばっちりと目が合いました。

「って、魚あああああああああああああああああああああああああ!?」

 すると、まだぼーっとしていたはずの彼はいきなり飛び上がりました。まぁ確かに、目の前に魚の顔があって、しかもそれが今まで喋っていた相手だと分かったら、そりゃあ驚くでしょう。

「し、失礼ね! 魚人よ、半魚人」

「ああ、それは悪かった……って、変わらねえよ! 魚は魚だろ!」

「だーかーらー! 体は人なんだってば!」

 論より証拠、とばかりに彼女は自らの足をつき出して見せつけます。

「ほれ」

 そうすると、事態を把握したアイドルは再び叫び声を上げました。

「うわああああああああああ触るなああああああああああああああああああああああああ」

「ど、どうしたのよ」

「ち、近付くな。頼むから近付くな」

 顔を真っ青にして冷や汗を流しつつ、彼女からじりじりと距離を取ると

「俺はな、俺はな……」

深刻そうな表情に脂汗を浮かべながら、力弱くこう言いました。

「女性恐怖症なんだ……」

「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」

 これには、流石の魚人姫も驚きました。そりゃあ、自分がこれから恋仲になろうとしている相手が女性恐怖症では、望みは薄いどころか、無いに等しいと言って良いでしょう。

 それでも、そこはポジティブ娘。自分にしかない強みを見出します。

「さ、さっきまで散々魚、魚言ってたじゃない!」

「魚だと思ったから平気だったんだよ! なんだその格好は!」

 彼女の格好は、一般的に語り継がれる人魚姫よろしく、貝殻の水着でした。ただし、凹凸が少ないので大変残念な感じにはなっていましたが。しかし、今更ではありますがそれを指摘された魚人姫は、途端に恥ずかしくなってしまいました。

「海に住んでるんだもん! 仕方ないでしょう!」

「だったら競泳用の水着でも着てろ!」

 どうやら、露出が多すぎるのが直視出来ない理由だったようです。

「どんだけ速く泳がせたいのよ! 世界記録なんて楽々更新出来ちゃうじゃない!」

 彼女も彼女で混乱していますから、ツッコミがある意味秀逸です。その思わぬ鋭さに、彼はお腹を抱えて笑ってしまいました。

「え、もう、なんなのよこいつ……」

 笑われた魚人姫は、もう何が何だか分からなくなって更にパニックになります。その間にも、彼の笑いは収まりません。

 そして、ようやく笑い声が止まった後、彼は良い事を思いついた、というような先程とは違った、楽しそうな笑顔を浮かべました。

「お前……面白いな」

「え?」

 その爽やかさに、ドキッとして顔を赤らめる彼女。照れてしまって、何も言い返せなくなってしまいます。

「よし、これも何かの縁だ」

「は?」

 ですが、何か自分の預かり知らぬところで話が進んでいく、嫌な予感を覚えました。そしてそれは、見事に当たってしまいます。彼の、次の言葉によって。

「お前、今日から俺と一緒に住め」

「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」

 こうして、アイドルとの奇妙な共同生活が幕を開けてしまったのでした。


 とりあえず無人島にいてもどうにもならないからと、どうにかこうにかマネージャーと連絡を取り、船で本島まで戻りました。その際、彼には何も聞くんじゃない、と口止めをして。それから、目立って仕方が無い魚の頭部を隠しつつ、なんとかアイドルの家まで帰ってきたのです。

「なんで、いきなりそんな展開になるのよ……」

「それが、ちょーっち訳ありでね」

 魚人姫がどんなに理由を聞いても、彼はそうやってはぐらかすだけでした。

「ほい、着いたぞ。とりあえず中入れ」

「意外と綺麗にしてるのね」

 都内のとあるオートロックのマンション(1LDK)。一人暮らしにしては若干設備が良過ぎる気もしましたが、人気アイドルだからそんなものなのかな、と彼女は思う事にしました。

「まぁな。さて、どこから話すかな……」

 ようやく人目を気にしなくて良くなったからか、彼は事情を話す気になったようです。魚人姫にソファを勧め、自分は部屋の中をうろうろしながら語り始めました。

「事の起こりは、兄貴が今の事務所のオーディションに俺の写真を送った所から始まる」

「あ、そこはお姉さんとかお母さんとかじゃないんだね」

「うちは父子家庭でな。ついでに、四人兄弟の末っ子だ」

「わーい、男だらけ」

「ちなみに勿論男子校」

「そりゃ、免疫無いわね」

 彼女の言う通り、絵に描いたように、ご都合主義なくらいに、アイドルは女性に縁がなかったようです。

「そうなんだ。しかし、だからこそ俺も気が付かなかったんだよ」

「それはそれですごいわね」

「で、発覚したのは、デビューが決まって、とあるテレビ番組に出た時の話だ。司会者のアナウンサーにポン、って肩を叩かれただけで、じんましんが出た」

「うわーい」

 しかもタレントやアイドルではなくアナウンサーというところが、彼の恐怖症を筋金入りにしています。

「そういう訳で、俺のこの恐怖症を治す事は早急の課題となったのであった」

「……つまり、女性ファンが多いのに握手会すら出来ないなんてアイドルの致命傷だから、それをどうにかこうにか克服する為に、同棲相手を探していた、と」

「そういう訳だ」

 綺麗にまとめてはしまいましたが、魚人姫は内心の動揺を隠せずにいました。

――どうしよう……。全く、ややこしい奴を標的にしてしまったものだわ。

「社長なんかはまだ駆け出し中のグラビアアイドルとか勧めてくるから、どうしようかと思って。本当、助かったよー」

 しかし、打って変わって嬉しそうな表情をする彼に、一旦悩みは横に置いておこうと考え直しました。

「そりゃどうも……」

――まぁ、こうやって家に入れてもらえただけでも進歩よね。

「うし、じゃあ早速」

 ですがここで、アイドルの口調が先程までのおちゃらけたものから一変して、真剣なものへと変わりました。

「?」

「着替えて」

 先程から、彼女の方を見る事もしないで何やら一生懸命捜索していると思ったら、その手にはスウェットの上下が握られていました。


「これで、いいの?」

 渡されたスウェットになんとか着替え終わった彼女を、アイドルは笑顔で迎えました。彼が満足しているようなので何も言いたくはありませんが、魚にスウェットというのは些か、いえあまりにもシュールな光景ではないでしょうか。

「うん、その格好なら、どれだけ近付いても問題は無いな」

「へぇー」

「だってほら、こうしていれば男か女か分からないし」

「まだひっぱるか……。そうよどうせ私は」

 肌が隠れて強気になった彼に、魚人姫はすねるようにいじめるようにぶつぶつ文句を言おうとします。ですが、

「いや、それだけじゃない」

どうやら、彼が上手に出てきた理由は、新たな発見の方にあったようです。勿体ぶってしばしためつつ、お手本のようなドヤ顔を決めて言い放ちました。

「モヒカンの女子は、いない」

「!?」

 そう、よくよく見ると魚の頭ですから、髪型がモヒカンのように見えるのです。実際、それは髪ではなく、

「モヒカンじゃないわよ! ひれよ、ひれ!」

泳ぐ為に必要なそれだったりする訳ですが。しかし、彼はこの新発見にご満悦でした。

「人間で言ったら髪だろうよ」

 なにせ魚だし。魚万歳。無邪気に言うアイドルに、彼女はちょっぴり意地悪したくなりました。

どれだけ近付いても、というのならと、魚人姫はずいずいと彼に近付いていき、腕にぴとっとくっついて、

「このぐらいでも?」

と上目づかいで言いました。

「だから触るな! さぶいぼが出る!」

 しかし、その可愛さは伝わらなかったようで、彼はずささささという音と共に高速で後ずさりします。

「さぶいぼって、言い方古い」

 そんな彼に、彼女は冷静にツッコミを入れます。蝶よ花よと愛でられて育ったプライドが傷ついたのもあり、冷やかなものになったのでしょう。

 指摘された方のアイドルは、少しだけ耳を赤くし、咳払いをして強引に話題を変えました。

「そういえばさ、お前のその魚って何なの? アジとかマグロとか、そういうんじゃないよね?」

 一目見た時から、魚である事は分かるのですが、どうしても種類が分からないそれが彼は気になって仕方がなかったようです。

「ましてや、深海魚の類でもないわ。私にもよく分からないの」

「そうなのか」

「でも、皆がイメージする魚、って感じじゃない? 魚って言われて書くやつ」

「あー」

「まぁ、種類には意味は無いわね。そういうものだから」

「ふーん」

 少し含みのある言い方に気になりはしましたが、アイドルはそれ以上追及しませんでした。他にもまだ聞く事がありましたし、何より人間だれしも、触れられたくない事はあると知っていたからです。

「もう一つ、いいか?」

「何?」

「お前っていくつなんだ?」

「十八だけど?」

「え」

 これには、彼も素で驚きました。何故なら、

「それにしちゃ、その……」

「幼児体型で悪かったわね!」

そう、先程もちらっと書いたように、彼女は年の割には小柄ですし、発育があまり良くなかったのです。

 けれども、ここでふと思いつき、彼は考えを変えました。

「いや、むしろ可だ」

「は?」

「あんまりスタイルが良過ぎたら、俺は同じ空間にすらいられなくなる」

「……それ、複雑なんですけど」

 褒められているんだか貶されているんだか、微妙過ぎる物言いに、魚人姫は顔を渋くするしか出来ませんでした。

「というか、同い年か。それじゃあ尚更、仲良くやろうぜ」

「……むぅ」

 腑に落ちない点はいくらでも存在しましたが、何の準備もなしにこちらに来てしまったので、とりあえず彼女はしばらく彼の下で厄介になる事にしました。


 ですがそこは、今をときめくトップアイドル。帰って数時間もすると、次の仕事場に出掛けていきました。彼女は疲れからかソファで眠ってしまっていたので、布団だけ掛け、そのまま置いて。

 ところが、それが危うく大事件になりかけた事を、彼は帰ってから思い知る事になるのです。

「ただいまー」

 一応共同生活を送っている身ですので、帰宅時の挨拶は忘れませんでした。ところが、うんともすんとも返事がありません。おかしいな、と思いつつ、彼は電灯のスイッチを入れます。

「おーい、帰ったぞー。……って、ええええええ」

「み、水……」

 そこには、干からびかけてふらふらになっている魚人姫の姿がありました。

「分かった。分かったから服は着ててくれよちくしょう!」

 どうやら、誰もいないからとまた元の水着姿に戻っていたようです。これは彼にとって、過酷な条件でした。

「……仕方ないか」

 それでも、目の前で死にかけている彼女を放ってはおけないので、まず蛇口をひねり、風呂に水を入れました。そしてバスタオルを持って来て体の上にかけると、そのままお姫様抱っこで浴槽へと運び入れます。

「おりゃっ」

 多少水ははねましたが、そんな事を気にしている余裕はありません。また、その反動で頭からつかる形になってしまいましたが、そこは流石魚。かえって其方の方が都合がよかったようで、みるみるうちに元気を取り戻しました。

「ふぅ……。生き返った……」

「お、俺も死ぬかと思った……」

 一世一代の仕事を終えた彼の方が今度はくたくたになっていましたが、楽しそうに水と戯れる彼女の姿を見て、少し癒されたようです。

「とりあえず応急処置だ。悪いな、そんな所で」

「問題無いよー。水があれば」

「そうか。ならいいんだけど。半分魚ってのも、大変なんだね」

「そうよー。海の中じゃ泳ぎは遅いし、力は弱いしで結局弱者だし」

「ふーん。でも、あんな風に自由に泳げるのって羨ましいけどな」

「そうね。そこだけは感謝しなきゃ」

 だって、だから貴方を助ける事が出来たんだから。聞こえないようにそっと、呟きます。

「なんか言ったか?」

「ううん。……あ」

「なんだ?」

「間違ってお風呂焚かないでね……?」

 後で水の出し方とか教えなきゃな、などと彼女に配慮すべき事を真剣に考えていた彼でも、これは予想外のお願いだったようです。再び、へそで茶が沸かせるぐらいの勢いで笑い転げました。

「な、何よ! 笑う事ないでしょう! 死活問題なんだから」

「わーってるよ」

 沸かすか、バカ。そう言った彼の笑顔はまぶしくて、反則だ、と彼女は火照った頬を冷やす為に顔を水中に沈めました。


「ほい、お土産」

「きゃー!」

 翌日。彼が買ってきてくれたのは、彼女が楽に入れるぐらい巨大な水槽でした。しかも、下にキャスター付きの台も備わっているので、動き回る事も出来そうです。

「これなら温度管理も出来るし、間違っても熱くはならないだろ?」

「ありがとう」

 にこにこと笑いながらぴちゃぴちゃ飛沫をはねさせてはしゃぐ彼女を、やわらかな眼差しで見つめるアイドルの姿がそこにはありました。


 そんな共同生活を初めて、大した進展も無いまま――強いて言うなら、少しだけアイドルが魚人姫に慣れてきて――早くもひと月経ってしまった、ある日の事。

「なぁ」

「んー?」

 いつものように夜遅く帰ってきた彼は、ソファでくつろぎながら突然彼女に尋ねました。

「ずっとそこにいて、退屈じゃない?」

 確かに、彼がいない時は暇で暇で仕方がありませんでしたが、

「でも君忙しそうだし、時間なんてないでしょう?」

そう、彼は天下のトップアイドル。朝から晩まで働いて、彼女と暮らし始めてからは一度も休みらしい休みはありませんでした。そこで、彼女の方も言い出しづらくなっていたのです。

「それがだな。今日は一日オフなのだよ」

「オフ?」

「休みって事」

「でも休みならゆっくりしてた方が」

「あー、もう」

 お互いにお互いの事を思うからこそもどかしくなって、

「そんじゃあれか、こう言えば良いのか!」

ついにアイドルの方がしびれを切らして言いました。

「俺が、あんたと出掛けたいの!」

 そう大声で叫んでから、まず彼が、次にその言葉の意味を理解した魚人姫が、顔を赤らめました。

「そ、それなら……。行ってあげない事も、ないのよ?」

 最後は何故かツンデレ風味になってしまいましたが、こうして二人の初デートとなったのです。


 しかし、デートは困難の連続でした。何故ならこれが、彼女が人の多い所へ出た最初の事でもあったからです。

「ひ、人がいっぱいいる……」

 道を埋め尽くすかのように大量にいる人の群れを見て、彼女は恐怖を覚えたようです。ちょうどその日は休日だった事もあり、いつもより更に多くなっていますから無理も無いでしょう。

「おう。そりゃあ、都内だからな」

 ですがそこは人気アイドル。人混みなど普段から慣れっ子ですから、人波に流されそうになる彼女をかばいつつ余裕で答えます。

「都内?」

「んー、大都市って事かな。とりあえず人が沢山いるところだ」

「ふーん」

「まぁ、その帽子深ーくかぶってりゃなれないって」

「むー」

 折角外に出られたのに、また隠せと言われて景色も堪能出来ないまま、アイドルが袖をひっぱっていくのに身を任せていました。


 ところが、しばらくぷらぷらと歩いていると、どこからともなく甘い匂いが漂ってきて、彼女は思わず目を輝かせました。

「あ、クレープ!」

「なんだ、そういうのは知ってるのか」

「うん。雑誌で見たの! 甘くておいしい食べ物なんでしょう?」

「ああ。なんだ、甘いもの好きなのか?」

「うんっ」

 海の中に甘い物なんて存在するのだろうか、てんぐさとかあるけど乾燥出来ないよなぁ、とも思いましたが、魚人姫のそのあまりの期待に負けました。

「じゃあ待ってろ。買ってきてやるから」

 なんだかやっとデートっぽくなってきたな、とはにかみながら、るんるん気分で彼女はアイドルを待ちます。

「くーれぇぷー。くーれぇぷー♪」

 けれども、まだかまだかと顔を上げて目を凝らしていたのが悪かったのでしょう。

「やっべえ! あれ人魚? ねぇ人魚?!」

とうとう、彼女の正体に気付く者が現れました。

「いやあれは魚人だ! あんな不細工な人魚がいてたまるか!」

「じゃあさじゃあさ。あの肉食べたら長生きできんの!?」

「やっべえ不老不死かよ!」

「俺は涙って聞いた事もあるぞ!」

「いやそれも人魚だからっ。半魚人じゃダメなんじゃね?」

「ちぇー」

「いや、でもやってみないと分からないし」

 そんな遠巻きに発せられる黒い言葉を、彼女は黙って受け止める事も出来ずに聞いていました。

――そう、だよね。普通はこういう扱いなんだよね。

 アイドルやその周りのスタッフが好意的に受け入れてくれたので今までは気にもなりませんでしたが、自分と違う異質な物を見た時の反応は、大体こんなもの。分かってはいたはずなのに、魚人姫はそれをすっかり忘れていました。

「ごめんごめん。混んでてさ……って、なんだよこの騒ぎ」

 思考が闇に染まってきた所で、彼がようやく帰ってきました。

「ああ……。私が魚人だって事に気が付き始めたみたいね」

 あはは、と自嘲的に笑う事しか出来ない彼女。折角のクレープも、萎れて見えました。

「でも安心して。皆、怖がって近付いてきやしないから」

 珍しいだけであって、決してそれは人気者という訳ではない。彼女を取り囲んだ円が、それをよく象徴していました。

「好き勝手言いやがって……、このっ」

「いいよ。それより、早く行こう」

 これ以上いたら、彼の事までばれてまた騒ぎが大きくなるかもしれない。迷惑を掛ける事だけは避けたかった魚人姫は、今度は自分から彼の袖を引いてその場を離れ始めました。

「……ごめん、辛い思いさせた。やっぱ外に連れ出す訳にゃ」

「ううん。楽しかった。それは、本当。君と来られて良かった。ただ」

「ただ?」

「……好きでこんな風に生まれた訳じゃないのにな」

 あまりにも寂しそうに、帽子の縁を両手で押さえながら言う姿は、彼の胸を打ちました。


 後味悪く終わってしまった帰り道。騒ぎを聞きつけて迎えに来てくれたマネージャーの車に乗りながら、アイドルは彼女にだけ聞こえるように小声で言いました。

「なぁ、魚の姫さん」

「何?」

「話して、くれないか。あんたの事」

 それは彼にとって、勇気のいる言葉でした。

「もうちょいちゃんと、分かりあおうぜ。俺達」

 それでも、このままではいられない。ただの同居人だったはずの魚人姫に、何か新しい感情が芽生えた瞬間でした。

「……うん」


 それから、車内を無言で貫き通し、部屋に戻ってからようやく、彼女は重い口を開きました。

「……実はね、この姿は呪いなの」

「呪い?」

「こんな時代に有り得ないって思ってるでしょう?」

「まぁ、信じがたい話ではあるよな」

 でもそれを言ったら彼女の存在自体が危うくなってしまうので、アイドルはそれ以上何も言いませんでした。

「私のお父さんとお母さんはね、娘が言うのもなんだけど、とても素敵な美男美女夫婦なの」

「へぇ」

「だから、その二人の幸せを妬んだ奴等が、お腹の中の子どもに醜く生まれてくるように呪いを掛けたんだって」

「なんで本人にはかけなかったんだ?」

「皆、お父さんとお母さんは大好きだったのよ。ただ、あまりにも羨ましかったんだと思う」

 自分の目の前で、憧れの存在が手に手を取り合って仲睦まじくしている。そんな姿を見たら、誰だって羨んでしまいます。かくいう魚人姫も、そのうちの一人でした。

「でね、その呪いってすごく古いものだったんだって。だから、皆おふざけ半分でかけたんだってさ。で、そしたら私が生まれちゃった訳でしょう? 相当焦ったみたいね」

「な……。そんな」

 酷い事を、と彼は続けようとしましたが、言葉になりません。そんな彼を後目に、彼女はこう締めくくりました。

「だからね、今も彼らは私の呪いが解ける方法を探しているみたいよ。皮肉なものよね。かけたのは自分達なのに」

 最後の方は自棄になって独白を終えた彼女に、あえて彼は調子を明るくして言いました。

「じゃあキスでもしたら、解けるのかもしれないな」

「そんな事、軽々しく言わないでよ」

――期待しちゃうじゃない。

「……触れも、しないくせに」

――どうせ、私には恋なんて出来ない。出来るはずが、ない。

 溢れてこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえようと、彼女はあえて後ろを向きました。すると、ふわりと温かな感触が背中に伝わってきます。

「え?」

 驚いて振り返ると、なんと彼が後ろから魚人姫の事を抱きしめているではありませんか。

「ってあんた、触れないんじゃなかったの!?」

「なんていうかさ」

 優しく抱きしめたまま、彼は続けます。

「お前の事、可愛いなって思っちゃったんだよね」

「ふえ?」

 彼女が泣き腫らした眼の色と同じぐらい顔を赤く染めるのには、時間はかかりませんでした。


 と、ここまでは良かったのですが、案の定、アイドルはその後倒れてしまいました。

「ほら……結局こうなるし……」

 そうなっては仕方が無いので、彼女は水槽から出て、布団を敷いて彼を寝かせてやります。こちらでの生活にも慣れてきたのか、前よりも水中から出られる時間が多くなったようです。

「すまん」

「寝込む程の恐怖症なら、先に言っといてよ」

「うー」

――まさかこれほどとは……。もう大丈夫かと思ったら、甘かったみたいね。

 認識のずれを思い知らされつつ、甲斐甲斐しく世話を焼きます。

「まぁいいわ……。しばらく横になってりゃ治るでしょう。水、換えてくるね」

 熱も若干出てきているので、濡れタオルの水を交換しようと、彼女は立ち上がろうとします。ですが、最初に会った時のように、アイドルは彼女をつかんで行かせまいとしました。

「どうしたの?」

「頼む、そばにいてくれ」

 なんだか弱っている彼がとても可愛く見えて、魚人姫は浮いた腰を戻しました。

「はいはい」


 その後もずっと、彼女は彼の寝ているすぐそばにいて、看病を続けました。ですが、流石に疲れもあったようで、途中で一緒に眠ってしまいます。

 魚人姫が気付いたのは、彼が目を覚まし、布団から出ようとしている時でした。

「具合は良いの?」

「ああ、もう大丈夫」

「そう、良かった」

 心から安心するつもりと、彼とそのままいたかった思いが混ざり合って、彼女はなんだか複雑な気分になりました。

「じゃあ、行ってくるからさ」

「気をつけてね」

「そうだ、今日のテレビ見ててくれよ」

 さらっと意味深な台詞を残して、アイドルは朝日と共に出ていきました。


 彼に言われた通り、魚人姫はテレビをつけました。すると、昨日の事が早くもニュースになっていました。

「ふえー。事件になっちゃってるよう」

 内容は、突如街に現れた魚人が本物か否かを問うような構成になっていました。

『これについて、どう思います?』

『いる訳ないですよねー。CGとかじゃないんですかー?』

『ですよねー』

 科学者やら霊能力者やら民俗学者やらが熱弁する中、

『いいえ?』

画面の中の同居人が異を唱えました。

『彼女、俺と一緒にいますから』

 そして続けざまに、自らカミングアウトしてしまいます。これにはスタジオ中が騒然とし、前の話題など無かったかのように司会者が興奮した様子で尋ねました。

『じゃ、じゃあ同棲相手がいるという噂は本当なんですね?』

『はい。彼女がそうです』

『ちょ、ちょっと何喋って』

 突然の事に動揺したマネージャーがしゃしゃり出ようとしますが、彼は止まりません。

『ファンの皆さん、そういう事なんで。俺は彼女を愛してますが、これからも応援よろしくお願いしますね』

「え……」

――ど、どういう事……?

 アイドルらしい格好良い笑顔に目を奪われつつ、彼女が顔を真っ赤にして混乱しきっていると、

「俺の気持ち、届いたか?」

いつの間にか後ろに、当の本人が立っていました。

「え、これ生放送じゃ」

「へっへーん。ひっかかったひっかかったー。俺のところだけ撮りなんだよ。どうしても、これがやりたくてな」

 テレビで見るよりもさらにまぶしい笑顔にくらみそうになりながら、彼女は必死につっかかります。

「なんで、こんな、手間のかかる事をっ」

「あんたのその、驚いた顔が見たかったから、じゃダメか?」

「う……」

 段々慣れてきたからか、こういう気障っぽい台詞も出てきて、反則だと彼女は思いました。だからとっさに、

「じゃ、じゃああれは嘘で」

照れ隠しにひねくれてやろうとすねかけたのに。

「いや?」

 彼の口から出たのは、即座の否定の言葉で、しかも向き合って真摯に、こう告げたのです。

「俺はあんたが好きだ」

 そして、彼女をそっと抱きしめ、優しく口づけました。これには流石の彼女も驚いて、とっさに身を固くします。けれども徐々に身をゆだね、最終的には彼女も彼の腰に腕を回しました。

 すると、どこからともなくまばゆいばかりの光が現れ、魚人姫の体を包み込みました。あまりの輝きに、アイドルは思わず目を閉じてしまいます。

 視界が戻ると、そこに彼女の姿はありませんでした。

「きえ、た……?」

――そういえば、人魚姫は最後、泡になって消えちまうんだったな。

 突然の事で、しかし何故か腑に落ちてしまって、彼は途方に暮れるようにひざから崩れ落ちました。


 しかし、それもつかの間。

「ぷはぁっ」

 お風呂の方から、聞き慣れた女の子の声がするではありませんか。

「おま、なんで……」

「てへ」

 急いで駆けつけてみると、そこには、愛らしく微笑む少女――半魚人ではなく、本来の人魚の姿となった、が湯船につかっていました。彼女が自分の両親の事を語っていたように、その美しさは光に反射したシャボン玉よりもキラキラときらめいています。

「じゃあ、本当に解けたのか……」

「うん、そうみたい」

 そして、切り出しづらそうにもじもじと少女は言います。

「で、でね」

「?」

「これからも、ここに住まわせてもらえない、かな?」

「そりゃあお前」

 当たり前の提案に、良いに決まってるだろ、そう言おうとしましたが、そういえば彼女の気持ちを聞いていないと思いとどまり、

「いや……答え次第だな」

あえて返事を先延ばしにしました。

「え?」

「好きだ」

「……っ。こ、この」

 彼の二度目の告白。その意図が分かってしまい、嬉しさと恥ずかしさが言葉を詰まらせます。

「返事は?」

 先を促されても、しばしの間はぱくぱくと口を動かすだけで声になりませんでした。それでも、アイドルの真剣な目に吸い寄せられるかのように、しかし確固たる意志を持って、

「私も、大好き!」

少女は浴槽から飛び出て、彼の首に抱きつきました。


 それでも、綺麗に終わらないのが、この物語のお約束。

「って、やっぱり倒れるのかいっ」

 抱きつかれた勢いそのままに、彼は床に倒れ込んでしまいました。

「可愛いのは知ってたけど、そんな美少女だなんて知らなかったし。卑怯だ」

 でもさりげなく惚気ている辺り、進歩したと言わざるを得ないでしょう。

 頬を赤らめて照れる少女と、彼女を見て優しく微笑んでいるアイドル。様になり過ぎていて、まさに御伽話のハッピーエンドのように幸せそうな光景でした。



 その後、本来の姿に戻った人魚のお姫様を守る為、アイドルは本物の王子らしく奔走したりする訳ですが、それはまた別の物語。

 こうして、想いが通じ合った半魚人の姫君と現代の王子様の恋は、泡とならず藻屑に消えず、ましてや氷のように溶ける事も無く、永遠に続いていくのでした。めでたしめでたし。


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