第五話:竹刀一本の決闘、響く衝撃
翌日の訓練場は、昨日までとは違う、異様な熱気と緊張感に包まれていた。利来が夜中に刺客に襲われたという噂は、既に兵士たちの間に広まっていた。刺客が誰一人、利来の姿を見ることなく撃退されたという話は、彼の得体の知れなさを一層際立たせ、畏怖と反感を同時に増幅させていた。
そんな中、利来がいつも通り穏やかな表情で訓練場に姿を現すと、待ち構えていたかのように剛鬼宗正が進み出てきた。その眼には、昨日までの侮りに加え、どす黒い敵意と、わずかな焦りのような色が浮かんでいた。夜の襲撃が失敗したことへの苛立ちか、あるいは利来の底知れぬ力への恐れか。
「上方利来殿!」剛鬼の声は、訓練場全体に響き渡るほど大きかった。「昨夜は刺客を退けたそうだが、姑息な闇討ちを防いだところで、貴殿の実力が証明されたわけではあるまい!」
訓練場の空気が、一瞬で凍りつく。誰もが固唾を飲んで、剛鬼の次の言葉を待った。
「我ら現場の兵は、小手先の技や口先だけの理想論では納得せん! 真の実力者であるならば、それをこの場で、我々全員の前で証明していただこうではないか!」
剛鬼は腰の太刀に手をかけ、挑発的に利来を見据えた。「この剛鬼宗正が、直々にお相手仕る! 真剣で来い、老いぼれ! その首、刎ねてくれるわ!」
それは、もはや単なる手合わせの申し出ではない。公然たる決闘の申し込みであり、軍規を無視した暴挙だった。周囲の兵士たちも、あまりの展開に息をのむ。亜瑠紗がすぐさま止めに入ろうとしたが、利来はまたしてもそれを静かに制した。
「…よかろう」利来の声は、驚くほど穏やかだった。「ただし、真剣は使わん。わしはこれで十分だ」
そう言うと、利来は近くにあった、何の変哲もない、使い古された一本の竹刀をゆっくりと手に取った。
「なっ…竹刀だと!?」剛鬼は目を剥いた。「ふざけるな! 俺を侮辱する気か!」
「侮辱ではない」利来は静かに構えながら言った。「真剣を使えば、お前が死ぬ。それでは、証明にならんからな」
その言葉は、絶対的な自信の表れだった。訓練場全体が、どよめきと、嘲笑と、そして信じられないものを見るような視線で満たされる。真剣対竹刀。あまりにも無謀で、滑稽ですらある。誰もが、利来の敗北、あるいは死を予想した。亜瑠紗は、蒼白な顔で利来を見つめている。その瞳には、師への信頼と、しかし拭いきれない不安が渦巻いていた。
「…後悔するなよ、爺!」
剛鬼は怒りに顔を歪め、咆哮と共に太刀を抜き放った。陽光を反射し、鈍く光る刃。歴戦の痕が無数に刻まれた、業物だ。
「うおおぉぉっ!」
剛鬼は、獣のような突進力で利来に襲いかかった。振り下ろされる一撃は、岩をも砕くであろう凄まじい威力と速度を伴っている。
しかし、利来は動じなかった。
まるで柳が風を受け流すように、最小限の動きで剛鬼の斬撃を捌く。竹刀が、剛鬼の太刀の鎬を滑り、カン、と乾いた音を立てる。剛鬼の渾身の一撃は、まるで綿にでも打ち込んだかのように、何の抵抗もなく受け流された。
「な…!?」
剛鬼は驚愕に目を見開く。続け様に、横薙ぎ、突き、袈裟斬りと、嵐のような猛攻を繰り出すが、利来はその全てを、まるで未来が見えているかのように、ことごとく竹刀一本で捌ききる。いなす、受け流す、逸らす。利来の動きは、もはや防御というより、相手の力を利用して無力化する合気道の極意にも似ていた。剛鬼の力は、完全に空転させられていた。
数十合打ち合っただろうか。剛鬼の額には汗が噴き出し、呼吸は荒くなっている。一方、利来は涼しい顔で、呼吸一つ乱していない。その圧倒的な実力差は、もはや誰の目にも明らかだった。
「ば、化け物め…!」
焦りと屈辱に駆られた剛鬼は、最後の力を振り絞り、捨て身の胴薙ぎを放った!
その瞬間、利来の目が、初めて鋭い光を放った。
彼は、胴薙ぎを半身でかわすと同時に、踏み込み、持っていた竹刀で、剛鬼が太刀を握る右腕の手首の腱を、寸分の狂いもなく、正確に、しかし竹が撓るほどのしなやかな速さで打ち据えた。
バシッ!!
乾いた、しかし骨身に響くような衝撃音。
「ぐぅあああぁぁっ!!」
剛鬼は、激痛に顔を歪め、たまらず太刀を取り落とした。右腕は痺れ、もはや力を入れることすらできない。戦闘不能。完全な決着だった。
訓練場は、水を打ったように静まり返っていた。
兵士たちは、目の前で繰り広げられた、信じがたい光景に言葉を失っている。真剣を持った猛者を、竹刀一本で、しかも一切傷つけることなく完膚なきまでに打ち負かす。それは、もはや人間の技とは思えなかった。畏怖、驚愕、そしてほんの少しの、新たなる感情。一部の兵士たちの、利来を見る目が、確実に変わり始めていた。
利来は、静かに竹刀を下ろした。
「…これで、分かってもらえたかな?」
その声は、やはり穏やかだった。
腕を押さえ、屈辱に顔を歪めながらも、剛鬼は何も言い返せなかった。ただ、わなわなと震えながら、利来を睨みつけている。その瞳には、憎しみと共に、理解を超えた力への、抗いがたい恐怖の色が浮かんでいた。
亜瑠紗は、安堵の息を漏らし、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。利来の無事を信じてはいたが、やはり生きた心地はしなかったのだ。勝利した利来と目が合う。亜瑠紗は、師への誇りと、そして募るばかりの特別な想いに、頬を熱く染めるのだった。利来もまた、亜瑠紗の安堵した表情を見て、この決闘が、彼女のためにも必要な一歩であったことを感じていた。
竹刀一本での勝利。その衝撃は、良くも悪くも、天帝軍全体に大きな波紋を広げることになるだろう。利来の実力は疑いようもなく示された。しかし、それは同時に、彼への警戒と反発を、さらに根深いものにする可能性も秘めていた。利来の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。
(第5話 了)