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潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
回帰する潮

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第46話:海を渡る年輪

第5章:回帰する潮

第1話:海を渡る年輪

釜山港に漂う、重油と潮風が混じり合った独特の香り。かつて釜山大橋を渡って多くの人々が夢を追い、あるいは故郷を追われたこの場所は、今や巨大なクレーンとガラス張りのビルが林立する国際都市へと変貌を遂げていた。

その喧騒の中、一人の日本人女性がフェリーのタラップを降りた。

佐藤さとう 結衣ゆい、25歳。

彼女のリュックサックの中には、一冊の古びたノートが大切に仕舞われている。それは、祖母・佳奈が守り、亡き父・優樹が最期まで指先でなぞり続けた、佐藤家の「記憶の宝箱」だった。

結衣は、父が遺した最期の言葉を反芻していた。

「結衣……。俺の魂の半分は、海の向こうにある『始まりの家』にあるんだ。いつか、それを見つけてほしい」

認知症という暗い森の中で、父が最期に見つけた光の正体。それを確かめるために、彼女は海を渡ってきた。

影島ヨンドの深淵:時が止まった木工所】

地図を頼りに、結衣は影島の急斜面を登っていった。再開発によって新しいアパートメントが山肌を埋め尽くす中、奇跡的に取り残されたような一画がある。そこには、潮風に晒され、銀灰色に変色した木造家屋が、斜面にへばりつくようにして立っていた。

門を叩こうとした瞬間、結衣は足を止めた。

古い木材の匂い。それは、父が小豆島の作業場でいつも纏っていた、あの懐かしい木の香りだった。

「……日本から来たのか。そのノートの匂い……。文字は読めんでも、美津子さんの『お稲荷さん』の匂いだけは、風が運んできよるな」

奥から現れたのは、驚くほど背筋が伸びた初老の男性だった。

アン・ヒョンジュン。かつてチェ・ジュウォンのもとで修行し、若き日のヨンジと共に現場を走り回った、ジュウォンの意志を継ぐ最後の建築士である。

ヒョンジュンは、結衣が差し出したノートと、その奥に挟まれていた一枚の図面を手に取った。それは優樹が小豆島で、震える手で描き上げた「最後の一線」が引かれた、未完成の設計図だった。

【時を超えた図面:重なり合う筆跡】

木工所の奥にある、黒光りする梁が渡された書庫。ヒョンジュンは、作業台の上に優樹の図面を広げた。

「……これは、優樹さんの線だ。いや、それだけじゃない。この曲線の引き方は、ヨンジの……そして、ジュウォン先生がいつも語っていた『ハン・ジアンの魂』そのものだ」

ヒョンジュンの指先が、図面上の歪な、けれど力強い線をなぞる。

そこには、日本の住宅様式が持つ繊細な「静寂」と、韓国の伝統建築が持つダイナミックな「力強さ」が、まるで長年離れていた家族が再会して握手を交わしたかのように、見事に混ざり合って描かれていた。

「結衣さん。この図面はな、ただの建物の計画じゃない。これは、消えゆく記憶を繋ぎ止めるための『祈り』だ」

ヒョンジュンは、工務店の中心を支える太い柱を指差した。そこには、数十年前に刻まれたと思われる、小さな、けれど深い傷跡があった。

「記憶はな、砂のようにこぼれ落ちる。でも、この木に刻まれた傷は、木が生きている限り消えない。木には年輪があるだろう? 厳しい冬には細く、恵まれた夏には太く刻まれる。あなたのひいおばあさんの美津子さんも、父の優樹さんも、アルツハイマーという『人生の厳しい冬』を、必死に自分自身の年輪として刻み込んだんだ。消してはいけない冬としてな」

【年輪という名の記憶:小豆島から影島へ】

ヒョンジュンは、書庫の棚から一冊の古いスケッチブックを取り出した。そこにはジュウォンが遺した、未完の構想が記されていた。

「優樹さんが小豆島で完成させられなかったもの。それは、**『海を繋ぐ橋』**のような形をした、小さな追悼のモニュメントだったはずだ。自分の意識が消えても、日本の家族と、韓国の恩師たちが、海を越えていつでも魂で会えるような場所。それを完成させる場所は、ここ影島にある」

結衣は、父が最期に握りしめていたオリーブの苗木を思い出した。あの時、父に見えていた「風景」を、自分も今、見ているような気がした。

「私に、手伝わせてください」

結衣はまっすぐヒョンジュンを見つめて言った。彼女は建築士ではない。しかし、彼女の身体には、美津子から受け継いだ「素材の本質を見抜く感覚」と、優樹から受け継いだ「空間の色を捉える感性」が、確かに流れている。

「よし。始めよう、結衣さん。……ジアンから始まり、ジュウォン先生が繋ぎ、ヨンジや美津子さん、優樹さんが命をかけて建て増ししてきたこの『記憶の家づくり』を、本当の意味で完成させる時が来たんだ」

【第1話のラストカット:吹き抜ける風】

釜山の海。対馬海峡の向こう側には、優樹が眠り、祖母たちが暮らす小豆島がある。

影島の高い丘に広げられた新しい設計図の上を、強い海風がバタバタと音を立てて吹き抜けていった。

その風の中には、木の香り、お揚げの甘い匂い、そして誰かの高笑いと、誰かの優しく歌う鼻歌が混ざっているような気がした。

まるですべてを見届けてきたジュウォンやヨンジ、そして美津子たちが、「ようやくこの日が来たか」と、結衣の背中を優しく押しているかのようだった。

結衣は鉛筆を握り、父が遺した歪な線の続きに、新しい「一歩」を書き加えた。

海を渡る年輪。それは、国境も時間も病も超えて、決して枯れることのない一本の巨木へと成長しようとしていた。


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