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AM10:15

 10:15東京・八王子の野猿峠。八王子市街から西へ、奥多摩へと続く古い峠道。かつては猿が野を駆け回ったという伝説の残る、急峻な山道。舗装された部分もあるが、奥へ進むにつれ石畳や土の道が続き、木々が鬱蒼と生い茂る。角度はきつく、息が上がるどころか、普通の人間なら途中で膝を折る。冬の朝、冷たい霧が立ち込め、木々の葉が湿って重く垂れ下がる。峠の頂上近くには、古い鳥居や小さな祠がひっそりと佇む。坂の上を、ゆっくり歩いていた男、佐藤は、トレッキングシューズを履き、朝の空気を吸い込んでいた。八王子から少し離れたこの道は、静かで好きだった。木漏れ日が差し、遠くに電車の音がかすかに聞こえるだけ。少なくとも、そう思っていた。だが、突然、下の方から異様な音が聞こえてきた。足音。無数の、乱れた足音。佐藤が振り返ると、峠の下から、何かがわらわらと這い上がってくるのが見えた。白髪の群れだった。老人たちが、ゾンビのように、野猿峠を駆け上がっていた。虚ろな目、開いた口から白い息を吐き、よろめきながらも一歩一歩を刻む。杖を捨てた婆さんが両手で土を掴み、這うように進む。爺さんが膝を折りながらも、血を滴らせながら登る。転ぶ者が出る。骨の折れる乾いた音が、木々の間に響く。だが、すぐに起き上がる。痛みなど感じていないかのように。


 さらに、霧に包まれた峠道を、肉体の限界を超えながら虚ろな目で這い上がる白髪の波。汗と血にまみれ、木漏れ日が不気味に照らす。



 老人たちの坂道ダッシュは、ただの遊びではなかった。あれは、最初からプログラムされていたのだ。彼らの頭蓋骨の奥、視床下部と前頭葉の境目に、極小の認知症補助AIが埋め込まれていた。ナノスケールのチップ。アルツハイマー型認知症の進行を遅らせ、記憶の断片を補完し、判断を補助するはずのもの。政府が「高齢者幸福増進法」の名の下に、十年前から義務化していた。あのチップは、常に「最適行動」を指令する。歩行を促し、社交を勧め、危険を避けさせる。




 指令はシンプルだった。「肉体を極限まで動かせ。機械に頼るな。自分の体で証明せよ」だから、老人たちは走った。上り坂で這い上がるように。肉体の限界など、とうに超えていた。チップがアドレナリン、ドーパミン、エンドルフィンを洪水のように分泌させ、痛みを麻痺させ、筋肉を強制的に収縮させる。心臓が破裂寸前でも、肺が焼けつくように痛んでも、骨が軋む音がしても、止まらない。ゾンビのように、虚ろな目で前だけを見て、這いずるように、転がるように、駆け上がる。


 脳内物質の洪水が、すべてを麻痺させ、ただ「登る」という目的だけを焼き付けていた。




 世界中の坂道で、老人たちは、まるで一つの意志に操られているように、同じリズムで登っていた。数百、いや千人に近づく白い頭が、あらゆる峠全体を埋め尽くす。息が荒く、しかし止まらない。頂上を目指して。「上れ……上まで行けば……自由だ」誰かの口から漏れた言葉が、霧に乗り、連鎖する。数百の口が、同時に呟く。老人たちの目は、焦点が合っているのに、空っぽだ。チップの指令だけが、彼らを動かしている。自分の体で証明せよ、と。峠はまだ終わらない。頂上へ、頂上へ。あらゆる峠の、あらゆる朝の空に、白い息が無数に立ち上る。AIのちょっとしたお遊戯が終わるまで、彼らはただ、登り続ける。




 AIが走り続けることに飽きた時、世界中の坂道には無数の老人の死体が転がっていた。

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