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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
回帰する潮

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第52話:最後の年輪(中編)

第5章 第7話:最後の年輪(中編)

釜山の海風はさらにその勢いを増し、灯台が奏でる「木の音」は、重厚なオーケストラのようにその音量を増していった。影島の斜面に集まった人々が、言葉を忘れたかのようにその神聖な響きに聴き入る中、結衣は年輪の盤の「中心」——すべての記憶の源流となるべき場所に、指先ほどの小さな穴が開いているのを見つけた。

それは、優樹がわざと残したものなのか、あるいは病によって削りきれなかったのか。

そのわずかな「空白」のせいで、風の旋律は最後の一音でふわりと消え、どこか寂しく途切れてしまうのだ。未完成の歌が、夜のとばりに溶けていくようだった。

【空白を埋めるもの:未完成の設計思想】

「ヒョンジュンさん。ここ、一番大切な『始まりの場所』が空いている。このままでは、父の歌は、父の人生は、未完成のままで終わってしまう」

焦燥に駆られる結衣に対し、ヒョンジュンはその穴をじっと見つめたまま、静かに首を振った。

「結衣さん。かつてジュウォン先生は言っていた。『完璧すぎる家は、住む人の想像力を殺す。欠けた場所があるからこそ、人はそこに自分の魂を置くことができるのだ』と。……優樹さんも、きっと意図してここを空けておいたのだな。ここを埋めるのは、もう死者である彼の木ではない。**『今を生きるあんたの記憶』**なのだ」

結衣は、自分のバッグの中から、この旅の間ずっと肌身離さず持ち歩いていた、ある小さな包みを取り出した。

それは、小豆島を離れる際、もう意識が朧げだった父・優樹が、震える手で彼女の掌に託した**「真鍮のゴルフティー」**であった。長年の使用で角が取れ、鈍い黄金色に光るその道具は、父がプロとして、そして一人の男として、大地に刺し続けてきた誇りの象徴だった。

【繋がる三代の記憶:真鍮の共鳴】

結衣はそのティーを、年輪の盤の中心にある穴へと、祈りを込めてゆっくりと差し込んだ。

カチリ、と小さな金属音が、風の音の隙間に響く。

その瞬間、迷子になっていた風の通り道が一つの回路として繋がった。

灯台を吹き抜ける突風が、差し込まれた真鍮のティーを激しく震わせる。すると、これまでよりも一段と高く、澄んだ、まるで銀鈴が鳴り響くような透明な音が、影島の空へと放たれたのだ。

それは、

曾祖母・美津子が暗闇の中で数え、心の支えにしていた**「一円玉の触れ合う硬質な音」であり、

父・優樹が人生の絶頂で放った「最高の一打が描く快音」であり、

そして、結衣がこれから自分の足で歩んでいく「未来の力強い足音」**であった。

三つの世代の記憶が、木と金属の共鳴を通じて、一つの音楽へと昇華された瞬間だった。

【光の屈折:プリズムの建築】

奇跡は音だけでは終わらなかった。

真鍮のティーが風を受けて微かに揺れるたび、その表面に反射した夕陽が、プリズムのように光を分光させた。無数の光の粒が、灯台の内壁を万華鏡のように踊り狂う。

壁に刻まれたヨンジの魂の溝、ジアンが引いた峻烈な垂直線、美津子の指先が磨き上げた手触りのガイド。

それらすべてが黄金色の光を浴び、まるで建物全体が巨大な肺を持って息を吹き返したかのように、拍動し始めた。

「見て、お母さん! 虹がいっぱい飛んでる!」

近くにいた子供が、無邪気に歓声を上げた。

記憶を霧の中に失い、自分の場所さえ分からなくなっていた老人たちも、その光の粒を捕まえようと、まるで少年の日のように夢中で手を伸ばす。

そこには、病気という名の檻も、国境という名の壁も、忘却の恐怖という名の闇も存在しなかった。

ただ、「今、この光が、この音が、たまらなく美しい」という共通の、そして純粋な感動だけが、その場にいるすべての人々を、分かち難く一つに結びつけていた。

【第7話(中編)のラストカット:循環する年輪】

結衣は、小豆島のオリーブと影島の赤松が混ざり合った大柱に背中を預け、静かに目を閉じた。

耳元で鳴り響くのは、優しく、それでいて魂を震わせるほど力強い「木の歌」。

彼女は、自分の指先が微かに熱を帯び、温かくなっているのを感じた。

それは、かつて美津子の手を引き、優樹の背中を支えた、目に見えない「家族の記憶」の奔流が、今、自分という存在を優しく、強く抱きしめてくれているような感覚であった。

「……あ、そうか。何もかも、繋がっていたんだ」

結衣は、まだ真っ白なページが残っているノートを取り出した。

彼女は中編の最後に、迷いのない筆致で、一筆書きの小さな円を描いた。

それは、何かの終わりを示す点ではない。

古い記憶が新しい命へと受け継がれ、再び回り始める「新しい年輪の一本目」であった。



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