ガラスの目
はっと気がついた時には、もう遅い。ぐらりと傾いた人形が床に落下し、ひどい音がした。床にうつぶせになった人形の周りに、陶器の破片が散らばっている。
僕は慌てて人形を起こした。かわいそうな人形の顔を見ると、陶器をはめこんだ二つの目が、無残に割れていた。
僕はその時、一人きりで美術室にいた。掃除も終礼も終わり、部活動の時間だ。普段美術室を使っている美術部は、今日は休みらしい。それなのに何故か鍵が開いていたから、僕はふと思い立ってこの部屋に足を踏み入れた。
カーテンで太陽の光を遮っているため、美術室は薄暗い。電気をつけるのも面倒で、僕はよく見えない狭い通路を勘で歩いた。それがいけなかったらしい。
僕の足が、不安定な状態で立っていた人形にぶつかった。人形はまるで決闘に負けた殺し屋のように、ばたんと床に倒れてしまったのだ。
ようやく薄闇に慣れてきた目で、僕は助け起こした人形をじっくりと眺めた。目の部分にぽっかりと開いた予期せぬ穴から、人形の中に広がる暗闇が見えた。茶色い毛糸を埋め込んだ髪の毛は、撫でるとふわふわと心地よい手触りがした。口元はにっこりと微笑んでいて、何だか悲しい気分になった。
「ごめん」
僕はぽつんと呟いた。返事をする人はいない。(いても困る)それから、床の上の目玉の破片を拾い集め、人形をそこに残して出て行った。
美術の先生が人形の惨状を見つけ、犯人を探そうとするんじゃないかと恐れていたけれど、何日経ってもそんな噂は聞かなかった。僕はあれ以来美術室には近づく気にもなれず、部活動と宿題と遊びに明け暮れる日々を送っていた。
だけど、彼__人形の割れた目のことは、いつまでも僕の心の片隅に残っていた。
例えば、家で陶器の置物を見た時。例えば、誰かが目薬をさしていた時。部活動で誰かがハードルに失敗して転んだ時。あの人形の、目のない笑顔と床に散った目の残骸が蘇った。
ある日、僕は学校に向かう前に、自分の部屋で探し物をした。小学生の頃から使っているこの部屋の押し入れには、古いおもちゃがごちゃごちゃと押し込められている。
遅刻をする寸前まで探してようやく見つけたのは、ビー玉二つだった。青と赤。透明なものはどうしても見つからない。二つの輝くガラス玉を握りしめ、僕は家を飛び出した。
休み時間に、隙を見て美術室に忍び込む。運良く美術の先生はいない。人形は以前訪れた時と同じ場所で、僕を待っていた。
空洞となった彼の目に、僕は赤と青のガラス玉をはめこんだ。ガラス玉は人形の目にぴったりと収まった。彼の肩を掴んで揺さぶっても、ガラスの目はぴくりとも動かない。人形から手を離した時、胸の中がすっと軽くなったような気がした。
美術室から出て、僕は驚いた。
目に映る全てのものが、真紫、もしくは薄い紫に染まっていた。同級生たちも、先生も、先輩後輩も。廊下も、壁新聞も、窓も。紫色の世界で、彼らは何でもない顔で笑い、話し、せかせかと歩いていた。
教室に戻っても、見えるものは変わらない。紫色の先生が、紫の板に、紫色の字を書いた。彼らの声はいつも通りで、それがかえって恐ろしかった。
片目を閉じると、視界は真っ赤に変わった。もう片目で世界を見ると、今度は目の覚めるような青だった。
僕以外の誰も、この異変には気がついていないようだった。紫、もしくは青か赤の給食は普通に美味しいし、世界が紫に染まったからといって、部活動が中止になることもない。
だから、僕は何も言わずにいた。そして、何十年も経った今でも、赤と青の世界を生きている。
母校の美術室にひっそりとたたずんでいた人形がどうなったのか、今もあそこにあるのか。その答えを、僕は知らない。