7話目 家庭教師をチェンジされた話 右子side
包帯姿の私を見ても、『そんな君も尊い······』と言ってくれた家庭教師はいつの間にか来なくなってしまった。
こんな風に挨拶もなく辞められるのは、寂しい。
家庭の事情か、それとも急病か。
そんなに具合が悪そうではなかった。
いつも私の話を真剣に聞いてくれる良い先生だった。
けれど、そういえば、苦悩に満ちた顔をすることがよくあった、かもしれない。
私がやたらめったら質問した時だと思う。
疲れさせてしまったのだろうか。
となると······精神的な病かもしれない。
私のぐるぐる巻の包帯も良くなかったかもしれない。
まるで彼の病状を悪化させたきっかけのように感じてしまう。
やはり、禍々しい私である。
せめてお別れの挨拶の手紙を書こうか。
それか、何ヶ月かたって次の季節が来たら、先生も落ち着くかもしれないから、その時にまた家庭教師をお願いしてみるのもいいかもしれない。
ちょっと気分が浮上する。
我ながらうじうじ悩んで鬱陶しいなと思う。
いっそ、もう少し淡白になれたら楽なのに。
「こんにちは。ご機嫌いかがですか。」
ちょうど13時。颯爽と部屋に入ってきたのは、例の美しき私の婚約者候補様だった。
先日、街で一緒になった時は色々買って貰った。私だってお金を用意していたのに、頑として全てキャッシュで払ってしまった。自分の買い物を臣下に払わせるなんて、帝族の風上にも置けないと思う。
それゃあ、奏史様はセレブ、というかむしろノーブルだけれど。
恩に着せる様子がないのもそれはそれで怖いものだ。
大金持ち怖い。
今日も後光が差しかねない眩しさだし。
神々しさとしては数段私の上だろう。
はぁぅぁ、カッコいい。
「奏史様。すみません、今日は勉強の予定が······」
礼儀正しい彼が突然連絡も無しで来訪するのは珍しい。
先日しこたま買ってもらった品々の手前後ろめたいけれど、今日は新しい家庭教師が来ることになっているのだ。さすがに顔合わせを延期するのは避けたい。
「そのお勉強を、私とするのですよ。」
奏史様は悠然と微笑んだ。
なんと、彼こそが今日からの私の家庭教師らしい。婚約者候補の上に家庭教師、肩書が増えている。
帝族とのコネを作るため、貴族が息のかかった優秀な人材を推薦することは多くある。
だけど、公爵家の跡取り息子が自ら家庭教師だと乗り込んで来るのは、如何なものか。
「金原宮君は突然の退職でしたからね。交替が見つからず取り敢えずは、私が貴方の家庭教師をします。帝女の教育係を適当に見繕うことはできませんので、これからゆっっくり厳選いたします。金原公爵家より李鳥公爵家が家庭教師選定の任を引き継ぎましたので。」
あれ、私の家庭教師って公爵家周りで決めることになっているの?
そういえば、本来は私専属の執事がやりそうな仕事なんだけど、いないんだよね私の専属執事······
そんなのは、いたら面倒くさいからいいんだけど。
「金原宮先生はどうされたんですか?」
「彼は、一身上の都合でね。まあ、心のバランスを?崩されたようですよ。」
「そうですか······」
私は予感が的中したのだと、それ以上は恐ろしくて聞くことをやめてしまった。
彼の精神の安寧を願う。我儘な帝女から離れればきっと回復するでしょう。
手紙を出すのは、もっと、来年ぐらい先にしようかな。
今日は顔合わせとはいえ、知り合いなので、このまま勉強に入るのかなと思っていたが、一向に始まらない。
奏史様は、ずっと私の部屋の中をぐるりと見渡している。何かおかしい所があっただろうか。舐めるように見るのは止めて欲しい。
彼はふと、机の上置いてあった先日自分が買った品々を見定めつつ言った。
「そういえば、なぜこの品々を?授業で使う予定だったのですか?」
私はおもむろに『そろばん』をじゃらっと掴んだ。
「そうです。これを金原先生に教えてもらう予定だったのです。」
そう、そろばんだ。
これがこの世界にあって本当に嬉しい。列の玉の数が違わないか心配だったけれど、前世と同じだ。
まだ電卓は一般的ではないので、そろばんは商売の必需品である。私は前世で友達に教えてもらってなんとか一通り弾いて計算できる。この際、教えて貰わなくても大丈夫だ。
私の将来の夢は、市井で商売をして一般人としてささやかに暮らすことだ。取り扱う品物は、好きなので美術品や工芸品が良い。
残念ながらそうそう叶わない夢だろう。
それでも、身分剥奪、放逐や追放、はたまた国家転覆など、大どんでん返しがあるかもしれない。
なにせ、異世界に転生しちゃうことがあるのだ。
·······人生は何があるか分からない。
なので用意だけはしておきたいのだ。
そこで市井の暮らしに詳しい金原宮先生に手伝ってもらい、準備を着々と進めていた。
一般国民になるための準備は、あれこれ妄想するのが楽しくて、庶民グッズ収集はすでに私のライフワークになる予感がしている。
「そうですか······私が買っておいてなんですが、帝女がそろばんというのは、なんというか、似合いませんね。」
奏史様が笑った。
確かに『そろばん=商人』というイメージがあるけれど、私の夢がその商人だと聞いたらさぞかし驚くことだろう。
婚約者に気軽に話せる事ではない。
買ってくれておいて文句は今更だと思う。
そしてそろばんが欲しいという私の為に、店で最も高価なそろばんを躊躇なく選んだのは、奏史様その人だった。
何でも珠は象牙を一つ一つ彫り出したもので白く輝き、木枠も丁寧に磨かれた滑らかな黒檀で、全体は白と黒のコントラストが美しく、四隅にはアンティーク調のアイアンの小さな飾り細工が取り付けられている。まさに職人技が光る極上の一品だ。
私は使い勝手の良くお得な価格の売れ筋を店員に聞くつもりだった。もちろんその極上品は売れ筋などではなく、一番上の高い棚に燦然と飾ってあった。
言わば、鑑賞用そろばん(?)だ。
気が遠くなるお値段だった。
これはこのまま家宝にするしかないと思う。
奏史様は、買い物で悩んだ時は高価な方を迷わず買えばいいという考え方をするお人みたいだ。
だけど、そういった大盤振る舞いの積み重ねでいつか破産してしまっては元も子もない。
家族にそういう輩がいたらすごく困ると思う。
奏史様は今度は、こちらも先日買ってもらった雑誌本の山を見て言う。
「帝女殿下がこういった世俗的な物を読まれるとは、これまた意外ですね。」
先程からやけにちくちく突いてくる。
市場には様々な娯楽を目的とした雑誌が並んでいたので、目につく片っぱしから購入してもらった。荷物は奏史様の護衛兵が運んでくれた。
もしかしたら、あの時は街のゴミゴミした雑踏から最短で去る為に闇雲にお金を出してくれただけなのかもしれない。
如何にも貴族然とした奏史様に雑踏は似合わないものねぇと、私は密かに呆れため息をついた。
テレビもネットもないこの世界は、
窓のない監禁部屋と同じだと思う。
帝女である私は、監禁とまではいかなくても軟禁状態である。
いくら前世でも引き籠もっていたし性に合ってるといえど、テレビもネットもないのでは引き籠もるメリットが微塵もない。ゲームもアニメも嗜めないのでは、趣味の絵を描いたり工作したり読書したりでそうそう時間は潰せない。
何でもいい。
とにかく目まぐるしく動く映像が視たいのに。
いつもと変わらない庭園の景色を窓から眺めて満足しなければいけないのでは暇な脳が発狂しそうである。壮大な季節の移ろいは極めてスローな動画と言えないこともないけれど。
窓がテレビだなんて、
笑えないなぁ。
ゆったりした時間が性に合わないのは、前世からの庶民時間が魂に刻み込まれているからかもしれない。
巷で何が流行っているのとか、気になってしまう。
入手した大衆向け雑誌はどれもまだ写真は少ないが、表紙や挿絵にカラフルなイラストが飾られて、綺麗で可愛くて時には扇情的で、いかにも明治大正時代を彷彿とさせる雰囲気だ。大正ロマン、とても好ましい。
これらがあればしばらく楽しく生きていけると思った。私が魂に刻み込むほど2次元を愛するオタクで良かったと思う。前世からの大事なボーナスである。
私が『少女画報』と印字された乙女らしく可愛い表紙の少女雑誌を手に取って見つめてにこにこしていると、どういうわけか奏史の瞳はきらきら輝いていった。
輝かんばかりの美しい青年の立ち姿は、特にイベントでなくともそれはもう一枚のスチル·····いや、絵画のようだ。
「ふふ、殿下、表紙の絵の乙女の様なきらきらしたお目々をしていますよ?庶民の雑誌から民草を知ろうとなさって、何て健気なんですか······」
そう呟いて、いやいやそっちの瞳こそ輝いてるのに、彼は顔を片手で覆っている。
健気ってどういう意味だっけ?
どうやら都合良く解釈してくれたらしい。
うん、沈黙は金だな。
私は軽く頷き、包帯の下でここぞという時の帝族アルカイックスマイルを繰り出した。
「ご理解いただきありがとうございます。あ、もうお勉強の時間ですよね?」
今日の勉強を済ませてさっさとお茶にしたい。
私には、この2次元から飛び出したかのような、この美しい青年の姿をゆっくり心に描きとめる時間が必要だと思った。