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第一話:赤髪の将軍と古びた道場

辺境と呼ばれるこの地の朝は、いつも霧と共に静かに訪れる。

上方利来かみかた りらいの一日は、鶏の声よりも早く、東の空が白み始める頃の朝稽古から始まるのが常だった。長年の風雨に晒され、飴色に深まった木造の道場。その板張りの床には、数え切れぬほどの踏み込みの跡が刻まれている。静寂の中、彼の振るう竹刀だけが鋭く空気を切り裂き、澄んだ音を響かせる。鍛え抜かれた体躯は初老に差し掛かろうという年齢を感じさせない。流れるような動きには一切の無駄がなく、それは日々の鍛錬というより、もはや呼吸に近い、彼の存在そのものの一部だった。しかし、その表情は厳しさとは無縁で、どこか達観したような穏やかさを湛えている。


「ふぅ……」


一連の型を終え、利来が深く息をつき、朝の冷気を肺腑に満たした、その時だった。

道場の入り口に、ふわりと柔らかな影が差した。朝靄が光を乱反射させる中、そこに立つ人影は、この鄙びた村の風景にはあまりにも鮮烈な色彩と気配を放っていた。


「……どなたかな?」


利来が訝しげに声をかける。靄の中からゆっくりと姿を現したのは、息をのむほどに美しい、一人の若い女性だった。燃えるような艶やかな赤髪が、ようやく差し込み始めた朝日に照らされ、まるで生きているかのようにきらめいている。切れ長の涼やかな瞳は、磨かれた鋼のような強い意志の光を宿し、見る者を射抜く。雪のように白い肌を包むのは、上質な生地ながら動きやすさを考慮した武人風の装束。その立ち姿は、ただ美しいというだけではない。幾多の修羅場を駆け抜けてきたであろう、若き将の揺るぎない威厳が、そこにはあった。

そして、その女性の背後には、黒装束に身を固め、腰に太刀を佩いた屈強な二人の男が影のように控えている。その引き締まった体躯と鋭い眼光からは、明らかに常人ではない、鍛え上げられた武人の圧力が放たれていた。


利来は、思わず言葉を失った。脳裏の奥底で、遠い日の記憶が陽炎のように揺らめく。まだ幼さの残る、しかし誰よりも負けん気の強い瞳で自分を見上げていた、一人の少女の姿が。


「……亜瑠紗あるさ、なのか……?」


利来の声は、自分でも驚くほどにかすれ、震えていた。目の前の女性は、確かに記憶の中の少女の面影を残している。だが、歳月は彼女を、まるで別の生き物のように磨き上げ、変貌させていた。その圧倒的な美しさと、磨き抜かれた刃のような鋭い気に、利来の心臓が、とくん、と不覚にも大きく脈打った。


「はい、師範。ご無沙汰しております。橘亜瑠紗にございます」


亜瑠紗と名乗った女性は、鈴を転がすような、しかし凛とした声で応え、背筋を伸ばしたまま優雅に一礼した。その所作は洗練され、寸分の隙もない。だが、その強い光を宿す瞳の奥で、師である利来に向けられた、単なる敬意だけではない、何か熱を帯びた感情が揺らめいているのを利来は見逃さなかった。それは期待か、信頼か、あるいはもっと別の、名状しがたい何かか……。利来は形容しがたい心地で、思わず視線を泳がせた。


その、刹那だった。

亜瑠紗の後ろに控えていた護衛の一人が、利来の古びた稽古着と、その穏やかすぎる風貌を値踏みするように眺め、隠す気もなく侮りの色を浮かべて鼻を鳴らした。

「おい、爺さん。亜瑠紗様がお呼びだ。さっさとこちらへ来い」

もう一人の護衛も、無言のうちに威圧するように一歩前に出る。彼らは都の、それも若き将軍直属の精鋭なのだろう。だが、彼らにとって、辺境の、見た目はただの老いぼれた道場師範など、道端の石ころ同然なのかもしれない。


ピリ、と空気が張り詰める。亜瑠紗が何かを言うよりも早く、事態は動いた。


利来は、表情ひとつ変えなかった。ただ、すっ、と柳の枝が風に揺れるように、ごく自然に息を吸い込んだ。次の瞬間、道場にいた誰も――亜瑠紗でさえも――何が起こったのか正確には認識できなかっただろう。


まるで疾風が吹き抜けたかのような、ほんのわずかな気配の揺らぎ。

そして、気づいた時には、二人の屈強な護衛は、驚愕に目を見開いたまま、完全に硬直していた。まるで時が止まったかのように、指一本動かせない。顔には信じられないものを見たという困惑と、理解を超えた現象への原始的な恐怖の色が浮かんでいる。

利来は、何事もなかったかのように、ただ静かに彼らの前に立っていた。彼の指先が、ほんの一瞬、二人の体の急所に、羽が触れるよりも軽く触れただけだった。それはあまりにも速く、あまりにも正確な一撃。寸分の狂いもなく相手の神経系を掌握し、一時的に麻痺させる、神業に近い領域の技だった。


「なっ……!?」


亜瑠紗は、驚きにわずかに目を見開いた。師の実力が衰えていないどころか、自分が知っていた頃よりもさらに深く、底知れないものになっていることを悟ったのだ。だが、彼女はすぐに将軍としての顔を取り戻し、硬直した護衛たちを鋭く一瞥した。

「この無礼者どもが! 師範に対して、何たる無作法か!」

その声は氷のように冷たく、戦場を震わせる将の威厳に満ちていた。動けない護衛たちは、主の叱責と目の前の男への恐怖に、ただただ震えるしかない。


利来は、ふぅ、と穏やかに息を吐き、静かに指先を下ろした。途端に金縛りが解け、護衛たちは糸が切れた人形のようにその場にへたり込んだ。もはや利来の顔をまともに見ることすらできず、ただただ床を見つめている。

「……いや、構わんよ。若い者の勢いは、悪いことばかりではない」利来は苦笑しながら言った。「それより、亜瑠紗。将軍になったとは聞いていたが、どうしてまた、こんな辺鄙な場所に?」

彼は努めて平静を装い、話題を変えた。


亜瑠紗は改めて利来に向き直り、今度は深々と、敬意を込めて頭を下げた。

「師範。本日は、どうしても師範にお願いしたき儀があって、罷り越しました」

その真剣な眼差しは、先ほどの将としての威厳とはまた違う、切実な響きを帯びていた。利来はごくりと唾を呑む。

「お願い? このわしにかね?」

「はい。師範に、天帝軍の『天軍武導師てんぐんぶどうし』にご就任いただきたいのです」


「……てんぐん、ぶどうし?」

利来は思わず聞き返した。古の昔、天帝軍の武術の頂点に立ち、軍全体を指導したとされる伝説的な役職。歴史の記録には残るが、とうの昔に廃れた、おとぎ話のような存在だと思っていた。

「馬鹿なことを言うな、亜瑠紗! わしのような、ただの田舎の道場師範に、そんな大役が務まるはずがなかろう!」

利来は珍しく声を荒げた。自分の実力は自分が一番よく知っているつもりだ。弟子を育て、武術の道を伝えることはできても、国の軍隊を、その頂点に立って指導するなど、想像もつかない。あまりにも現実離れしている。


しかし、亜瑠紗は微塵も揺るがなかった。その瞳は、一点の曇りもなく利来を見据えている。

「いいえ、師範にしか務まりません。師範でなければ、駄目なのです」

彼女は懐から、緋色の袱紗に包まれた巻物を取り出した。広げられたそれには、紛れもなく皇帝陛下の御印が押された、正式な任命書が記されていた。

「今の天帝國は、内外に多くの問題を抱え、滅亡の危機に瀕しております。特に、天帝軍の弱体化は深刻です。兵の士気は地に落ち、武術は形骸化し、もはや国を守る力とは言えません。この国を、軍を立て直すには、師範の、その真の武術の力、そしてその魂が必要なのです! これは、決して私一人の考えではございません。陛下もまた、師範のお力を切望されております!」

亜瑠紗の声は熱を帯び、有無を言わせぬ迫力で道場に響いた。その真っ直ぐな瞳は、利来の心の奥底にある、封印していたかもしれない何かを揺り動かすようだ。


利来は言葉に詰まった。目の前にある任命書の重み。亜瑠紗の揺るぎない意志。そして、先ほど自らが振るってしまった、規格外の力。それは、このまま俗世を離れた隠遁者のように、静かに暮らすことを許してくれないのかもしれない。亜瑠紗の、その必死な表情を見ていると、彼女の願いを無下に断ることが、ひどく残酷で、許されないことのように思えてくる。かつて手塩にかけて育てた弟子が、今や国の行く末を憂い、自分を頼って、はるばるこんな辺境までやってきたのだ。


「…………わしには、荷が重すぎるかもしれんぞ」

それでも、利来はか細い声で弱音を吐いた。自信のなさは、彼の長年の性分でもあった。

「いいえ、師範ならできます」亜瑠紗は、微塵の疑いもなく、きっぱりと言い切った。「私は、誰よりも師範の本当のお力を存じております」

その絶対的な信頼に満ちた眼差しに、利来の心は大きく、そして激しく揺さぶられた。


ちょうどその時だった。道場の奥から、静かな足音と共に、利来の父、源蔵げんぞうが姿を現した。彼は道場の隅に座り、一部始終を黙って見守っていたのだろう。皺の刻まれた顔には何の感情も浮かんでいないように見えたが、その静かな目は、息子と、そして見違えるように成長したかつての弟子の顔を、順に見比べた。

「……利来」

源蔵は多くを語らなかった。ただ、息子に向かって、力強く一つ頷き、こう言った。

「お前の道を行け」

それは、多くを語らずとも、息子への全幅の信頼と、覚悟を促す言葉だった。


利来は、大きく、深く息を吸い込んだ。霧が晴れるように、心の中の迷いが消えていく。腹は、もう決まっていたのかもしれない。

「…………わかった。亜瑠紗、お前の言う通りにしよう。……ただし、この老骨にどこまでできるか、保証はできんぞ」

「ありがとうございます、師範!」

亜瑠紗の顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。それは、厳しい戦場の将軍の顔ではなく、心から尊敬する師に認められた弟子の、純粋で無邪気な喜びの表情だった。その一瞬の笑顔に、利来の胸は、先ほどとは違う意味で、再び強く打たれた。


こうして、上方利来の運命の歯車は、予期せぬ形で、しかし確かな音を立てて大きく動き出した。

寡黙な父に見送られ、亜瑠紗と共に、道場の前には不釣り合いなほど立派な馬車に乗り込む。これから始まるであろう都での生活、天軍武導師という、まるで現実味のない役割。不安は霧のように心を覆う。だが、それ以上に、隣に座る、美しく成長した元弟子の存在が、彼の心を落ち着かなくざわめかせていた。

亜瑠紗は、一体何を考えているのだろうか。彼女が本当に求めているものは、自分の力だけなのか、それとも……。

馬車は、土埃を上げながら、慣れ親しんだ故郷の道を離れ、遥かなる都へと向かって走り出した。その先に何が待ち受けているのか、利来にはまだ、知る由もなかった。ただ、この再会が、自分の人生を根底から変えてしまうだろうという予感だけが、強く胸に響いていた。

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