表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
回帰する潮

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/54

第53話:最後の年輪(後編・最終回)

第5章 第8話:最後の年輪(最終回)

釜山の夜が明け、影島ヨンドの空は淡い真珠色から、鮮やかな群青へと塗り替えられていった。灯台の最上階、結衣は朝露に濡れて鈍い輝きを放つ真鍮のティーをじっと見つめていた。その小さな金属の柱は、昨夜、風と木を繋ぎ、三代にわたる家族の声を響かせた聖なるくさびのように見えた。

隣には、一晩中眠ることなく寄り添い、この建築の完成を見届けたアン・ヒョンジュンが立っていた。彼は静かに水平線を指差し、朝陽に照らされる街を見下ろして言った。

「結衣さん。見てください。……昨日の夜、あんなに不安そうだった人たちが、みんな笑って、軽やかな足取りで帰っていきます」

灯台のふもとでは、家族の手に引かれた老人たちが、何度も、何度も建物を振り返っていた。名残惜しそうに手を振るその姿は、まるで長年住み慣れた故郷の家を離れるかのようだった。

彼らの多くは、数分後にはここに来た理由を忘れてしまうのかもしれない。自分たちが何を聴き、何に触れたのかも、霧の中へ消えていくのだろう。けれど、彼らの「体の芯」には、あの魂を震わせる木の歌と、視界を埋め尽くした虹色の光の記憶が、温かなおりのように沈殿しているはずだ。言葉を介さない記憶は、脳ではなく、魂に直接刻まれるのだから。

【設計図の最後の一行:忘却の肯定】

結衣は、父・優樹から受け継いだあのノートを広げた。釜山に来たときはまだ白紙だった自分のためのページ。そこに、美津子、優樹、そしてジュウォンたちが命を削り、誇りを賭けて守ろうとしたものの正体を、結衣は今、ようやく一つの言葉として紡ぎ出せる気がしていた。

海を渡る風がページをめくる中、彼女は震える手で、けれど確かな筆致で、最後の一ページにこう記した。

> 記憶は、いつか必ず砂のようにこぼれ落ちる。

> けれど、誰かを愛したという、愛されたという『手触り』は、

> 石に刻まれ、木に宿り、風となってこの星を吹き続ける。

> 忘れることは、決して残酷な終わりではない。

> それは、昨日までの自分を脱ぎ捨て、新しい自分として、

> もう一度、最愛のあなたに出会うための、長い長い助走なのだ。

>

書き終えた瞬間、ノートの上に一粒の涙が落ちた。それは悲しみの涙ではなく、ようやくすべてを繋ぎ終えた建築士としての、そして娘としての安堵の滴だった。

【ジアンへの報告:海を越えた帰還】

結衣は、ヒョンジュンに連れられ、影島の古い急斜面に広がる墓地を訪れた。

そこには、潮風に洗われ、文字も判別できなくなった名もなき石碑が一つあった。この壮大な物語の始まりの人、若き日に「記憶の家」を夢見て、その夢の半ばで力尽きたハン・ジアンが眠る場所だ。

結衣は、小豆島から持ってきた、黄金色に輝く一番良いオリーブのオイルを、その渇いた石にそっと手向けた。

「ジアンさん。あなたが建てたかった『記憶の家』は、今、海の向こうまで、時を越えて繋がりました。……もう、どこへ行けばいいか分からず、迷子になる人はいません。ここが、みんなの家です」

その時だった。対馬海峡から吹き上げた一陣の強い風が、墓地の木々を揺らし、結衣の髪を優しく撫でた。それは、ジアン、ヨンジ、美津子、そして父・優樹が、一斉に「お疲れ様」と、柔らかな声で語りかけてくれたような不思議な感覚だった。


それから数年の月日が流れた。

影島(ヨンド)の灯台は、いつしか「記憶の聖地」と呼ばれるようになっていた。

そこは単なる観光名所ではなく、世界中から若き建築士や介護の専門家たちが集う、学びの場となっていた。彼らはここで、数字や効率、あるいは「正しい形」を追うのではなく、認知症の人々が孤独を感じないための「光の角度」や「木の手触り」を学んでいた。

結衣は、釜山と小豆島を往復する日々を送っていた。父・優樹が遺した「名前のないミュージアム」と、この「記憶の灯台」を繋ぎ、守り続けることが、彼女の生涯の設計図となった。

彼女の手元には、かつて曾祖母・美津子が使い、ボロボロになったあのレシピノートがある。その余白には、結衣の筆跡で、新しく、日本語と韓国語の両方で記された「影島流・お稲荷さんの作り方」が書き加えられていた。

「酢飯を詰める時は、赤ちゃんの頬を撫でるように。木を削る時のように、心を込めて」。

夕暮れ時、影島の灯台は、屋根のない吹き抜けから天に向かって柔らかな和紙の光を放っていた。

一羽の鳥がその光に導かれるように、空高く舞い上がっていく。

カメラはゆっくりと引き、釜山の海全体を映し出す。黄金色の海面は、まるで無数のゴルフボールが跳ねているかのようにキラキラと輝いていた。

画面が静かに白くフェードアウトしていく中、静寂の向こうから、あの懐かしい、透き通った声が聞こえてきた。

「ナイスショット。……僕のボール、ちゃんと届いたよ。母さん、ジュウォンさん」

それは、記憶の果てに辿り着いた、最も美しく、最も真っ直ぐな、一点の曇りもない「黄金の弾道」の終わりの合図だった。

(完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ