第5話:未完の家を建てよう
コンビニの夜、頬に押し当てられたコーラ缶の冷たさが、ジアンの心に微かな火を灯した。しかし、現実は容赦なく彼女の周囲を侵食していく。
数日後、ジアンは事実上の解雇に近い「無期限休職」を父から言い渡され、影島の自宅に引きこもっていた。
かつては数千人の命を預かる巨大な構造物を設計してきた彼女にとって、現場を奪われることは、呼吸を止められるのと同じだった。父ギテクとの口論で投げつけられた「欠陥品」という言葉が、鋭いガラスの破片のように脳の奥深くに突き刺さり、抜けない。職人としてのプライドはズタズタになり、鏡を見るたびに、自分という存在が希釈され、透明になっていくような恐怖に怯えていた。
だが、そんな絶望の淵にあっても、彼女の指先だけは、鉛筆を握ることを拒まなかった。
【真夜中の独房、あるいは聖域】
深夜二時。月明かりさえ届かない作業部屋の中で、ジアンは狂ったように机に向かっていた。
床には、広げられた何枚もの図面が散乱している。それは、会社のサーバーに保存されているどのプロジェクトとも違う、全く新しい、一軒の小さな家の設計図だった。
かつての彼女なら、最新のBIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)ソフトを使いこなし、マウス一つで完璧な三次元モデルを構築していただろう。しかし、今の彼女が頼れるのは、一本の鉛筆と、厚手の製図用紙、そして消しゴムだけだった。
「ここは……階段の……蹴上げは……180……いや……」
言葉が消えていく。数字が逃げていく。
彼女は、記憶からこぼれ落ちそうになる数値を、必死に紙に叩きつけていた。何度も何度も消し、紙の表面が毛羽立つほど書き直した痕跡が、そこにある。それは設計図というより、彼女の生命維持装置に近いものだった。
コンコン。
静寂を破る、窓を叩く硬い音。
ジアンが弾かれたように振り向くと、そこには月光を背負ったチェ・ジュウォンが立っていた。窓枠に手をかけ、無作法に部屋へ入り込むジュウォンの姿は、まるで異界からの使いのようだった。
「おい、ハン設計士。こんな夜中に何しとるんや。目の下に隈作って、幽霊でも設計しとるんか」
ジュウォンはジアンの返事も待たず、土足同然の勢いで、足元に散らばる図面を一枚ずつ拾い上げた。無言でそれを見つめるジュウォンの鋭い眼光に、ジアンは身をすくめた。
「ジュウォンさん……」
ジアンは震える手で、一番新しく描き上げたばかりの一枚を、彼に差し出した。
「これ……うちが……全部忘れて、空っぽになってしまう前に……最後に建てたい家や。誰にも、社長にも邪魔させへん……うちと……」
言葉が喉の奥でつかえる。彼女の瞳は、狂気にも似た切望と、足元が崩れ去ることへの純粋な恐怖で激しく揺れていた。
【歪んだ夢、職人の意地】
ジュウォンはその図面を奪い取るように受け取ると、窓際に寄って月明かりの下で広げた。
それは、釜山の海の見える高台に建つ、シンプルながらも凛とした、二階建ての小さな家だった。
入り口の段差、手すりの太さ、視界を遮らない窓の配置。
そこには、アルツハイマーを宣告されたジアン自身が、「未来の、何も分からなくなった自分」のために用意した、慈しみに満ちた工夫が凝らされていた。かつての威圧的な巨大建築とは正反対の、人間一人を優しく包み込むための空間。
しかし、図面を凝視していたジュウォンが、鼻で笑った。
「……何やこれ。構造計算はガタガタ、寸法の整合性も取れとらん。こんなもん、このまま建てたら初日の風で倒れるぞ。プロが聞いて呆れる、とんだ『欠陥住宅』やないか」
「うるさい! 分かっとるわ! そんなこと!」
ジアンは叫び、ジュウォンの胸ぐらを掴もうとした。
「数字が、逃げていくんや……! 書き留めたそばから、消しゴムで消されていくんよ! でも、これはうちの……うちがこの世にいたっていう、最後の『夢』なんや! あんたみたいな荒くれ者に、何がわかるんや!」
叫びは、やがて嗚咽に変わった。ジュウォンの服を掴むジアンの手が、小刻みに震える。
ジュウォンは、その震える手を振り払うことなく、図面を丁寧に畳んだ。そして、ジアンの目を真っ直ぐに見つめ、地を這うような低い声で言った。
「なら、俺が建ててやる」
「……え?」
「お前が引いたこの歪んだ線を、俺が現場で全部、この手で形にして残したる。数値が狂っとるなら俺が微調整する。お前の頭が忘れても、俺の腕がお前の意図を汲み取ってやる。だがな、条件がある」
ジュウォンの言葉には、これまでの無愛想さとは違う、覚悟を決めた男の熱量があった。
「最後まで、俺と一緒に現場にいろ。逃げ出すことは許さん。お前が引いた一本一本の不格好な線に、俺が魂込めるのを横で見届けろ。記憶がどうとか、病気がどうとか関係ない。それが、職人の意地やろが」
ジアンの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「欠陥品」と呼び、遠ざけようとした父。
「お気の毒に」と、憐れみの視線を向ける医師。
誰もが、彼女が「終わり」であることを前提に動く中で、ただ一人、この男だけは、彼女を現役の「設計士」として、戦う相手として扱ってくれた。
「ジュウォンさん……。うち……怖いんよ……昨日まで覚えてたことが、今日、思い出されへんのが……。自分が誰かもわからんくなるのが……」
「ええか、ジアン。目に見える数字や文字は消えるかもしれん。でもな、この木の手触り、金槌を打つ振動、現場の土の匂い……指先が覚えた感触は、死ぬまでお前の魂にこびり付いて消えへんのや。俺がお前に、それを叩き込んでやる」
ジュウォンは無骨な手で、ジアンの涙で濡れた頬を乱暴に拭った。
「返事はええ。道具を持て。明日から、俺たちの『現場』が始まる。社長のハン・ギテクには内緒や。影島の崖っぷちに、世界一の『欠陥住宅』、いや、世界一の『記憶の砦』を建てるんや」
【黎明の出発】
翌朝。
釜山の海が、朝焼けで鮮やかな朱色に染まっていた。
影島の端、まだ誰の手も入っていない小さな荒れ地に、二人の影があった。
愛用のコンベックスを腰に下げ、少しだけ背筋を伸ばしたジアン。
そして、重い工具箱を肩に担ぎ、タバコを吹かすジュウォン。
二人の足元には、昨夜ジュウォンが持ち出した、シワだらけの設計図が一枚。
ジアンはひざまずき、冷たく湿った土をギュッと掴んだ。その感触を、脳ではなく皮膚に刻み込むように。
ジュウォンは黙って、彼女が指し示した境界線の角に、最初の一本の杭を打ち込んだ。
カチーン、カチーン。
影島の朝の静寂に、槌音が響き渡る。それは、失われていく記憶に対する反逆の号砲であり、二人がこの世に残す、新しい年輪の始まりだった。
ジアンは、手の甲に書かれた「私はハン・ジアン」という文字を一度だけ見つめ、力強く頷いた。
「よし。墨出し始めるで。ジュウォンさん、ついてきなさいよ」
「……へいへい。設計士先生、お手柔らかに頼みますわ」
朝日の光の中で、二人の挑戦が、今、土を蹴って始まった。
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