第七話:利来流指導、始まる
その日から、利来の日常に新たな時間が加わった。夜更け、人目を忍ぶようにして彼の質素な部屋を訪れる、海斗と蓮司への特別な稽古。それは、天帝軍の画一的な訓練とは全く異なる、利来独自の指導だった。
「海斗、お前の動きは速いが、力が上滑りしておる。もっと腰を落とし、地を踏みしめろ。力は足から腰、そして腕へと淀みなく伝えねばならん」
「蓮司、お前は実直で受けは堅いが、動きが硬すぎる。もっと呼吸を意識しろ。吸う息で気を溜め、吐く息で技を放つ。体だけでなく、気も自在に操るのだ」
利来は、型を教えるだけでなく、二人の体格、癖、そして性格までも見抜き、それぞれに合わせた的確な助言を与えた。それは、単なる武術の指導を超え、彼らの心身そのものを鍛え上げるような、深い洞察に基づいたものだった。彼は、手取り足取り教えるというより、自ら手本を示し、彼らに「感じさせ」「気づかせる」ことを重視した。
海斗は持ち前の素早さに加え、利来の教えによって技に重みが増し、蓮司は元々の堅実さに、相手の動きを読む柔軟性が加わった。二人は、まるで乾いた大地が水を吸い込むように、利来の教えを驚異的な速さで吸収し、日に日に目に見えて実力を向上させていった。その成長ぶりは、本人たちが最も驚いていた。
「す、すげぇ…師範の言う通りにしたら、今まで抜けなかった相手のガードが、簡単に…」海斗は目を輝かせた。
「呼吸一つで、これほど体の動きが変わるとは…。まさに目から鱗です」蓮司も感嘆の声を漏らす。
利来は、そんな二人の成長を、穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。教える喜び、人が伸びていく様を見る喜びは、彼にとって何物にも代えがたいものだった。
「まだまだだ。武の道に終わりはない。慢心せず、常に己と向き合うことだ」
利来と若き二人の兵士の秘密の稽古は、しかし、完全に秘密のままではいられなかった。夜な夜な利来の部屋から漏れ聞こえる気合の声や、打ち合う音。そして何より、昼間の訓練で見せる海斗と蓮司の動きが、以前とは明らかに異次元のものになっていることに、他の兵士たちも気づき始めていた。
「おい、見たか? さっきの海斗の動き…」
「ああ、まるで別人のようだ。あれは、まさか…」
「蓮司さんの槍捌きも、前とはキレが違う…」
兵士たちは、遠巻きに、好奇と羨望、そしてわずかな嫉妬が入り混じった視線で、利来と海斗、蓮司の稽古(時には昼間の訓練の合間にも行われた)の様子を窺うようになった。彼らもまた、今の訓練に疑問を感じ、真の強さを求めているのだ。しかし、上官たちの厳しい目があり、公然と利来に近づくことは憚られた。軍の階級制度と、旧弊な体制への恐怖という「見えざる壁」が、彼らの足を縛り付けていた。
利来は、そんな兵士たちの心の揺れを感じ取っていた。焦る必要はない。海斗と蓮司が確かな実力を示せば、いずれ壁は崩れるだろう。そう信じて、彼は指導を続けた。
ある日の夕刻。
利来は、海斗、蓮司と共に、訓練場の片隅で組み手の稽古を行っていた。日が落ち、空は茜色から深い藍色へと移り変わろうとしている。三人の動きは激しく、しかし無駄がなく、見る者を引き込むような気迫に満ちていた。
その時だった。
利来の動きが、ふと止まった。彼は、鋭い視線を訓練場の外、遠くの木立の暗がりへと向けた。
「師範? どうかされましたか?」海斗が訝しげに尋ねる。
「……いや」利来は短く答え、再び稽古に戻った。しかし、彼の意識の一部は、明らかに木立の奥に注がれていた。
利来の研ぎ澄まされた感覚は、そこに潜む複数の人間の気配を捉えていたのだ。それも、ただの人間ではない。息を殺し、闇に溶け込む術を心得た、手練れの者の気配。それは、先日部屋を襲撃してきた刺客たちとはまた違う、粘つくような、陰湿な殺気だった。
(…監視か。誰の手の者だ? 宰相か、それとも…)
利来は、顔色一つ変えずに稽古を続けた。だが、彼の心の中では、新たな脅威への警戒心が高まっていた。敵は、ただ力を振るうだけではない。じっと息を潜め、こちらの動きを探り、弱点を見つけ出そうとしている。都の闇は、利来が思っていたよりも、ずっと深く、そして複雑なのかもしれない。
その頃、訓練場を見下ろせる兵舎の窓から、一人の女性がその光景を静かに見守っていた。橘亜瑠紗だった。稽古に打ち込む利来の真剣な横顔、そして彼を慕う若い兵士たちの熱意。その光景は、彼女の心を温めると同時に、ある決意を固めさせていた。
(師範…貴方の力を、眠らせておくわけにはいかない。この国の未来のために…そして、私のために…)
彼女の瞳の奥に宿る光は、ただ国の未来を憂う将軍のものではなく、もっと個人的で、強い意志を秘めたもののように見えた。
利来の指導は、小さな波紋を生み出し始めていた。だが、その波紋は、同時に新たな敵意と陰謀をも呼び寄せようとしていた。光と影が交錯する遥都で、利来の真の戦いは、静かに、しかし確実に始まっていた。