段太郎
今回は桃太郎をベースに、夏の終わりにふさわしい感じで仕上げてみました。
賛否両論あるとは思いますが、肩の力を抜いて楽しんでいただけたら幸いです。
時は現代、とある河川敷に一人の男が住んでいました。住んでいる、と言ってもブルーシートと段ボール、新聞紙等で作った粗末な家にですが、彼にとってはそこが、例え柱や住所が無くても立派な自分の城でした。買った物でこそありませんが、布団は勿論、お茶碗やお箸、お鍋にカセットコンロ、本棚にいくばくかの雑誌もあり、なかなか快適です。最近は衣類が少なくなってきた事だけが、彼の悩みの種でした。
「……よし、そろそろ起きるかな」
彼の一日は、橋の下に作ったこの家の隙間から漏れ入るおひさまの光と共に始まります。ただでさえ日蔭なので、男が起きる時には太陽はもうお空の高い所で輝いています。
「どっこらせ、っと……」
部屋の中は男がぎりぎり寝られるほどの広さなので、家を壊さないように慎重に、ゆっくり体を起こします。ここで暮らし始めて間もないうちは、何かしら動く度にどこかしら破壊していましたが、今ではもうすっかり慣れてしまいました。
「さて、朝飯の支度でもするか」
残念ながら、電化製品は落ちていても電気は通っていないので、食材が傷みやすい今の季節は、ご飯を食べるその度にいちいち調達をしに行きます。
「圧巻だなぁ……」
ビニールシートののれんをくぐり、一歩外に出ると、まず目に入るのは川を囲むようにずらりと並んだ青と茶色の住宅達。一軒一軒、まるでその住民の性格を表しているかのように個性豊かな家を眺めながら、彼はいつも思わず呟いてしまいます。毎日見ているはずのこの光景ですが、いつ見ても壮観でした。
段ボールハウスの集合住宅地を抜けてしばらく歩くと、散歩やジョギングに来る人もいない人気の無い草原に出ます。なんでも、昔はマムシやアブ等の蛇が、最近ではカミツキガメが目撃されたという噂があって、ここに近づく人は河川敷の住民以外にはいないのでした。誰がこんな事を言い出したかなんて、言わぬが花という奴ですよね。
さて、そんな訳で無関係の者が立ち入らず、定期的に住民達で清掃活動をしている比較的綺麗なこの場所が、男の猟場でした。
「んと、これは酸っぱい奴で、これがほろにがで……」
まずは野草採り。食物繊維は大切です。苦い酸っぱい甘い等、自分で食べて試した結果は、全て彼の頭の中に入っています。中にはお腹を壊したり、気分が悪くなった物も当然のごとくありました。幸い命に関わるような毒草はありませんでしたが、野生に生えている植物というのは大変たくましくガッツがありますので、くれぐれも食す際には気をつけて、ご自分の責任の元に、出来れば本や専門家などに聞いて御調べになってからでお願い致します。
と、注意事項を述べているうちに、男の籠の中は野草でいっぱいになりました。あまり採っても食べきれないし、根こそぎ抜いてしまっては明日明後日の生活に関わってくるので、彼は次の作業に移ります。
「あとは魚だな」
野草を刈る時に一緒に拾っておいた木の枝を、慣れた手つきで器用に釣り竿にして、堤防からひょいっと川へ投げ込みます。ちゃぽん、という良い音がして、彼の特性の竿がうなります。
「あらよっと」
彼が針を投げ入れると、まるでそれに吸い寄せられるように魚が次々と集まります。あれよあれよと、入れ食い状態でどんどん釣れていき、傍らのざるにはピチピチと跳ねる山が出来ていました。
「お、今日も大漁だねぇ」
堤防に上がった大量の魚を見て、通りすがりの他の仲間が、男に声を掛けます。
「俺にも魚くれよー」
「二匹で百円な」
「Tシャツ二枚じゃ駄目か?」
「おお、良いぞ。それならそこのノビルとハコベをつけよう」
このやり取りももう、いつもの事です。彼は魚と野草を、他の住民達は金属拾いや古紙回収で得たお金、どこからかは分からないけれど手に入れてきた洋服、幸運にもバイトをしている者はそこでいただいてきたパンの耳、お惣菜等々を、自分の出来る所で協力しながら物々交換をするのです。その中でも、安定して供給される彼の魚と野草は、ここの住民達を支え続けていました。
「よし、じゃあ今日はここまで。また明日なー」
『えー』
「って、いや、これ以上お前らにあげたら俺の分無くなるからっ」
おどけて言いつつも、住民全員に行き渡ったのを確認してから号令をかけるのは彼の優しい所です。
実はこの男、橋の下という雨風と直射日光を出来る限り防ぐ事の出来る最も良い立地に住むだけあって、入居から二十年と古株で影響力があるのでした。まぁ信頼が厚いのはそれだけではなく、彼が器用な事や、面倒見が良い事にも原因はあるようですが。そういう訳で、男はこういった物品全般のまとめ役を任されているのでした。今から思えば、もし彼がこのような立場にいなかったならば、この物語は成り立たなかったとも言えるかもしれませんが。
食料を手に入れて家に戻ると、早速調理を開始します。と言っても、野草は川の水をろ過・煮沸消毒した自家製飲料水で洗って、魚はカセットコンロで焼くだけの簡素な物でした。調味料があれば、もう少し凝った料理もできるのでしょうが、生憎そんな物はありません。炭水化物だって、たまに先程の交換で手に入れるパンの耳ぐらいです。最近はパンの耳も十円二十円で商品化してしまったので、働く事の出来ない男にはなかなか手の届かない高級品になってしまいました。その為、男は毎日草を採り、魚を釣っているのです。
自給自足、と言えば聞こえは良いですが、冬場など酷い時には何も食べられない日だってあります。唯一のプライベートスペースであるはずの家も、台風や地震がきてしまえばひとたまりもありません。同じ事を繰り返し飽きはしないかと聞かれれば、そりゃあ飽きないはずが無いのです。しかし、この最低限度の生活を失う訳にはいかず、また他の住民達の事もありますので、彼は来る日も来る日も同じリズムを繰り返しているのでした。
そんなゆったりとした、しかしどこにも安らぎの無い退屈な生活を送っていたある日の事です。
男はその日、何故かいつもよりとんと早く、目が覚めました。不思議には思いましたが、折角だから朝露に濡れた野草でも採りに行こうと、川に沿って歩いていました。すると、遠くの方からどんぶらこっこ、どんぶらこっこ、と何か大きな物が流れてくるのが見えました。
「なんだ、あれ……」
気になった男は、上流の方へと足を運びます。近づいてみて分かりましたが、ぷかぷかと漂うそれは、ふにゃふにゃになりかけた段ボール箱でした。いつもならこんな事はしないのに何故か胸騒ぎがして、川の中に分け入ってそれを引き上げる事にしました。
「おい、あれなんだ?」
「どうした、何かあったのか?」
住宅街の近くでの出来事でしたので、散歩や空き缶拾い、新聞配達に行こうとしていた他の住民が気付き、次々に中にいた者にも広まります。そして、男が段ボール箱を拾い上げた時には、全ての住民が顔をそろえ、首を長くして待っていました。
「何が入ってるんだ?」
「どうせ、捨てられたガラクタかなんかが流されてきたんじゃないのか?」
常識的にはそうでしょうが、お金が無いおじさん達は、それでも何か金目の物が無いかと期待に胸を膨らませています。
『何が出るかな、何が出るかな♪』
とすっ、と優しく箱を輪の中の中心に置くと、慎重にふたを開きます。すると。
「っておい、嘘だろ……」
中に入っていたものに吃驚仰天。たまげた男は思わず後ずさります。その隙間をぬって、他の住民達がどやどやと箱の中を我先にと覗きました。
『赤ん坊ううううううううううううううううううううううううううううううう!?』
「いや、かろうじて赤ん坊では無い。……幼い子どもである事には変わりはないがな」
律儀に訂正を入れたように、そこにいたのはまだ幼稚園児にも満たないぐらいの、小さな男の子でした。すやすやと寝息をたてている所を見ると、生きてはいるようです。しかし、厄介事に巻き込まれたくない彼らは、ある者は逃げ去り、ある者はそっぽを向き、と散り散りにその場から離れました。
後に残ったのは、男と段ボールの中の子どもと、遠巻きに見ている“相談役”と呼ばれる古株の住民数人だけでした。
しばらく、彼らは黙りこくった後、一人が重い口を開きました。
「おい、どうするんだよ、それ」
「じゃあ聞くが、このまま見過ごせって言うのかよ」
心根の優しい男の事です。こう言うであろう事は皆、もう分かっていたのでしょう。気まずそうに視線をそらします。
「……自分の今日の生活でさえ、ぎりぎりなんだ! 元に戻してこい!」
やがて耐えかねたように、大きな声がこだましました。こんな意見が出るのもまた、仕方の無い事です。それでも、男は引き下がる訳にはいきませんでした。
「勝手な事言いやがって……。そんな事するんじゃねぇ。可愛そうじゃねぇか」
彼は元々、人前ではそれほど口数の多い方ではありませんでした。だからこそ、この一言が皆の胸に響いたのでしょう。
「あんたらにだって、家族はいたんだろう?」
これを言われて反論するような人は、幸いにも彼達の中にはいませんでした。
「俺が育てる。文句は無いな?」
「仕方ねぇなぁ……」
最後にはどうにかこうにか、苦笑いながらも納得してくれました。
「……ところでよう」
話がまとまった所で、言い出しづらそうに男が言いました。
「ガキの世話って、どうするんだ?」
『えええええええええええええええ!?』
あんなに格好良く決めたくせに、彼は子育てという物をした事が無かったのです。これには皆呆れ、ぽかんと開いた口が閉まりませんでしたが、それは徐々に笑いに変わっていきました。
男は面白くなさそうにむくれていましたが、
「仕方ないな。手伝ってやるよ」
「服は任せろ」
「とりあえず寝床だ。布団やらなんやら容易せな」
なんだかんだ言いつつ働き回ってくれる仲間達を見て、嬉しそうに溜息をつきました。
こうして、拾ってきた男の子を、男達はそりゃあもう大切に、過保護過ぎるぐらい過保護に、甘やかして育てました。これじゃあいかん、と筆頭である男が皆を少し遠ざけたぐらいです。それにもかかわらず、男の子はひねくれる事無く、また我がままが過ぎる事も無く、物分かりの良いとても良い子になりました。
また、共に生活をしていく中で、不意に住民の一人が言いました。
「おい、そういや名前はどうするんだ?」
確かに人様の子とは言え、名前がないのは不便でした。本人に直接聞いてみたり、身に着けていた衣服にヒントは無いかと探したりはしたのですが、とうとう見つけられなかったのです。
「名前……。そうだな。段ボールから出てきたから、段太郎だ!」
『ネーミングセンス、悪っ』
一斉につっこんだものの、育ての親代表である事と、他の誰もそれを超えるしっくりくる名前を思いつく事が出来なかったので、結局男の子は段太郎と呼ばれる事になりました。
こうして、段太郎は彼らのもとですくすくと成長していきました。
段太郎が来てからというもの、住民達の生活は花が咲いたように明るくなりました。そんな充実した毎日の中には、ささやかながらもこんな事件もあったのです。
それは、段太郎がここの生活にも慣れ、立派に魚も獲れるようになった日の事です。
「おじさーん!」
魚を釣りに行っていたはずの段太郎が、大きな声で男を呼びました。
「どうしたー? 糸でもからまったかー?」
最初のうちはしょっちゅう、流れてくる家庭ゴミに針を引っ掛けてしまいからませてしまっていた段太郎ですが、最近では上手になりそんな失敗はしませんでした。だから彼も、何かよっぽどの事があったのではないかと思い、珍しく早足で段太郎の元へ駆けよります。
「あ、おじさん! あれなぁに?」
「ん……?」
どうやら、川に見慣れぬものが流れていた為、気になったようです。海の方から流れてきたそれはまだ距離があったので、男は段太郎を連れて、少しゆっくりと近づいていきます。
しばらく歩いて、ようやくその全貌が明らかになった時、そのあまりの意外性に彼は思わず叫びました。
「あ、アザラシいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」
なんと、一時期複数の河川に流れ着いてしまって大フィーバーを巻き起こしたアザラシが、男の住まう川にもやってきてしまったのです。
遠い昔に動物園で見たきりのその姿に、男は驚きのあまり開いた口がふさがりません。一方、段太郎は、
「あれ、アザラシって言うんだ! かわいいねー」
などと、初めて見るであろう哺乳動物の姿に興味津々です。
「あ、ねぇねぇおじさん! あの子けがしてるよ!」
確かに良く見ると、アザラシはお腹の辺りに傷を負っているようです。心優しき段太郎は、誰かの具合が悪い事をわずかな動作から見抜く天才でした。
「……よし、手当てしよう」
息子に言われては見て見ぬ振りなど出来る訳もなく、男はアザラシを助ける事にしました。まず、丘の上に引き上げるのもどうかと思い、段ボールと木の枝でいかだを作ります。そして段太郎が呼んできた他の住民と共に、その上に巨体を乗せます。そして彼らの中で医学をかじった者を呼び、治療を施してもらいました。
「だいじょうぶかなぁ……?」
「分からん。が、出来るだけの事はしてもらった。あとは待とう」
二人はいかだの前の堤防に座り、アザラシが元気になるのを待つ事にしました。
「おい、起きろ。寝ているとはなんと失礼な」
深夜。月明かりまぶしい美しい時、男は何者かの声で目を覚ましました。
「ん……寝てしまった、のか」
彼はどうやら待ち疲れ、寝てしまったようです。膝の上ではまだすぅすぅと段太郎が寝ています。
「おい人間」
「はい。って、うわああああ! アザラシが喋った!?」
ここでようやく、先程から男を呼んでいた声の主がアザラシである事に気が付きました。思わず叫び声を上げてしまった彼ですが、無理もありません。普通、アザラシは喋ったりしないのですから。
「な、なんで……」
今日はこいつに驚かされっぱなしだなぁと思いつつ、男は話しかけます。
「この子憎のおかげじゃ。こやつ、人間にしては非常に清らかな心を持っておる。じゃから子憎を通して、お前の心に直接語りかける事が出来ているのじゃ」
「ばんなそかな」
そんなばかな、と言いたかったようです。あまりにも突飛な話なので、男の頭は大分混乱しています。
「ふん、信じられぬなら信じなくとも良いわ。儂は、現にこうしてお前と会話しておるのだからの。それだけ分かれば十分……いてててて」
それまでは元気に、高圧的に威厳たっぷり喋っていたアザラシですが、どうやら傷口が開いてしまったみたいです。痛そうに顔をしかめて、お腹の辺りを押さえています。
「大丈夫か? 一応治療はしてもらったが……やはりまだ痛むのか」
「うむ、先の嵐で流されてしまっての。その間に何かにひっかけてしまったらしいのじゃ」
さすさす、と器用に手びれでさすります。すると、何か引っかかった事があったようで、顔色が変わりました。
「って、もしやお前さんが……?」
「あ、ああ。そうだよ、ここにいる段太郎が見つけたんでな」
アザラシの気の変わりように若干戸惑いながらも、彼はぽん、と起こさない程度に軽く段太郎の頭を叩いて、功労者の存在を示します。
「なんと! 貴方様があっしをお助けくだすったんでやんすか!」
やっとこさ事情が呑み込めたらしいアザラシは、顔をぱぁっと輝かせます。
「何故いきなり口調が変わるんだ……」
手を握ってぶんぶんふり回しそうな勢いで感謝しだすアザラシにどん引きしつつ、それでもきちんと律儀につっこみます。
「お礼に我が主の元へと案内しましょう。さぁ、私の胸に飛び込んで!」
「いやそこ川だから! 結構水質心配な感じの川だから!」
そしてどうして毎回微妙に口調が変わるのか。それはアザラシさんも自分のキャラを作っている途中だからだよ、とそれはともかく。日本の川は結構綺麗になってきているんだよーとかいう噂も時折耳にしますが、彼らが住まうそこは見るからに水が濁っており、入る者を拒んでいるかのようにさえ見えました。
「折角もてなそうと思いましたのに……。宴会開きますよー、酒池肉林が待ってますよー」
「おじしゃん、しゅちにくりんってなーに?」
いつの間にか起きた段太郎はまだ寝ぼけているらしく、自分の知らない言葉にだけ食いつきます。
「段太郎、お前にはあと十年ぐらい早い言葉だ」
しかしそこは育ての親。しっかりと対応を心得ていました。
「このご恩は、必ず」
その後も、どうにかお礼がしたいアザラシは、あの手この手で男を誘いましたが、彼は断固として断りました。……いや、途中ちょっとぐらっときかける事もありましたが、そんな時は隣に段太郎がいる事を思い出し、正気に返るようにしていました。
なんだかんだありましたが、結局無事に海に帰ってくれる事が一番だと説き伏せ、アザラシは泳いで去って行きました。
「あいつ……結局、俺達を竜宮城にでも連れていきたかったんだろうか……」
「せなかにのるのはたのしそうだね」
そんなとぼけた会話で、この事件は幕を閉じ、またいつもの平和で退屈な日々に戻りました。
そんなある日――
「ここを立ち退け、だと……?」
ついに、この河川敷にも立ち退き命令が出される事となりました。
「そうそう。まぁ、今までお目こぼしてもらってただけでも、ありがたいと思って、ね?」
「俺達はどこに行けばいいんだよ!」
「さぁ? こっちだってそこまで保障出来ないわー。土地の所有権があんたらにある訳でもないしねぇ」
多少は反抗を試みる住民達でしたが、権利やら力を振りかざされては何も言えません。自分達が悪い事など、とっくに分かり切っているのですから。
「じゃ、そーいう事で」
“俺達も鬼じゃないから、一週間は待ってあげるよ。それまでによそへ移ってね”
そんな心など一切こもっていない言葉を残し、威圧的で抗う事の出来ない力を象徴した重機類と共に、彼らは去っていきました。
いつかこの日が来る事を覚悟していた住民達でしたが、段太郎と共に暮らすうちにそんな事は忘れてしまい、ただただ毎日を楽しく生きていました。だからこそ、ここに住んでいるおじさん達は、皆、途方に暮れています。
「どうしよう……」
「俺達だけならともかく、段太郎はまだ子どもなんだぞ……?」
自分達はなんとか生きていける、それだけの苦労は今まで沢山してきました。しかし、まだ幼い段太郎を連れてでは住める場所も限られますし、何より最悪の手段に踏み切る事も出来ません。なんとか段太郎だけでも、住民達の思いは一つでした。
「おじさん……」
「えー、以上、現場から中継しました」
その一部始終を、業者に同行していた報道カメラがとらえていました。こうして、立ち退きを迫る業者と抵抗する住所の無いおじさん達の姿は、広く世間に広まってしまったのです。
そんな中、とある邸宅で偶然テレビを見ていた奥様が、その映像を見た瞬間に画面にかじりつきました。
「ど、どうしたんだ!?」
「い、今……あの子が……」
奥様は涙をこらえながら、震える声で言いました。
「スオウがいた気がしたの……」
河川敷住民が知らぬ間に有名になってから、三日程経った晴れた日の事。
「スオウ!」
突然、見慣れぬ黒塗りの長い車が横付けされ、中から上品な婦人が現れました。彼女は段太郎を見つけると、駆け寄って抱きしめます。
「……おかあ、さん?」
いきなり見知らぬおばさんに抱きつかれ、きょとんとしていた段太郎ですが、その温もりには覚えがあったのでしょう。
「そうよ! ああ、ごめんなさい。もう貴方を一人にしたりはしないわ!」
母と子が五年ぶりに感動の再会を果たしている中、遅れて車から降りてきた初老の男性がようやく彼らの元へ辿り着きました。
「どうも、息子がご迷惑をおかけしました」
『息子!?』
未だに息子を抱いたまま離そうとしない夫人は、どう見たって三十代。年齢差が激し過ぎる気もしないでもないですが、差し出された名刺の肩書を見て、なんとなく皆納得してしまいました。
『……社長さんか』
そう、彼は今をときめく大企業の社長だったのです。
「っておい、あんた! なんでそんな人が子どもを……」
段太郎がいる手前、責めるような事も、ましてや“捨てる”なんて言葉も言えるはずはありませんでした。しかし、沈痛な面持ちと悲痛な無言の叫びは、彼の胸にも届いたみたいです。
「世間様に向ける顔もございません。しかし……」
そう言われる事は予想していたようですが、それでも抜き差しならない事情があったのだと分かるぐらいには、彼の顔もまた辛さで歪んでいました。
何を話しても言い訳になるだけでしょうし、何より自分達の恥を、立ち入った話を、五年間も息子を育ててくれたとは言え、見ず知らずの彼らに話して良いものか。彼はしばらく黙ったまま考え込んでいましたが、やがて覚悟を決めたように言いました。
「……全ては、この子の為だったのです」
「どういう事だ?」
親の勝手な都合で段太郎を川に流したものだと思いこんでいた皆は、事情が良く飲み込めませんでした。そこまで言ってしまえば仕方が無い、と社長は話を続けます。
「スオウは見ての通り、遅くに出来た子どもです。前妻を早くに失くし、今の家内に出会うまで、私は仕事一筋だったもので」
何故出会ったのか、なんて事までは聞かなくても良いでしょう。とにかく彼らは惹かれあい、結婚に至ったらしいのです。
「この子が生まれた時、すでに次の社長の椅子を狙い、派閥争いが起こっていました」
確かに、もうそこそこお年を召しておりますし、子どもがいなかったとなれば次の社長のイスをめぐって熾烈な争いが繰り広げられた事は、そういう事に縁の無い皆でも想像に難くありませんでした。
「そんな微妙な時期に生まれてしまったのです。いつ、この子の身に危険が及ぶかと、毎日ひやひやしていました」
ここで、この先は自分が話す、と奥様が一歩前に踏み出しました。
「そのプレッシャーで、私がノイローゼになってしまって……。それで、衝動的にこの子を……! 我に返った時、私はとんでもない事をしてしまった、と自分を責め続けました。それからすぐに夫にも連絡して、周辺をくまなく捜索してもらったんですが、どこにもいなくて……」
「まさかこんな所にいたとは……」
二人はそろって、手で顔を覆いました。どうしようもなかった、後悔と懺悔の思いが皆の胸にも伝わりました。
「そんな事があったのか……」
責める訳にもいかない、でも何か言わなくてはいけない。そんな複雑な心の内を破るのは自分の役目だ、と言わんばかりに男が切り出しました。
「仕方ない、とはとてもじゃないけど言えない。だが、子どもが親の所にいた方が良いのは確かだ」
「じゃあ……」
両親の期待のこもった眼差しに見つめられながら、男は段太郎に近づきます。そして、別れを惜しむように、いつもよりもさらに優しい手つきで、彼は今まで育てた我が子の頭を撫でました。
「元気でな、段太郎」
「おじさん……」
こうして、段太郎は本当の両親の元へ帰る事になりました。
河川敷の皆と挨拶を済ませた帰り際、
「お父さん、おねがいがあります」
真剣な表情で、段太郎は言いました。
「ここのおじさんたちのおうちを、こわさないでください」
段太郎は今まで来た作業員からこの工事をしている会社の名前を知り、また差し出された名刺から、自分の父がこの工事をやっている張本人だと分かり、直感的に理解したのでしょう。誰に頼めば、河川敷の段ボールハウスが無くならないのかを。
「分かった。今すぐ工事は中止、計画は白紙に戻そう」
「お父さん……」
涙ながらに抱きついた段太郎に、一同号泣するしかありませんでした。
その日の夕方。段太郎は疲れと緊張からか、もう眠ってしまっていました。
「しゃーちょう!」
その時を狙い澄ませて、社員が社長に寄ってきます。
「良いんですか? 肝入りの計画なのに……」
すると、先程涙を見せた時とは打って変わって、ふかふかの豪奢な椅子の上でふんぞりかえって言い放ちます。
「ふん、この子さえ戻ればこっちのもんだ」
「じゃあ……!」
「やれ」
この社長の、この会社自体の本性が垣間見えた瞬間でした。
翌日。勿論、撤収などする訳も無く。この日も朝から重機の音が鳴り響いていました。
「おいおい、どういう事だよ……」
信じかけていた、段太郎の父親として信じたかった社長に裏切られ、住民達は絶望に暮れました。
「所詮、社長なんて誰も同じって事だよ」
「思い出すな。俺らに会いもしないで首切ってった奴等を……」
その後は言葉を失くしたかのように、皆黙りこくってしまいました。
「なん、で……」
自宅の窓の外から河川敷が見える事を知った段太郎は、会いに行けないならせめて様子だけでも、と覗いた風景に唖然としました。
立ちつくす我が子に、父は上っ面な笑顔で言います。
「これはな、皆の為なんだよ。あそこの人達には他におうちを用意するから」
「ほんとう?」
「ああ、約束する」
しかし後ろ手に回した手にはしっかりと、河川敷浄化計画と書かれた紙束が握られていました。
結局、新しい家なんてどこにも出来ないまま、じわりじわり、と男達の家にぱっくりと大きな口を開けたショベルカーの間の手が迫っていきます。
「お父さんの、うそつき……」
カーテンをぎゅっと強く握りしめながら、少年はある決意を固めました。
重機がいくら攻め込んでこようと、砂煙で目の前が見えなくなっても、男達は逃げも隠れもせず、新たに建てた大きめの小屋に皆で立て籠もっていました。食料が無くなった時だけ、少数精鋭で確保に向かう以外は、日中はほとんど中で生活をしています。
そんなもぐら生活を始めて一週間ほど経ったある日、この日も外に出るタイミングを見計らっていた時でした。
「おい、こんなとこ来たら危ないぞー」
普段は物音で動きが悟られないよう、最低限の声しか出さないのですが、それだけに仲間の一人が外に向かって大声で叫んでいるのが男の目に印象的に映りました。
「どうした?」
その声が緊張感を帯びていたので、住民達は思わず彼の元へ駆けよります。
「いや、なんか人影が……」
指差す方を見ると、確かにそこには此方に向かってまっすぐ歩いてくる人の姿が見えました。小さな小さな、男の子の姿が。
「あ、えーと、だ、じゃない。スオウ、スオウか!?」
「本当だ! スオウだ!」
幸い、昼休みなのか作業員の姿も見えなかったので、一週間ぶりの可愛い我が子の来訪に皆小屋を飛び出しました。
「どうしたんだ、こんなとこまで」
「おじさん達……。ただいま」
おかえり、と言ってあげたかったのですが、もうこの子が返るべき場所はここではないので、住民達は最愛の息子を囲んで温かく見守る事にします。
「それといいよ、段太郎で」
「そ、そうか?」
さりげなくとても呼びづらかったので、彼の配慮に感謝して元に戻す事にします。
「で、段太郎。お前またどうしてこんな所に……」
「おじさんたち……ごめんね、お父さんがひどいことして」
ぼく、いっしょうけんめい止めたんだけど。ぼそぼそとしなくても良いのに言い訳のように、彼は付け加えました。その気持ちだけで男達は十分でしたし、何より大人の事情に子どもを巻き込む訳にもいかないと彼らはわきまえています。
「仕方ないだろ。どうせ俺達はこうなる運命だったんだよ。それが今来たってだけの話だ」
「そうだ。お前はなんも悪くねぇ」
『んだんだ』
この為にわざわざ来てくれた事、もう会えないと思っていた段太郎に会えた事、それだけでもう男達は満足でした。
だから誰も、そんな事考えていなかったのに。まさかわずか七歳ほどの少年が、こんな事を言いだすなんて。
「本当にごめんね……。でも僕に力を貸して」
「力……? ってお前、まさか」
自分の父の恥は僕がぬぐう。目に強い光を宿し、少年は言いました。
「悪い奴を、やっつけよう」
その夜――
昼間、社長の御子息が行方不明になったというちょっとした騒ぎがあり、流石にこのままではまずかろう、と社員が二人一組で泊まり込む事になりました。
「しっかし、あいつらもがんばるよなー」
「さっさといなくなってくれると楽なんだけどなー」
あっはっは、と敵陣にいる事も知らず高笑いする作業員。
「坊っちゃんにも困ったもんだよな」
「仕方ないだろう。まぁ、こんな時間には流石に出歩かないだろうし、そろそろ寝ようぜー」
「明日も早いしなぁ。社長、人使い荒いんだから」
「全くだ」
疲れからか、電気を消して早々、彼らは眠りについてしまいました。
「……いくよ」
『おう』
影で小さな策略家の陰謀が、張り巡らされているとも知らずに。
安心しきって深い眠りに落ちていた深夜。ぬちゃ、ねちゃ、と粘着質の奇妙な音がして、作業員の一人が目を覚ましました。
「ん……なんだ?」
その後も、ぴちゃ、ぴちゃという水の音や、どしどしという沢山の靴音、ばさばさばさという羽音が次々と輪をかけて響き、それだけで襲われているようなそんな気分になって、隣にいる相方を起こしました。
「お、おい。起きろ、起きてくれ」
「どうした……?」
「なんか変な音が……。あ、あ、あ――!」
相方を起こした彼は、窓の外を見たまま凍りついたかのように動かなくなってしまいました。
「一体何が……?」
恐怖が貼りついてしまった相方の顔を見つつ、それでも確認せずにはいられず、まだ寝ぼけた頭の彼も外に目を向けました。
「ひ、ひいいいいい」
まず見えたのは、沢山の灯篭の灯り。次に見えたのは、それを手に持つ人。それも、ただの人ではなく……
「お、落ち武者……?」
ある者は頭に矢が刺さり、ある者は刀傷で血がべったりついた落ち武者と呼ぶにふさわしい亡者のような人々でした。彼らは黒いフードをかぶった魔術師のような小さな影に連れられ、一心にここを目指しているように見えます。
「やばい、逃げよう……!」
近づいてくる一団から少しでも遠ざかろうと、彼らは背後にあるドアから脱出を試みました。しかし。
ぬちゃ、ぴちゃ、ぬちゃ……。
なんと、一番最初に聞こえたあの妙な音は、此方側から聞こえてくるではありませんか。
『!?』
聞き慣れぬ音に、一気に身を硬直させる二人。しかし、向こうは亡霊の一団。対して此方は、まだ正体を見ていない上に、音の発生源は一つのようです。それならば、と二人は顔を見合わせ、えいっと思いきって扉を開けました。その瞬間、
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
喉が張り裂けんばかりの叫び声と共に、彼らはその場で失神してしまいました。
翌朝発見され、救急搬送された二人は、目覚めた後も口を震わせ、鴉が、落ち武者が、アザラシが、と訳の分からない事を口走りました。
心霊現象は、新しく生まれ変わるはずだった河川敷の評判を一気に落とし、工事は中止にせざるを得なくなりました。おじさん達はやっと、平穏無事な生活を手に入れたのです。もっとも、次の開発計画が立つまでの短い間かもしれませんが。それでも、一人の勇気ある少年にもらった沢山の物を、彼らは忘れる事は無いでしょう。
これが世に語り継がれる、“アザラシの恩返し事件”の起こりと、その顛末でした。めでたしめでたし♪
色々考えたのですが、最終的にこのような感じに落ちつきました。
まだ暑さ残りますが、ちょっぴり涼しくなっていただければ幸いです。