第51話:最後の年輪(前編)
第5章 第6話:最後の年輪(前編)
釜山の空は、冬の気配を孕みながらも、抜けるような吸い込まれるような青に染まっていた。影島の斜面に建つ灯台の麓、佐藤結衣は、アン・ヒョンジュンが手配したクレーンの重低音を背に、厳重に梱包された巨大な木箱の前に立っていた。
「結衣さん。これが、優樹さんが遺した『最後の意志』なのだな」
ヒョンジュンが祈るような厳かな声で尋ねると、結衣は無言で頷き、自らの手で木箱の重い蓋を押し上げた。隙間から溢れ出したのは、長年、小豆島の潮風と陽光を吸い込み続けてきた、芳醇な木の香りだった。そこに収められていたのは、直径一メートルを超える、一本の巨大な**「木の円盤」**であった。
【記憶のレコード:小豆島の年輪】
それは、父・優樹が小豆島で最期に心血を注いで育て、彼が倒れた後に静かに切り出されたオリーブの巨木の断面だった。
だが、それは単なる植物の標本ではない。優樹は、まだ意識が明晰であった頃から、そして記憶が指の間から砂のようにこぼれ落ち始めてからも、自らの手でその年輪の溝を、ある場所は鋭く、ある場所は緩やかに、深く深く削り込んでいたのだ。
「父は言っていた。アルツハイマーは、人生の『年輪』を削り取る病気ではない。むしろ、それまで見えなかった心の深淵に、新しい『溝』を刻む作業なのだと」
結衣は円盤の表面に指を添えた。指先に伝わる凹凸は、一人の男が生きた証そのものであった。
中心に近い、若々しく密度の高い層。そこには、ただ純粋に白球を追いかけていた少年時代の静かな熱量が宿っている。
外側に向かって広がる、力強く、荒々しいほどに隆起した層。それはプロゴルファーとして世界の頂点を極め、喝采を浴びていた時代の栄光の記録だ。
そして、最外周。事故に遭い、病魔に冒され、愛する人の名前さえ霧の中に消え始めてから刻まれた、歪で、震え、けれど誰よりも深く、血を吐くような想いで刻まれた**「最後の層」**。
優樹はその「空白」になりゆく時間を、恐怖に震えながらも、一本のノミによって「確かな手触り」へと変換していたのである。
【空へ向かう「盤」:天の音を受け止める器】
結衣が海を越えて持ち込んだその円盤は、灯台の頂上、あの「屋根のない吹き抜け」の真下に設置されることとなった。
設計図によれば、それは雨が降ればその雫をすべての溝で受け止め、雪が降ればその歪な凹凸を白く染め上げ、夜には満天の星屑を溜めるための、巨大な「魂の器」となる。
「ヒョンジュンさん。父は、この年輪を一種の『レコード(円盤録音機)』だと考えていた。いつか自分が何も話せなくなり、自分の名前さえ思い出せなくなった時、天から降る雨がこの溝を叩き、海からの風がこの隙間を通り抜けることで、自分の人生の『音』が世界に響くようにと。言葉ではない、もっと根源的な響きとなって、誰かに届くようにと」
作業が始まった。熟練の職人たちが、緊張感に包まれながら慎重に円盤を吊り上げていく。クレーンのワイヤーが軋む音が、静寂な影島の空に響き渡った。
円盤は、灯台の核となる「影島の赤松」と「小豆島のオリーブ」が交差する中心軸の真上に、ミリ単位の誤差もなく固定された。二つの国の、数世代にわたる木材が、この年輪の盤という「記憶の接合点」を通じて、ついに完全に一体化した瞬間であった。
【沈黙の演奏会:風が歌う人生】
円盤が固定され、クレーンの腕が引かれた直後、信じがたいことが起こった。
海から吹き上げた突風が、灯台の吹き抜けを一気に駆け抜けたその時、優樹が削り込んだ年輪の深い溝が、まるで巨大なパイプオルガンのように、低い、それでいて耳の奥を震わせるような柔らかな音を奏で始めたのだ。
ホー……。ホー……。
それは、言葉を完全に失った優樹が、人生の終焉に際して世界に放った「ため息」のようであり、同時に、幼い優樹を「大丈夫だよ」と抱きしめた祖母・美津子の慈愛に満ちた声のようでもあった。
円盤に刻まれた「栄光」の溝は高く鋭い音を立て、「絶望」の溝は深く重い低音を響かせる。それらが影島の潮騒と混ざり合い、この世のどこにも存在しない、けれど誰もが知っている「懐かしい音楽」となって島を包み込んでいった。
夕刻、灯台の下に集まった島の人々や、介護施設の入所者たちは、一斉に空を見上げた。
どこからともなく聞こえてくる、聴いたこともないのに、心臓の鼓動のように馴染み深い「木の音」。
記憶を霧の中に失い、日常の不安に怯えていた人々が、その音のリズムに合わせて、ゆっくりと、幸せそうに体を揺らし始めた。
言葉による説明など、もはや不要だった。彼らには本能で分かっていたのだ。
この音は、自分たちが忘れてしまった「人生の重み」そのものが、風に乗って歌っているのだと。消えてしまった記憶は、消滅したのではなく、この空の響きの中に溶け込み、今も自分たちを包囲しているのだと。
結衣の目から、堰を切ったように一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、風に震える円盤を見上げ、胸の中で叫んだ。
(父さん……聞こえるよ。あなたの、あの完璧なスイングの音が、今、釜山の海を渡って、世界中に響き渡っているよ)
それは、アルツハイマーという「沈黙」に対する、建築家とゴルファーが共謀して仕掛けた、最大にして最後の反撃であった。




