3-7 悪魔
夜宴のサバトの対処をするためにレリアが向かったのは外壁の上だった。
外壁への移動中にレリアはアメリ達に遭遇した。その場で脅迫紛いの問答を交わして、レリアは騎士団だけが登る事を許された外壁の上へ移動した。そこでレリアは、アメリたち騎士団を外壁の上から立ち去ってもらい、絶対に上へ登ってくるなと強く言い聞かせた上で、今、約三キロほど先の大地から猛烈な勢いで迫りくる砂埃の壁を眺めていた。
街の近くにあった森は砂煙に呑まれ、跡形もなく消えていく。
数十分もすれば、街の中もそうなるだろう。
レリアは深く息を吐き出すと、両手を前へ突き出す。そして、両手の人差し指と親指を立てて、両手で長方形を作る。
手で作った枠の中へ魔物の集団を収めて、小さく頷いた後、右足を浮かせて肩幅に開き、地面に足を突き立てる。左足も同様に浮かせて地面に突き立てた。
タンタンと、軽快な音が響き渡り、レリアの闘志が一層強まる。
レリアは落ち着き払った態度で、再度息を吐き出し、腰に装着していたタロットケースを手に取って蓋を開き、ケースを持った手を横薙ぎに振り払う。
遠心力に引き寄せられるように、ケースからタロットカードが外へ飛び出し、空中でパラパラと舞う。通常ならば風に流されてしまうはずのタロットカードは、風に流されずにレリアの身体を中心に回転し始めた。
その光景は、まるでタロットカード一枚一枚に意志があり、レリアに選んでくれと主張しているかのようだった。
レリアは、高速で自身の周りを回転するカード群の中から、瞬時に一枚を巧みに抜き取った。
大アルカナ──死神。
以前ロベルへ見せた精霊を宿したタロットカードよりもずっと禍々しいイラストが刻まれたそのカードを手にしたレリアは絵柄を自身の方へ向けて目を閉じる。
『異界より来訪せし七二の悪魔の一つ。古の契約に基づき、我が呼び声に応え現出せよ。我が求めるは崩壊。森羅万象を飲み込み、世界を崩壊させる汝の力を──ここに示せ!』
レリアの呼び声に応じて、突如空中に光を飲み込むような黒い闇が生まれる。同時にレリアの身体の周りを周回しているタロットカードは回転速度を上げ、残像が残るほどの速度で回転を始めた。
レリアは深く息を吸い込んだ。これから呼び出すものの真名を唱えるために。
そして、覚悟を込めた声で呼びかけた。
『──アスモデウス‼』
その瞬間、地鳴りを思わせる音と共に、不吉な一陣の風が吹き抜けた。同時に、レリアの前方の空間には、裂け目が生じる。その奥深くは、光一つない漆黒の深淵のようだった。
深淵の奥を覗き込むと、深淵の奥から真っ赤な瞳がレリアを見返してくる。同時に、レリアの前方に生まれた空間の裂け目から、黒い穴を通して長く細い足がちらりと出てくる。
その直後、全ての音が止まり、五感から得られる情報が全て消え去った。まるで世界が静止したようだった。
否、それは世界が制止したと錯覚するほどに強大な力を持った悪魔が、レリアの呼び掛けに応じて仮初の肉体を以て、現世に一時的に現出する余波だった。
次の瞬間、長細い足を持つタキシード姿を身にまとった男性が、暗闇の狭間からゆっくりと姿を現した。
見た目は、二〇代と見間違えるほどの若々しさを保ちながらも、目を合わせるだけで心を引き込まれるような、身震いするほどの美しさを持っていた。
『それ』は場違いにも思えるタキシードを纏いながらも、それがまるで正しい選択であるかのように思わせるカリスマ性を放っている。呼吸をするだけで、不敬だと認識してしまう王の格が『それ』にはあった。
アスモデウス。その名に相応しい圧倒的な魅力と権威を持った悪魔が、まるでこの世の全てを見通しているかのような落ち着いた表情を浮かべている。だが、口元だけは一時的でも現世に出現できた喜びで不気味に歪んでいた。
アスモデウスは、レリアの眼の前の空中に静かに立ち、上からレリアを見下ろしている。
その眼差しは深く、知性と冷酷さを湛えた魔眼で、見る者を虜にする力を持っていた。その瞳が、旧友に再会したかのような懐かしさを帯びて、レリアを見つめる。
「久しいな。レリア・サージュ。前回呼び出したのは──確かお前が一四だった時だな」
「強いていうなら一八。一四じゃ時系列がめちゃくちゃになるでしょ」
「ふむ。そうだったか……。だが、人間の年齢など興味もない。いまのは人間風の社交辞令だ」
そう言って、アスモデウスは指を振ると、空間に椅子を作り出した。
椅子は宙に浮いており、そこに座ったアスモデウスは依然、レリアを見下ろしていた。
対等に同じ視点に立とうという気持ちにはならないらしい。
「本題に移ろうか。貴様の願いは知っている。故に対価を先に設定するぞ」
「えぇ。同感──悪魔なんかと長時間話たくないしね」
「ふっ。我の力を借りようとしている者がよく言う。しかし、随分と擦れたようだな。我が初めてあった時はもっと──若かった」
その言葉が、レリアの精神性を差しているのはすぐ分かった。
レリアが初めてアスモデウスを呼び出した時は、もっと友情とか情熱とか愛のような見えない何かを信じていた気がする。だから悪魔とも分かり合えると本気で思っていた。
今となっては、死んでもそんな事は願い下げだとレリアは思っている。
故に、レリアはアスモデウスの話を冷たくあしらった。
「そんな話はどうでもいい。対価は三〇年でどう?」
交渉もなく突然、ぶっこんだレリアに、アスモデウスは鼻で笑う。
「おい、小娘。我を相手に慳貪な態度を取るなら殺すぞ」
「やれるものならやってみたら? できるならね」
「…………そうだな。それは契約で禁じられていたな。だが、お前の周りはその範囲ではない。お前一人を残して一〇万キロ程度の土地を焦土に変える事は契約に反していない。我としてはそちらの方が楽しそうだからそれでもよいぞ。代わりに貴様の願いを叶えてやる」
レリアは歯ぎしりする。
それでは夜宴のサバトと何も変わらない。むしろ被害が拡大している。
その選択肢だけはありえない。
「……なら何年ならいいの? そっちの希望は?」
「一〇〇年──と、言いたい所だが、あまりやりすぎても契約に反しそうだ。五〇年で手を打とう」
「四〇ね──」
レリアは、限界まで自分に都合の良い条件を引き出そうとしていたが、途中で口を堅く閉ざした。アマデウスの鋭い眼光が自分を射抜いた事に気づいたからだ。
反射的に全身が硬直する。これ以上、余計なことを言うと全てをご破産にされてしまう。
そんな恐怖を覚えたレリアは、静かに頷いた。
「……分かった、五〇年。……五〇年支払う。それでいい?」
「よかろう。貴様から五〇年頂戴する。望みはこの街に迫るゴミの駆除で間違いないか?」
「えぇ。お願い」
「では、手を叩け。それで貴様の願いは叶う」
レリアは、アスモデウスと会話している間に、約一キロほどの距離まで接近していた魔物の集団を睨みながら、アマデウスの言う通りに両手を大きく広げて手を叩く。
手と手が重なり合った瞬間、響いたのはパンという乾いた音ではなく──爆音だった。
手元から発生した爆音は遠雷のように響き渡る。
一瞬の静寂。
次の瞬間──世界が歪んだ。
否、これは錯覚などではない。現実として、魔物の集団を中心に世界がグニャリと歪んだ。
その影響か、遠くに見えていた魔物の集団が不自然なほど近くに感じられた。
魔物の集団も違和感を覚えたのか、足を止める。
その瞬間、歪みが引き伸ばされ、巨大な爆発が起こった。凄まじい熱量と爆音が響き渡り、爆発の光が森全体を一瞬で薙ぎ払った。
その後に訪れたのは、完全な静寂だった。
眼前に広がる森林は、目を開けた時には荒れ地へと姿を変え、大量の魔物の姿は跡形もない。
あまりにもの威力に、レリアが絶句していると、少し遅れてやってきた爆風がレリアを襲う。
あまりにもの強風にレリアは吹き飛びそうになるが、アスモデウスが風よけとなってレリアを守った。
そして、アスモデウスは大きな声で笑い出す──まるでレリアを馬鹿にするように。
「何を笑っているの?」
「ククク、なに大した事ではない。あの爆発に巻き込まれて一人の女とその子供が死んだというだけだ。貴様が手を鳴らして殺した。人を助ける為に悪魔に力を借りた者が悪魔の力で人の命を奪ったというのが滑稽でな……貴様、魔女とやっている事が対して変わらぬな」




