第44話:誇りという名の檻
第4章 第5話:誇りという名の檻
小豆島の空が秋から冬へと色を変え、冷たい潮風がミュージアムの建設現場を吹き抜ける頃、優樹の「言葉」は目に見えてその数を減らしていった。
脳の深部で進行する病魔は、彼から語彙を奪い、時間の概念を奪い、そして最後に残った「自己」という名の砦を崩しにかかっていた。朝、鏡に映る疲弊した青年の顔を見ては「誰だ、お前は」と怯え、数分前に飲んだはずの薬の記憶を失い、佳奈に何度も同じ問いを繰り返す。そのたびに、若き天才と称された優樹のプライドは、鋭いガラスの破片でなぞられるように、ズタズタに引き裂かれていった。
【「まだ、俺だ」という拒絶:プライドの断末魔】
「優樹、今日は顔色が良さそうね。工事の最終確認、この図面を少しチェックしてくれる?」
佳奈は、優樹を「病人」としてではなく、一人の「設計士」として繋ぎ止めるために、努めて明るく声をかけ、机に図面を広げた。しかし、優樹は手に持った鉛筆を、今にも折れんばかりの力で握りしめたまま、微動だにできなかった。
「……読めないんだ。母さん。線が、重なって……」
優樹の瞳が激しく泳ぐ。
「どこが入り口で、どこが出口なのかも……。俺が心血を注いで描いた図面なのに、今は他人が書いた得体の知れない暗号に見えるんだ! なんでだよ、なんで俺の頭は、俺を裏切るんだ!」
優樹は叫び、図面を床に叩きつけた。散らばった紙は、まるで彼の砕け散った自尊心のようだった。
「おばあちゃんだって、最後は何も分からなくなった! 俺もそうなるんだろ? 自分が誰かも、ゴルフが何かも、母さんの顔さえ忘れて、ただ息をしてるだけの『空っぽの器』になるんだろ! そんなの、俺じゃない。そんな無様な姿で生きるなんて、死んだ方がマシだ!」
かつて「黄金の世代」の象徴として、何万人の観衆の前で完璧なショットを披露していた自分。その輝きが鮮烈であればあるほど、今の無力な自分を「自分」として認めることが、彼には耐え難い屈辱だった。
【ジュウォンの荒療治:砂の記憶】
自暴自棄になり、部屋に閉じこもる優樹を、ジュウォンは静かに、けれど厳しく見守っていた。そしてある月の明るい夜、ジュウォンは車椅子の優樹を、建設途中のミュージアムの「中心」へと連れ出した。
そこはまだ屋根が架かっておらず、円形の壁に囲まれた空間に、満天の星空が降り注いでいた。静寂の中で、波の音だけが聞こえる。
「優樹。あんたは『完璧な自分』という名の檻に閉じこもって、今、目の前で生きとる自分を殺しとるな」
ジュウォンは優樹の前に腰を下ろすと、床に積まれていた建設用の**「砂」**をひと掬いし、優樹の震える掌に無理やり握らせた。
「ええか、優樹。記憶いうもんは、この砂と同じや。失いたくないとぎゅっと握れば握るほど、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。それは誰にも止められん摂理や」
優樹は、砂がこぼれ落ちていく自分の掌を、絶望的な目で見つめた。
「……ほら、やっぱり何も残らない。俺の中には、何も……」
「馬鹿を言うな。手を広げて、よく見てみろ」
ジュウォンが優樹の指を一本ずつ開かせた。
砂の大半は地面に落ちた。しかし、優樹の白く細い掌には、砂粒のざらついた感触が赤く残り、微かな輝きが皮膚に付着していた。
「砂が落ちた後には、あんたの手のひらに『砂の感触』が残っとる。それが『経験』いうもんや。言葉が消えても、名前が消えても、あんたの魂が経験した温かさや痛みは、こうして皮膚の記憶として刻まれとる。消えてなくなるもんか」
【形なき「エース」:自分を許す勇気】
ジュウォンは、優樹の痩せた背中を、かつて弟子を励ました時のように力強く叩いた。
「あんたが誰か忘れてもな、この小豆島に吹く風はお前を覚えとる。この建物に打ち込んだ一本の釘もお前を覚えとる。お前が作ったこの場所が、お前の代わりに『お前』を語り継いでくれるんや。……それなのに、お前自身が自分を許してやらんで、誰がお前を愛せるんや」
優樹の喉の奥から、押し殺していた嗚咽が漏れた。
彼はジュウォンの厚く、ゴツゴツとした胸に顔を埋め、幼い子供のように声を上げて泣いた。
「……怖いんだ。……全部消えて、真っ暗になるのが、怖いんだよ、ジュウォンさん……。僕が僕じゃなくなるのが、たまらなく怖いんだ……」
「怖くてええ。暗闇の中にこそ、一番大事な柱が建つもんや。泣け。泣いて、余計なプライドを全部流してしまえ。そこからが、本当の『改築』の始まりや」
【受容への第一歩:空白のキャンバス】
その夜、自室に戻った優樹は、机の上に置かれた一冊のノートを、数週間ぶりに開いた。
もう漢字は思い出せない。意味のある文章を綴ることもできない。
彼は震える手で鉛筆を握り、ページに一本の線を引いた。
それはかつての弾道のような、真っ直ぐで力強い線ではなかった。
何度も途切れ、震え、歪んだ、ひどく不安定な線。
「……これが、今の僕だ。格好悪いけど、今の僕の、精一杯の線だ」
彼はその歪な線の横に、小さく、不格好な「○(ボール)」を描き足した。
かつてのエースが放った完璧な一打ではない。けれど、今、この瞬間に彼が苦しみながらも「生きている」ことを証明する、たった一つの軌跡。
祖母・美津子が「お稲荷さんの味」に魂の逃げ場を見つけたように。
優樹もまた、壊れていく自分を「欠陥のある建物」としてではなく、そこに差し込む光を愛でる「未完成の美」として受け入れる準備を、少しずつ、亀のような歩みで始めようとしていた。
翌朝、眩しい光で目が覚めた優樹は、車椅子の横に立てかけられた「黒檀の杖」を、そっと撫でた。
鏡に映る、少し窶れた、けれど穏やかな表情をした青年。
彼はその鏡に向かって、微かに微笑んだ。
「おはよう。……君が、今日の僕だね。はじめまして」
記憶という砂がこぼれ落ちた後の、真っさらな手のひら。
優樹は、その広大な「空白」を、恐怖の対象ではなく、新しい光を描くためのキャンバスとして、小豆島の眩い朝を受け入れ始めていた。




