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3-8 決裂

 嗚呼、これだから嫌なんだ。

 レリアは目を閉じて、自分の世界に閉じこもる。

 悪魔は本質的に人を見下し、嫌悪している。人間を対等な存在と認める事は決してない。時として、人々をおもちゃのように人を扱い、悠久に悠久の時を生きている。

 契約を交わす前に大事なことは口にせず、願いを叶えた後にその影響を語り、人を絶望させるのが趣味なのだ。

 レリアは息を吐き出した。


「そう。でもあなたの言っている事が事実かどうか、人である私には分からない。証明のしようがないから……。それにあなたの言うことが事実だったとして、今の時点で街の外にいたということは、放って置いても死んでいた」

 アスモデウスはつまらなそうに鼻を鳴らす。

「だから気にしないということか?」

「いいえ、多分記憶の片隅には残り続ける」

「フッ。そうか、では我は帰るとしよう。レリア・サージュ、対価は確かに頂戴した。また、会おう」


 そう言うとアスモデウスは乾いた音と共に姿を消した。

 正確には仮初の肉体が契約の終了に伴って消滅しただけなのだが、その乾いた音がレリアの緊張を解き放った。

 脱力感でレリアはその場に座り込み、遠くに見える爆心地をポカンと口を開けたまま眺める。

 アスモデウスの言った巻き込まれた二人。

 それは跡形もない。


 そもそもアスモデウスが事実を言ったのかは怪しいところだ。悪魔は人を欺くためなら容易に嘘をつく。契約に関しては絶対に破ることはないが、それ以外のことなら平然とする。

 だからアスモデウスの言っている事が事実である可能性は五割といったところだろう。


 五割、半分の確率だ。だが、その五割がレリアの心に少なくないショックを与える。

 レリアは過去に数え切れないほどの命を奪ってきたが、それは自身が正当だと判断した場合に限られている。魔女や、不法魔女狩りを行った者を除いた一般人を殺したことはない。


 だから、あの悪魔はそういったレリアの心の絶妙な隙間を突いたのだ。

 レリアの心に一番ダメージの入る虚言。

 それを虚言であることをレリアは証明できないし、事実であることも証明できない。


 全ては爆発と共に消えてしまった。

 悪魔は対価を元に願いを叶えてくれるだけの人にとって都合がいい存在ではない。

 それをレリアは改めて心に強く刻んだ。

 同時に──

「レリアさん?」

 ここ数日よく聞いた青少年の呆然とした声が耳に入ってきた。

 困惑と共にゆっくりと視線を声の方へ動かす。

 防壁の上には、何人も入れないようにと騎士団には言った筈なのに、そこには──ロベルが立っていた。


「なっ! ろ、ロベル⁉ どうしてここに」

「レリアさんが壁の中に入るのを見かけたので、追いかけて……でも騎士団の人は中には入れてくれなかったんです。だけど、少し前に勝手に倒れたのでそのまま通って来ました」

 レリアはアスモデウスの名を心の内側で叫ぶ。本当にどこまでもコケにしてくる。そんなにタイミングよく人が倒れる訳が無い。アスモデウスがロベルを導く為にやったのは確実だ。 


 レリアは座り込んだまま、俯いて拳を握る。

 どうか、今の現場は見ていないであってくれ、と心の中で願う。

 しかし──レリアの願望はロベルの次の言葉で無惨に砕け散った。

「……レリアさん。あなたは、魔女だったんですね。ずっと俺を騙してきたんですか?」


 聞いたことが無いような冷え込んだ声がして、レリアは顔をあげる。レリアの瞳に映ったロベルの瞳は、レリアが見たこともないほど冷たかった。

 ロベルには知られてはいけない事を知られてしまった。

 この場合における対処法は一つしかない。レリアは散らばっていたタロットカードの一枚を手にとって、ロベルを睨みつける。

 昨日の友は明日の敵だ。


「本当はこんな事しなくないけど。ごめんなさい」

 手に取ったカードは愚者。

 素早くレリアは悪魔を呼び出すための呪文を唱える。

『異界より来訪せし七二の悪魔の一つ。古の契約に基づき、我が呼び声に応え現出せよ。我が求めるは奪取。万物を奪い取る汝の力を示せ! ──ガープ‼』

 アスモデウスの召喚と同様に空間に歪みが生まれる。

 そこから頭に二本の角を生やした、巨大なコウモリの翼を広げた男が現れる。

 それが何かを言おうと口を開く。

 その前にレリアは叫ぶ。


「八〇年支払う! ロベルからここ数時間の記憶を──奪って!」

「了承した。指を鳴らせ。我が奴から記憶を奪ってやろう」

 略奪の力を持った悪魔ガープは、レリアに敬意を払うような口調でそう言った。

 ガープは他者から記憶や経験などの様々な認知機能を奪い、他者へ与える力を持つ。元々はこの他にも能力があったらしい。だが、悪魔の能力は異界からこの世界に来る際に一部が紛失・変質してしまったらしい。

 それでも能力が優秀な為、都合が悪い相手にレリアの事情がバレた場合、レリアはガープの力を借りる。

 故にアスモデウスを召喚した際とは違ってさほど緊張もせずに、レリアは右手を突き出してパチンと指を鳴らした。


 乾いた音が響き、悪魔の力によってロベルの記憶を奪取する。

 普段ならそれで、略奪した相手の記憶を奪取できる──できるはずだった。

 しかし、今回は違った。

 略奪の力によって奪取した能力・記憶・感情などはすべてその能力の使用者へと還元される。


 だが、なぜかロベルの記憶がレリアへと流れ込んでこない。

「ん?」

 レリアはもう一度指を鳴らす──願いは叶えられない。

 ロベルから視線を外さず、ガープの方を一瞬だけ睨みつける。

「……ガープどういう事?」


 ガープは、興味なさげに自らの翼を弄りながらレリアの方を見た。

「ふむ。どうやらあの人間には魔術は効かないようだな。お前もあの人間と出会った当初にその可能性は考えていたのだろう?」

「考えていなかったといったら嘘になるけど……本当にそんな事が可能とは思ってなかった」


「そうか。どうやら、我らの力を魔女経由で人間の子へ遺伝させると、能力の性質が変わるようだ。……面白い」

 ガープは愉快そうに、喉元でクツクツと小さな笑いを漏らした。

「それ、本当に言ってる? それが事実なら近い未来、魔術戦争が起きる」

「あぁ、力を求めて魔女を孕ませれば、魔術を持つ者で世界は溢れかえるだろう。そうなれば、従来の法律は通用しなくなる。確実に戦争が起きるだろうな。それが王家に対するクーデターか、魔術を持つ者と持たぬ者の間の戦争となるかは、現時点では分からないが」


「なら、確実にここで処理しないと、この話も聞かれてしまった。魔術無効化に弱点とかないの?」

「ある。奴の注意を反らせ。奴が魔術に注目していない時、もしくは意識がない時には、魔術が通る。お前自身には悪魔の力は使えん。故にお前が奴の注意を引けば、あとは我が対処してやろう」


 ガープは、そう言った後、口角をあげた。

「もしくは、魔術を使わずに魔法で吹き飛ばす。お前が本気で攻撃をすれば、殺すことはできる。だがお前がしたいのは記憶の削除だろう? なら先程我が言った通りにするんだな」


「やけに親切ね。気持ち悪い」

「くくっ、お前を深き絶望に落とすのが我々の楽しみだ。だが、お前のおかげで別の楽しみが見つかった。しばらくは他の悪魔には秘匿するが、いずれこの情報で遊ばせてもらう。その対価だよ」

 その言葉を聞いて、レリアの心には猛烈な嫌悪感が湧き上がってきた。

「最悪ね。死ねばいいのに」


「いいっ。お前の薄暗い感情は、最高のデザートだ。いい感じに擦れて、染まってきたな。絶望するまであと少しと言ったところか?」

「…………」

「我らの手で、我らをこのような身に落した女の娘の生きる気力を削ぎ、苦しむ姿を見る。残念ながらあいつは天へ行ったが、この景色は見ているだろう。そう考えると、あぁ、最高だ」


「……そんな無駄話をするために出てきたの?」

「ふむ。そうだったな。これ以上からかうと、契約に違反しそうだ。それに、あちらも動くようだぞ」

 ガープがロベルの方を見たので、レリアも釣られてロベルの方へ視線を向けた。

 こちらへロベルはゆっくり近づいてくる。ロベルは、腰に納刀していた剣を引き抜き、ゆっくりとレリアへ向ける。

「私を殺すつもり?」


「ええ。全部騙していたんですよね。俺の母さんを殺した所から全部、認識改変能力を使って」

「ん?」

 話が予想外の方へと転じて、レリアは困惑する。

 同時にまずい、とも思った。


 以前レリアがロベルに告げた、元の世界へ戻れなくなるとは、まさにこのような事態を指していた。魔術で人の認識や記憶すら操れると知れば、正しい世界の形を認識することは難しくなる。

 簡単に言ってしまえば、自分に都合の悪い事実を魔術のせいと歪曲して受け取るようになる。

 状況としては、その勘違いも当然なのだが、レリアの困惑は致命的な隙を生み出した。

 一〇メートルほどの距離を一瞬で詰めてきたロベルにレリアは反応しきれず、仰け反って躓いて転んでしまう。

「痛っ……」


 転んだ際に手を擦りむいたらしく、掌から出血してしまう。

 反射的にそれを確認してしまった隙にロベルがレリアの首もとへ剣を向けた。

 一センチでも動かせば表皮が切れてしまうほどの距離で、ロベルは剣を止める。

「一つ聞かせてください……なぜ俺が剣術を学べるように仕向けたんですか? それさえなければ、この場で勝利を勝ち取っていたのはあなただったはず」

「待って……ロベルは勘違──」


 レリアが言葉を言い切る前に剣が首筋に触れる。

 余計なことは話すなということらしい。

「……純粋にロベルが新しい街で上手くやっていけるように最低限の技術を教えてあげたかっただけ。それにしてもすごい剣捌きだね。それをたった数時間で身につけたなんて驚き」

「余計なことは言わないでください。あなたの命は俺が握っています。……まず、そこの悪魔を消してもらえますか?」

 ロベルは一瞬だけガープの方を見る。


 レリアは頷いてガープへ目配せすると、ガープは小さくため息を吐いて消えていった。

 それを確認したロベルはレリアへと視線を戻す。

「……詳しい事は聞きません。聞きたくないので」

「じゃあどうしてその剣を振らないの?」


「…………どうしてあなたは抵抗しないんですか。あなたには俺の取って付けたような剣術ごとき余裕で払いのける力があるはずです」

 激情に駆られているのか、ロベルの手にした剣は震えている。

 そのせいでレリアの首筋が少し切れ、赤い血液が流れる。

 それでもレリアは余裕を崩さない。


「一つ訂正する。ロベルの剣術は完璧に近いよ。ほとんど付け入る隙はない」

「それでも! あなたならどうにかできたはずです。俺の剣術はあなたが抵抗しない言い訳にはならない」

 ロベルの言葉にレリアは少しだけ本音を漏らす事にした。ロベルの妄信的なほどのレリアへの敬意に評してだ。

「私は……死にたい」

 そう言って剣が首筋にあたっているにも関わらず首を横に振る。

「違うね。死ねる機会があるなら迷わず死を選びたいと思っている。だから、ロベルに殺されるのならさほど悪くもないかなって、ロベルなら可能性が無いわけでもないし」


 レリアの意味不明な言葉にロベルは肩を激しく上下させる。

 そして──

 ロベルはレリアへ向かって剣を振った。

 斬撃はレリアの頭上数センチの部分を掠め、レリアの髪の毛を数本奪っていった。

 すぐに剣がレリアの眼の前に突き刺される。

「畜生!」


 自分自身に怒っているのか、それとも他の何かへ怒っているのか、ロベルは怒りの混ざった声を上げる。

「……どうして?」

「……俺には、人殺しはできません」

 その言葉にレリアは衝撃を受ける。

「人……私を人間扱いしてくれるんだ」

「人です。人でしょ! あなたはっ!」


 そう言ってロベルは地面に刺さった剣を引き抜くと、剣を鞘へ戻した。

 そして大きく深呼吸をする。

 気持ちを落ち着かせるように何度も──そして、

「二度と俺の前に姿を現さないでください。次に姿を見せたら──容赦しません」


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