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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
回帰する潮

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第48話:設計図のない明日

第5章 第3話:設計図のない明日

釜山の影島ヨンドに完成したその灯台は、私たちが知る「建築物」の常識からは、少しだけ外れた姿をしていた。

「結衣さん。……実はこの灯台には、あえて屋根を設けていない場所があるんです」

アン・ヒョンジュンが、完成したばかりの塔の最上階へと結衣を促した。見上げた先には、遮るもののない釜山の夜空が、吸い込まれるような紺碧の広がりを見せていた。

「屋根がない? でも、ヒョンジュンさん。雨が降れば中の木材が傷みますし、冬の寒さは……」

結衣の戸惑いに、ヒョンジュンは穏やかな首振りで答えた。

「いいえ。屋根を付けないこと、つまり『未完のままにする』のが、ジュウォン先生と、お父様の優樹さんが最後に交わした無言の約束だったんです。記憶を失うということは、自分を守っていた天井がなくなるということ。けれど、それは同時に、空がどこまでも続くように、彼らの心から『仕切り』を取り払うことでもある。記憶のおりに閉じ込めるのではなく、どこまでも自由な空と繋がっていられるように……。彼らの魂に、境界線を作ってはいけないのだと」

【予期せぬ最初の訪問者:魂の帰還】

その時だった。階下の重厚な木の扉が、静かに開く音が響いた。

落成式を翌日に控え、まだ誰も立ち入るはずのない時間。現れたのは、釜山市内の介護施設から職員に連れられた、一人の小柄な白髪の老婦人だった。

「すいません、急に……。この方が、どうしてもここへ来ると言って聞かなくて。何年も、自分の意思をはっきり示すことなんてなかった方なのに」

職員が困惑した表情で頭を下げた。その老婦人の名前は、誰にも分からない。重度のアルツハイマー型認知症を患い、身寄りもなく、自分の名前さえも、過去の断片さえも、何年も口にしていなかった女性だった。

彼女は、職員の助けを借りることなく、おぼつかない、けれど確かな足取りで灯台の中央へ進んだ。そして、結衣が小豆島から持ってきた「オリーブの木」と、影島の「赤松」が固く結ばれた、あの共生の柱に手を触れた。

その瞬間だった。

老婦人の濁っていた瞳に、まるで深い海の底から真珠が浮かび上がってくるような、言葉では説明できないほどの清らかな「安らぎ」が宿った。彼女は、シワだらけの指先で愛おしそうに柱の継ぎ目を撫で、小さな、本当に消え入りそうな声で歌い始めた。

それは、かつて佐藤正治が妻・美津子のために歌い、優樹が小豆島の波打ち際で自分を繋ぎ止めるために口ずさんだ、あの古いメロディだった。

【記憶の「共鳴」:国境なき家族】

「……あの子だ」

老婦人は、驚きに目を見開く結衣を見つめて、穏やかに微笑んだ。その表情は、今この瞬間だけ、病の霧が完全に晴れたかのように聡明だった。

「あの子が……お稲荷さんの匂いをさせて、海を渡ってきたのね。ずっと、待っていたわ」

結衣は息を呑み、胸の奥が熱くなるのを感じた。初対面の、名前も知らない女性。国籍さえも違うかもしれない。けれどその瞬間、結衣には確信があった。

目の前にいるのは、かつて建築家ハン・ジアンが救おうと足掻き、チェ・ジュウォンがその背中を見守り、そして曾祖母・美津子や父・優樹がその魂を削って繋いできた「影島のすべての記憶」が、宿るべき場所を見つけて戻ってきた姿なのだと。

「お父さん……おばあちゃん……」

結衣の頬を涙が伝った。

国籍も、名前も、家族の縁さえも超えて、木の手触りと、光の角度と、一筋のメロディが、完璧な「共通の言語」となった。建築とは、石や木を積むことではなく、こうして誰かの魂が帰る場所を用意することなのだ。

結衣は、老婦人の冷えた、けれど柔らかな手をそっと握りしめた。

「はい。……お土産に、小豆島の光と、潮風を持ってきました」

【設計図のない明日へ:新しい一歩】

翌朝、影島の灯台は、朝日を浴びて正式にその門戸を開いた。

そこには、虚飾に満ちたテープカットも、高名な政治家の来賓もいなかった。ただ、朝の光に誘われるように、記憶を少しずつ失い、今日という日に不安を抱える人々が、一人、また一人と集まってきた。

彼らは、柱の手触りを確認し、屋根のない吹き抜けから降り注ぐ光の中に身を置いて、深い溜息を吐いた。その溜息は、諦めではなく、ここなら迷ってもいいのだという、安堵の呼吸だった。

アン・ヒョンジュンは、結衣に一冊の、真新しい真っ白なノートを手渡した。

「結衣さん。優樹さんのノートは、昨夜の歌で、最後の一行が書き込まれました。これからは、あなたが新しい設計図を描く番だ」

結衣はノートを開いた。その白さは、これから訪れるであろう予測不能な未来そのものだった。

そこにはもう、完璧な「正解の線」は必要ない。

迷い、揺れ、震えながらも、誰かの心に寄り添おうとする「意志」があれば、たとえ記憶が消えても、そこがその人の家になる。

影島の灯台から放たれる、和紙を通した柔らかな光。

それは海を越え、対馬海峡の波間を滑り、小豆島の砂浜へと届いていく。そして、空の上から見守るジアンやヨンジ、美津子、そして父・優樹へと、真っ直ぐに繋がっていく。

結衣はペンを取り、ノートの最初のページに、震える手で最初の一線を引いた。

「明日、何が消えても、この手触りだけは新しく刻まれる。……おかえりなさい、私たちの家へ」

影島の風が、祝福するようにノートのページを捲っていった。

記憶は失われるのではない。新しい愛の形として、何度でも「増築」されていくのだ。


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