3限目
扉を開けた瞬間、茜色の空が視界いっぱいに広がった。長い年月を経て色褪せたコンクリートの床が夕焼けに染まり、やわらかなオレンジを帯びていく。
凛冽に腕を引かれるまま、僕は黙ったまま屋上へと足を踏み出した。斜めに差し込む夕陽がふたりの影を細く長く引き伸ばしていく。影はまるで先を知っているかのように静かにふたりを導いていた。
背後でギィと扉が軋む音を立てて閉じた。その音とほぼ同時に、凛冽の足が中央付近で止まった。
「……とりあえず、ここまで来ればいいか」
凛冽がぽつりとこぼしたその声に張り詰めていた空気がわずかに緩む。腕を握っていた手が静かに離れていった。
「ゼェッ、ハァッ……っ」
僕は膝に手をつき、前かがみになって必死に息を吐いた。
走った距離はたかが知れているはずなのに、胸の奥まで引きずり込まれるような、妙な疲労感が全身を包み込んでいた。
だがそれよりも疑問が残り、凛冽の肩を掴んで詰め寄る。
「きょ、教室……っ、あれ、どういう……っ」
「……近い」
「あの黒いのって、一体何!?」
「だから近いって」
言葉と共に僕と凛冽の距離がどんどん近づいていく。
目と鼻の先にいる僕を凛冽は顔を背けて距離を取ろうとする。
「あれは灰殻。ほら、分かっただろ。この距離おかしいんだから離れろ」
「……す、とれ? じゃあ、あの氷は!?」
昂った感情はそう簡単に収まらない。僕はずっと無表情で苦言を呈する凛冽の肩を掴んだまま、ぐいと腕を伸ばして少し距離をとった。
「そうそう。その調子で離れ――」
言いかけた凛冽の言葉が途切れる。僕が思いっきり凛冽の肩を揺さぶり出したからだ。
凛冽は肩を揺さぶられる衝撃で「あああああ」と声を漏らすが、僕はそのとき教室で閉じ込められていたように見えた氷の塊を思い浮かべていた。
もし黒い「あれ」が凛冽のいう灰殻だとしたら、なぜ氷の中にいたのか。あの教室の惨状が一体何を意味するのか。疑問が胸の中でぐるぐると渦巻き、首を傾げずにいられなかった。
頭はぐちゃぐちゃで、呼吸も乱れたまま思考だけが空回りする。「ぜぇ、はぁ」といくら息をしても一向に整わず、むしろ荒くなる一方だった。
――そのとき、急に、胸の奥がざわついた。
「あ、……れ? はっ……っぁ……!」
息が、吸えない。吸っているのに、肺の奥まで空気が届かないような感覚に襲われる。胸を押さえて地面に崩れ落ちた。
「っ……は、はあ……いきが、吸えない……っ」
なぜか吸えば吸うほど、息苦しさが増していく。頭がぼうっとして視界がぐらつき、全身から血の気が引いていくのが分かった。先ほどの恐怖や困惑は、すべて“息ができない”というパニックに塗りつぶされていく――。
凛冽はそんな僕の様子をじっと見つめて、一つため息をこぼした。
「だから落ち着けって言ったのに」
凛冽が隣に膝をつく。
「俺の呼吸を真似してみろ。吸って……吐いて……」
凛冽が大げさに手を広げて閉じてと、わざとゆっくりと深呼吸をしてみせた。
僕も必死にそれを真似ようとする。けれど、うまくいかない。胸の奥が軋んで、息を整えようとするたび焦りだけが積もる。
「ダメだ、………っ、で、きない……!」
喘ぐように息をする僕の背中に凛冽の手のひらがそっと乗る。
「いーや、出来る。だから余計なこと考えんな。俺だけに意識向けてろ」
凛冽の手のひらから伝わる温度に僕は驚いて、反射的に顔を上げた。
目と目が合う。そこにあったのは、有無を言わさぬ冷たく静かな目だった。
「鼻から吸って……口から吐いて。吸って……吐いて……」
その声に従い、意識を一点に集中させる。ゆっくりと、凛冽の呼吸にペースを合わせようとした。背中に添えられた手が僕の呼吸を少しずつ、少しずつ整えていく。
「……どうだ?」
そこでようやく僕は頷けた。
あれほど窮屈だった胸の圧迫感が和らぎ、息が通る感覚が戻ってきた。
「あ、りがとう。なんか急に息が吸えなくなって」
あれだけ息ができないとたくさん吸っていた酸素を、こんなゆっくりとした呼吸で落ち着けられるなんて……。
「たぶん過換気症候群ってやつだろ」
「過換気?」
「俗に言う“過呼吸”ってやつだよ」
凛冽はそう言って立ち上がると、服の裾を軽く払って汚れを落とした。
「ストレスや不安で呼吸が浅く早くなりすぎて、二酸化炭素が体から抜けすぎる。結果、息苦しくなる。吸えてないんじゃなくて、吐きすぎてるんだよ」
愕然とした。あれだけ苦しかったのに、原因は“吸いすぎ”ではなく“吐きすぎ”?
「な、なにそれ……」
「色々と体に負荷がかかったせいだろうな。まあ、倒れることはあっても、過呼吸で死ぬことはないらしい。安心しろよ」
凛冽は一瞬視線をそらし、遠くの夕焼けを見つめた。茜色に染まる屋上のフェンス越しに、夜の闇が静かに迫っているのが見えた。やがて視線を戻し、座ったままの僕に手を差し伸べる。
「無理に走らせて悪かったな」
凛冽は、まるで自分のせいだとでも言うように謝った。それに僕はツキリと胸が痛んで、その手を掴むことが出来なかった。
「……んで」
「何?」
「……なんでっ」
責めも怒りもしないその静かな態度が、かえって僕の罪悪感をあぶり出していく。
(謝るべきは僕のほうなのに。どうしてそんなに優しくできるんだ。僕は、あんなにひどいことを言ったのに……)
口が震え、怒りとも後悔ともつかない感情が噴き出した。
「なんで……なんで、謝れるんだよ。僕は君に化け物って言った人間だぞ!」
感情が溢れて、声が大きくなる。
そんな僕の様子を見て、凛冽は小さくため息をついて首を傾げた。
「別にいいんじゃね?」
「は……」
凛冽のなんでもないと言わんばかりの様子に唖然とする。
「有象無象の言葉なんて今更どうでも――」
「よくない!」
凛冽の言葉に被せて僕は叫ぶ。
喉がひりつき、顔が熱い。息苦しさとは違う、別の痛みがそこにあった。
自分のしたことの醜さに、どこへ吐き出せばいいか分からなくて、ただ声だけが空を裂いた。
「僕は……あいつらと同じことをした! 怖くて、逃げたくて、だから……!」
声が上手く出せずつっかえる。
「君を傷つけたんだ! ひどいこと言ったんだよ……!」
凛冽はほんの少しだけまばたきをした。そして伸ばしていた手をズボンのポケットに引っ込めて、静かに口を開いた。
「……あーなるほど? お前、俺に責めてほしいんだろ。“加害者”って言ってくれって思ってんだろ」
「……っ」
声がつっかえて、目を見張った。
その声は今まで彼の声を聞いてきた中で、一番冷めた響きだった。
「そうすれば、お前の中の罪悪感が罰を受けたことになって、ちょっとだけ楽になる……そう思ってるだろ」
「ち、違……っ」
僕は咄嗟に立ち上がったが、否定の言葉は最後まで言えず掠れて消えた。
「……まぁそう言うわな」
凛冽はため息混じりに言った。
「そうやって自分の痛みを意味あるものにしようとするのも、ストレス反応の一つだもんな」
凛冽の冷たさは少し和らいで見えた。ただ静かに、僕の中にあるものを見抜いているような目だった。
「知ってるか? ストレスってさぁ大きく分けて3つに分類されんの」
一拍、間を空けてから、凛冽は指を折って数えた。
「たとえば不安とか、怒り、罪悪感みたいなことからくる心理的反応。動悸、異常な発熱、悪寒による震えからくる身体的反応。で、最後が、イライラして人に当たったり、ストレス場面からの回避からくる行動的反応」
凛冽の口調は淡々としていたが、僕にはその奥に彼が知っている遠い苦みがにじんでいるように聞こえた。
「これぜーんぶ、ストレスの現れ。で――お前にも、それが出てた」
思わず顔を伏せる。
彼が言った症状に思い当たる節があまりに多すぎた。
「教室で見てた時も思ったよ。『あぁ、こいつ苦しそう』って。人間、楽していきたいのにな?」
ぐっと唇を噛んで、その突き刺さる言葉に耐える。
「別にいいよ。“加害者”ってラベルを貼って楽になれるのなら、勝手にそうすればいい」
まさに凛冽の言う通りだった。見えないフリをして、知らないフリをしていたくせに、あの教室で彼らが視界に入った瞬間から、凛冽に対する過去の言動を思い出しては苦しんでいたのだ。
自分を責めてほしい。そうすれば、他人のふりをしていた過去の自分が許される気がした。
そんなわけがないと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
「おい、その顔やめろ。俺がいじめてるみたいだろ」
「…………ごめん」
「ハァ」
頭をガシガシと搔く凛冽がポツリと呟く。
「……こういうタイプって、なりやすいんだよなぁ」
まるで何かを思い出すように、凛冽がふっと空に視線を向ける。
それにつられて僕も空を見上げた。
気づけば空はオレンジを呑み込み、紫に染まりつつあった。もう間もなく、夜がすべてを覆うだろう。
「お前さ、さっき体がおかしいと思わなかったか?」
空から視線を戻した凛冽の言葉に僕は逡巡する。そして、ふと感じていた違和感をぽつりと呟いた。
「熱が出たみたいだった」
教室に足を踏み入れたとたん、心臓がドクドクとうるさく鳴り出し、体に異変が生じた。顔が熱を帯び、汗が噴き出し、頭の中はぐるぐると同じ考えを繰り返す。ずっとまともに物事を整理できずに痛みや苦しみといった負の感情で支配されていた。
それまでは、なんともなかったはずなのに――。
「お前のそれはストレスで自律神経がぶっ壊れたんだ」
背中にじわりと冷たい汗が滲む。
「自律神経ってよく聞くアレ?」
「そ。呼吸や心臓の鼓動、消化、体温――そういうのを調整してくれる神経だよ」
無意識に自分の胸へ手をあてる。汗で服が張り付いているそこは、先ほどまで暴れていた鼓動の名残がじんわりと感じられる。
言葉は知っていても深く考えたことがなかった自律神経の乱れというものに、まさか自分が対象になっていたとは思わず驚いた。
「24時間、365日。自律神経ってのは、生きている限り、勝手に働き続けてる」
凛冽の言葉を、僕は必死に追った。
呼吸、鼓動、消化――そういった体のすべてを、無意識のうちに調整している神経。意識しなくても、命を守ってくれているその存在。
なんとなくで覚えていたものが、当事者になって初めて知識として腑に落ちていく。
「だから“自律”神経って言うんだ。生きてる証みたいなもんだよ。だけど――」
凛冽の声が低く、重みを帯びた。
夜を告げる深い色が世界の輪郭をゆっくりと溶かしていく。その中に凛冽が呑み込まれていく。
「ストレス、睡眠不足、ホルモンバランスの乱れとか色々。そういうのが積み重なると、自律神経はズレていく」
地面に落ちていた影は静かに重なり合い、まるで人と人との境界すら溶かしていくようだった。その中で凛冽だけが一人、変わらずそこに佇んでいる。
「それが、自律神経失調症ってやつ」
その言葉が夜風に乗って静かに耳に届いた。
僕は何故だか、夜の訪れが急に怖いと感じた。言葉では言い表せない漠然とした不安が、じわじわと体の内側から広がっていく。
「で。それが日常生活に支障を来し、悪循環に陥ってしまうと、人は耐えられなくなり――灰殻。すなわちストレスの塊が生まれる」
凛冽の声が消え、しんとした屋上に夜の気配だけが漂った。
そして次の瞬間――ガアアアアアンッ!
静寂が訪れた屋上で分厚い鉄製の扉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。
金属が悲鳴を上げ、コンクリートが砕け散るような轟音。
扉は二人の間を通過し、フェンスをグシャァ! と捻じ曲げて止まった。
その強烈な衝撃が突風となって、二人の制服をはためかせる。
「で、あれがそう」
凛冽が親指で指す先――そこにいたのは、教室で見た“黒い塊”だった。




