第四話:武導師の提案と古老の嘲笑
天帝軍の中枢、将軍たちが居並ぶ評定の間は、重苦しい沈黙に満ちていた。磨き上げられた黒檀の長卓を囲むのは、いずれも歴戦の猛者として名を馳せた将軍たち。その視線は、末席に控えめに座る利来と、その隣で背筋を伸ばす若き将軍・橘亜瑠紗に、探るように、あるいはあからさまな敵意をもって注がれていた。
利来は数日をかけ、天帝軍の訓練の問題点を洗い出し、実戦を想定した具体的な改革案を練り上げていた。それは、形骸化した型稽古を排し、対人戦闘、状況判断、そして何よりも兵士一人ひとりの「生きる力」を引き出すことに主眼を置いた、彼の武術哲学の粋を集めたものだった。
「…以上が、某が提案する新たな訓練体系にございます」
利来は静かに説明を終え、居並ぶ将軍たちを見渡した。反応は、冷ややかだった。特に、上座に座る白髪白髭の老将軍――保守派の筆頭であり、軍の重鎮である伴百道は、利来の提案書を一瞥しただけで、侮蔑ともとれる笑みを浮かべた。
「ふん…上方殿、と申されたか。貴殿の武勇は聞き及んでおる。訓練場での神業もな。しかし、これは児戯に等しい」伴百道は、しわがれた声で、しかし威圧的に言った。「兵を育てるというのは、個人の武勇を見せびらかすこととは違う。規律、統率、陣形。それこそが軍の根幹。貴殿の言うような、個々の兵の『生きる力』などという曖昧なものに頼っては、軍は成り立たぬわ。戦を知らぬ田舎者の、机上の空論ですな」
その言葉は、利来だけでなく、彼を推挙した亜瑠紗をも貶めるものだった。亜瑠紗は顔を紅潮させ、立ち上がった。
「伴将軍! 利来師範の案は、決して机上の空論などではございません! 今の天帝軍に最も欠けている、実戦での対応能力と、兵士自身の生存能力を高めるための、理に適ったものです! このままでは、臥龍国の脅威に対抗できませぬぞ!」
しかし、亜瑠紗の必死の訴えは、他の将軍たちの心を動かすには至らなかった。むしろ、彼らの視線はさらに冷たくなった。
「橘将軍、貴女は少し熱くなりすぎているようだ」別の将軍が冷ややかに言った。「その老人に個人的な師恩でもあるのかもしれぬが、私情で軍の規律を乱すようなことがあっては、将軍失格と言わざるを得んな」
「そうだ」「若気の至りか」「女には軍は任せられぬと、こういうことか」
四方から浴びせられる、棘を含んだ言葉。亜瑠紗は唇をきつく噛み締め、その肩が微かに震えているのを、利来は隣で感じていた。彼女の孤立は、利来の想像以上に深かった。
結局、利来の改革案は「検討する」という名目のもと、事実上、握り潰された。評定の間を後にする利来と亜瑠紗の背中に、冷笑と侮りの視線が突き刺さる。
「……申し訳、ございません、師範。私の力が足りず…」
人気のない廊下で、亜瑠紗は悔しさと申し訳なさで俯いた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。将軍としての仮面が剥がれ、傷ついた若い女性の素顔がそこにあった。
利来は、そんな彼女の姿に胸を締め付けられた。彼女がどれほどの重圧と孤独の中で戦っているのか、改めて思い知らされたのだ。
「いや、お前のせいではない。わしが至らぬだけだ」利来は、不器用ながらも、できるだけ優しい声で言った。「それに、諦めたわけではない。道は、必ずあるはずだ」
「師範……」
亜瑠紗が顔を上げる。利来の穏やかだが、揺るぎない瞳を見て、彼女の表情がわずかに和らいだ。彼の不器用な優しさが、ささくれだった彼女の心をじんわりと温める。利来は、この強く、しかし脆さも併せ持つ元弟子を、師として、いや、それ以上の存在として、守らねばならないと、心の底から強く思った。
その夜。
利来は、あてがわれた質素な自室で、静かに瞑想していた。昼間の評議の光景、亜瑠紗の涙、そして軍の抱える根深い問題…。思考が堂々巡りを繰り返す。
(わしに、本当に何ができるのか……)
自問自答を繰り返していた、その時だった。
ふっ、と部屋の空気が微かに揺れた。
灯りは既に落とし、完全な闇。しかし、利来の研ぎ澄まされた五感は、戸の外に潜む複数の人間の気配を明確に捉えていた。それも、ただの兵士ではない。息を殺し、気配を消す術に長けた、手練れの者たちの気配だ。
(…来たか)
利来は、動じなかった。昼間の評議の後だ。反発する勢力が、実力行使に出てきてもおかしくはない。あるいは、別の誰かの差し金か。
闇の中で、利来はゆっくりと呼吸を整える。全身の神経を研ぎ澄まし、周囲のあらゆる変化に意識を向ける。風の音、虫の声、そして、戸の外で息を潜める者たちの、微かな衣擦れの音、心臓の鼓動まで聞こえるようだ。
一瞬の静寂の後、戸が音もなく開け放たれた。数人の影が、音もなく部屋に滑り込んでくる。彼らは寸分の躊躇もなく、利来が寝ているであろう寝台に向かって、抜き放った短刀を振り下ろした!
しかし、寝台はもぬけの殻だった。
「!?」
刺客たちが驚愕に動きを止めた瞬間、部屋の隅の暗闇から、声にならないほどの微かな風切り音が響いた。それは、利来が指先で弾いた、小さな木片だったのかもしれない。あるいは、ただの空気の振動だったのかもしれない。
だが、その不可視の一撃は、寸分の狂いもなく刺客たちの連携を乱し、彼らの体勢を崩した。
「ぐっ…!」
「何だ!?」
暗闇の中で、刺客たちは互いにぶつかり合い、混乱に陥る。利来の姿は、依然として闇の中。気配すら感じられない。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。
刺客たちは、得体の知れない恐怖に襲われた。これは、人間の技ではない。暗闇そのものが、自分たちを拒絶し、弄んでいるかのような感覚。
「…撤退だ!」
誰かが叫び、刺客たちは蜘蛛の子を散らすように、慌てて部屋から逃げ出した。
利来は、彼らが完全に気配を消すまで、闇の中で静かに佇んでいた。追撃することも、姿を現すこともしなかった。ただ、冷徹なまでに静かな目で、彼らが去っていった方向を見据えていた。
(…誰の差し金かは知れぬが、これで手出しはしにくくなったろう)
同時に、利来の胸には、新たな懸念が生まれていた。敵意は、確実に自分に向けられている。それは、自分を推挙した亜瑠紗への危険もまた、高まっていることを意味していた。
(亜瑠紗……お前は、決して一人にはせん)
利来は、闇の中で静かに拳を握りしめた。彼の戦いは、軍の改革だけではない。目に見えぬ敵意と陰謀から、大切な者を守り抜くための戦いでもあるのだ。敵は明確な牙を剥き始めた。利来は、もはや穏やかな道場師範ではいられないことを、はっきりと自覚していた。