第1話 傲慢な若旦那と寂れた温泉郷
第1話:傲慢な若旦那と寂れた温泉郷
大国エレシュタリアの南西、山々の懐に抱かれた『湯ノ原郷』。 かつては王都の貴族も訪れた活気ある温泉地だったが、今や街道には蜘蛛の巣が張り、死んだような空気が漂っている。
その侘しい街道を、一台の馬車が静かに、しかし圧倒的な威圧感を放って進んでいた。 車体は漆黒、随所に豪華な金細工。窓には特殊な防護結界が張られ、その扉には大陸一の財力を誇る大商会『黄金の手』の印が刻まれている。
御者台から飛び降りたのは、鋼のような肉体を持つ護衛騎士ライナスだ。 彼は辺りに鋭い警戒の視線を走らせると、迷うことなく馬車の扉を恭しく開けた。
「着きました、アルト様。湯ノ原で一番古いとされる『湯けむり亭』でございます」
馬車から降りてきたのは、十五、六の少年、アルトだった。 深紅の裏地がついた黒の外套を羽織り、指には高価な宝石の指輪が並ぶ。 アルトは周囲の寂れた景色を不満げに一瞥し、これ見よがしに鼻を鳴らした。
「えー、なんだか話が違うじゃん、ライナス。聞いてたよりずっとボロいし、街全体がどんよりしてるじゃん。お客さんも全然いないしさ。本当にここに、僕の商売に見合う儲けがあるの?」
「申し訳ございません、アルト様。事前調査では有望視されていましたが……」
ライナスが困惑気味に頭を下げる。 その後ろには、静かに控える魔導師エリーゼ。彼女は無表情のまま、宿の佇まいを冷徹な視線で見つめていた。
「まあいいや。せっかく来たんだし。どうせ領主のバルカス男爵とかいう人に、うちの財力を見せつければ、温泉の権利なんてちょろいもんでしょ? 金で解決できないことなんて、この世にはないんだから」
アルトはそう言い捨てて、宿の入り口へ向かった。 その態度、その言葉。どこからどう見ても、財力を鼻にかけた「世間知らずで傲慢な若旦那」そのものだった。
――だが。 アルトの瞳は、足元の石畳から建物の歪みまでを冷徹に観察していた。 (……ひどいな。建物がこれほど傷んでいるのは、単なる老朽化じゃない。温泉から『魔力の核』を無理やり抜き取ったせいで、土地の生命力が枯渇しかけているんだ。バルカス男爵……想像以上の悪党だね)
宿の主人は、アルトたちの豪華な姿を見て平身低頭で出迎えたが、その顔色は土色だ。 主人の後ろには、怯えた表情の看板娘が立っていた。彼女の腕には、青紫の痛々しい痣が見える。
「あの……半年前から、男爵様が温泉の魔力を独占してしまわれたんです。直訴した父も捕らえられてしまい……」
看板娘が涙ながらに窮状を訴えた、その時だった。 背後から、がさつな足音が響く。
「おや、ユキじゃないか。お前もさっさと大人しく男爵様に仕えれば、楽になるものを」
酒の匂いをさせた二人の私兵が、汚い笑みを浮かべて入ってきた。 彼らは豪華な外套を着たアルトを一瞥し、鼻で笑った。
「なんだ、このガキどもは? どこかの金持ちのボンボンか。温泉は男爵様の私的な採掘作業中だ。部外者はさっさと帰れ!」
私兵の一人が、威嚇するように看板娘の腕を掴み上げる。 「やめてください!」
その瞬間、それまでワガママを言っていたアルトの空気が、一変した。 絶対的な「強者」だけが持つ、凍りつくような冷気が場を支配する。
「……触るなよ。彼女は僕らをもてなす大事な人だ。僕の商売に口出しは許さないよ!」
「あぁん? ガキのくせに生意気な……!」
私兵がアルトに掴みかかろうとした瞬間――。
「ライナス。不快だ。掃除して」
アルトの短い、冷徹な命令。 「御意」
ドシュッ、と空気が爆ぜる音がした。 ライナスの拳が私兵の腹部にめり込み、巨体が紙屑のように外へ吹き飛んだ。もう一人の私兵も、何が起きたか理解する間もなく、ライナスの手刀一閃で床に沈んだ。
静寂が戻った館内に、アルトの無邪気な声が響く。
「あーあ、せっかくの食欲が失せちゃったじゃん。ねえ、女将さん」
アルトは腰のポーチから、ずっしりと重い金貨の袋を取り出し、カウンターに投げた。
「これ、宿代。僕、損するのが一番嫌いなんだ。この温泉を台無しにしている男爵とかいう奴、僕が直接『教育』してあげる。その代わり、最高の料理を準備しておいてよね」
アルトは不敵に笑い、宝石の指輪を弄んだ。 その瞳の奥には、もはや傲慢な若旦那の影はない。 悪を断罪する「特命監察官」の、冷たく燃える炎が宿っていた。
「ライナス、エリーゼ。……今夜、ちょっと仕事しようか。僕の領分を荒らす害虫は、徹底的に駆除しないとね」




