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第二話:遥都の喧騒と将軍の罠?

羽のように軽い揺れだけが、豪奢な馬車の内部に伝わってくる。分厚い緋色の絹で誂えられた座布団は、利来の体をふわりと受け止め、白檀の香りが微かに漂う。車窓を覆う細やかな細工の御簾(みす)は、射し込む陽光を和らげ、車内を淡い光で満たしていた。辺境の村では王侯貴族の物語の中にしか存在しないような乗り物に、利来は落ち着かない心地で何度も身じろぎした。まるで立派すぎる借り着を纏っているような、居心地の悪さがあった。


「師範、長旅でお疲れではございませんか? 冷たいお飲み物でもご用意させましょうか」

隣に座る亜瑠紗が、涼やかな、しかしどこか甘さを帯びた声で気遣う。仕立ての良い装束越しにも伝わる彼女の体温と、ふわりと香る花の匂い。その近さに、利来の心臓が不覚にも早鐘を打つ。

「い、いや、大丈夫だ。…ただ、こんな立派な馬車は初めてでな。少し、地に足がつかんような心地がするだけだ」

慌てて首を横に振ると、亜瑠紗はくすりと悪戯っぽく微笑んだ。

「ふふ、師範は昔から乗り物にはあまりお強くありませんでしたものね。道場の裏の小川で舟遊びをした時も、すぐに顔を青くされて…」

その瞬間だけ、彼女は厳格な将軍ではなく、かつての快活な少女の顔に戻った。利来の張り詰めた心も、その笑顔にわずかに解きほぐされる。だが、それも束の間。亜瑠紗はすぐに表情を引き締め、窓の外に視線を移した。

「もうすぐ都が見えてまいります。京・遥都…天帝國の心臓部です」


馬車が進むにつれて、車窓を流れる景色は劇的な変化を見せていった。土と緑の匂いが支配していた田園風景は次第に後退し、整備された街道沿いには大きな商家や立派な旅籠が軒を連ね始める。行き交う人々の数も爆発的に増え、その纏う衣服の色彩は、利来が知る世界のそれとは比較にならないほど豊かで華やかだ。やがて、遥か前方の地平線上に、空を衝くような巨大な城壁が姿を現した。それが都を囲む守りだと知った時、利来は改めて、自分が途方もなく巨大な渦の中心へと向かっていることを実感せざるを得なかった。


「これが……都か……」

その呟きには、畏敬と、抗いがたい運命の流れに対するほんの少しの怯えが滲んでいた。


やがて馬車は、荘厳な彫刻が施された巨大な城門を、衛兵たちの敬礼を受けながら音もなく通過し、京・遥都の脈打つ喧騒の中へと滑り込んだ。磨かれた石畳の道には、色とりどりの衣装を纏った人々や、飾り立てられた馬車が絶え間なく行き交う。道の両脇には、異国の珍品を並べた店、食欲をそそる香りを漂わせる食い物屋、見たこともないような遊戯に興じる人々…その全てが渾然一体となり、圧倒的な活気と熱気を生み出している。五感を激しく揺さぶる情報の奔流に、利来は軽い眩暈すら覚えた。


「師範、少し市場を歩いてみませんか? 馬車の中ばかりではお疲れでしょう。良い気分転換になりましょう」

亜瑠紗の提案に、利来は頷いた。馬車を降り、地に足をつけると、人々の喧騒と熱気が、より直接的に肌にぶつかってくる。


亜瑠紗は少しも臆することなく、慣れた様子で人波を優雅にかき分け、利来を先導する。不思議なことに、彼女が通る道筋だけ、人々が敬意を払うかのように自然と空間が空いた。将軍としての威光なのか、彼女自身の持つ特別な気配なのか。色鮮やかな反物、鼻腔をくすぐる異国の香辛料、目を見張るほど精巧な細工物…。利来はしばし、田舎者丸出しで物珍しさに目を奪われていた。


その、油断した瞬間だった。

「おい、そこの爺さん、邪魔だぜ!」

濁った声と共に、汗と酒の匂いを纏った男たち数人が、利来の行く手を阻むように立ちはだかった。明らかに酔っている風体だが、その濁った目の奥には、単なる酔っ払いではない、爬虫類のような冷たい光が宿っている。まるで獲物を品定めするかのように、利来をねめつけていた。

「なんだ、道を開けてもらおう」利来が静かに応じると、男たちは下卑た笑いを浮かべた。

「へっ、田舎者が遥都見物たぁ、上等じゃねえか。だがな、この都じゃ見物にも銭がかかるんだよ!」

男たちのリーダー格と思しき、顔に傷のある男が、嘲るように利来の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。周囲の人々は、明らかに厄介事と見て見ぬふりを決め込み、さっと距離を取る。


(……面倒だな)利来は内心でため息をついた。次の瞬間、彼の体は水面を滑る木の葉のように、ほんのわずかに沈み込んだ。伸ばされた男の手首を、紙一重で捌きながら、相手の脇腹の急所に、寸止めに近い、しかし浸透するような鋭い衝撃を伴う掌底を打ち込む。

「ぐっ…!?」

男は短い呻き声を上げ、前のめりに体勢を崩す。そこへ、別の男が状況を理解できずに突っ込んできて、見事に足を引っかけられ、二人まとめて派手に石畳に転がった。残りの男たちが殺気立ち、慌てて腰の得物に手をかける。だが、利来は彼らが柄に指をかけるよりも速く、足元に転がっていた小さな石ころを二つ、指先で弾いた。乾いた音を立てて飛んだ小石は、寸分の狂いもなく二人の男の手首の神経叢を打ち、鋭い痛みに彼らは顔を歪め、得物を取り落とした。

一連の動きは、瞬きするほどの間の出来事。無駄な力は一切使わず、相手を傷つけることもなく、しかし確実に戦闘能力を奪う。それは、老獪な武術家の円熟した技そのものだった。


「……もう良いだろう。行かせてもらう」

利来が静かに背を向けると、男たちは報復の言葉すら忘れ、這う這うの体で人混みの中へと逃げ去っていった。


その時、利来はふと強い視線を感じた。少し離れた場所、賑やかな市場の片隅に立つ甘味処の暖簾の陰に、一瞬、亜瑠紗の姿が見えた気がした。彼女は驚いた様子は微塵もなく、むしろ…全てを見通していたかのように、利来の動きを冷静に観察し、その唇の端に微かな、満足げな笑みを浮かべていたように見えた。だが、それはすぐに人波に紛れ、幻だったかのように消えた。

(今の者たち…ただの酔っ払いではなかった。まるで、俺の腕を試すかのような動きだったが…)

利来の胸に、小さな、しかし無視できない疑念の棘が刺さる。まさか、亜瑠紗が…?


「師範、今のは…? 大丈夫でしたか?」

まるで何も見ていなかったかのように、涼しい顔で亜瑠紗が隣に歩み寄ってきた。

「ああ、なんでもない。都には、ちと元気の良い者もいるようだな」

利来は、敢えてその疑念を口にはしなかった。今はまだ、彼女の真意を探る時ではない。


「…あちらに、美味しいと評判の菓子屋がございます。少し、寄り道しませんか?」

亜瑠紗はそう言うと、利来を老舗の菓子屋へと誘った。白木の美しい格子戸をくぐると、上品な甘い香りが鼻腔をくすぐる。色とりどりの繊細な上生菓子が芸術品のように並ぶ中、利来が選んだのは、やはり一番地味で素朴な、白い薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)だった。

「……ふふ、師範は、昔からそういう、素朴なものばかりお好きでしたね」

亜瑠紗が、どこか懐かしむように、そしてほんの少しだけ寂しそうな色を目に浮かべて呟いた。その複雑な表情に、利来はまたしても心を揺さぶられる。この美しく、計り知れない元弟子は、一体何を思い、何を隠しているのだろうか。彼女の瞳の奥に潜む真意は、遥都の喧騒よりも深く、利来を惑わせる。


菓子屋を出ると、西の空が茜色に染まり始めていた。

「さあ、師範。そろそろ参りましょう。天帝軍の本部へ」

亜瑠紗はくるりと前を向き、再び冷徹な将軍の顔に戻っていた。その切り替えの早さに、利来は軽い眩暈を覚える。

利来は、複雑な思いと饅頭の微かな甘さを胸に、彼女の後に続いた。都の目映い光、その裏に潜むであろう影、そして、美しくも謎めいた元弟子の存在。彼の新たな生活は、間違いなく波乱に満ちたものになるだろうという予感を、強く抱かずにはいられなかった。

巨大な城壁にも劣らない威容を誇る、天帝軍の本部の巨大な門が、ゆっくりと彼らの前にその重々しい姿を現す。果たして、この場所は、辺境から来た老いた武人を、そして彼が抱える秘密を、どのように迎え入れるのだろうか…。

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