9話目 (前世の記憶) 施設のクリスマス 敦忠side
街の喧騒の外れ、
教会の隣に僕らの養護施設はあった。
東京は寒い冬には雪が降ることもある。
その教会の前に僕が捨てられたのは、そんな雪の降る凍えた夜だった。
「二人ならあったかいね。」
姉さんがぎゅうっと僕を抱きしめる。
僕が泣き止むと、こんな時なのに、姉さんは笑った。
「キラキラ·····きれいだね。」
姉さんがどうしてか光ってる気がして、それが眩しくて、僕も目を細めて笑った。
その後大人達は、その時の僕らは清らかな光に包まれて、二人とも天使のようだったと話してくれた。
不思議な話だけど、その日は聖夜だったからみんな奇妙だなんて思わなかったそうだ。
信心深いとは、凄いことだと思う。
何度も反芻してきた話だ。
あの時姉さんは6歳で僕は3歳だった。僕はまだ小さいのに覚えている気がするのは、きっと後々話を聞いて記憶を補完したんだろう。
それでも、寒さが抱きしめられて和らぎ温かくなった感覚はリアルだ。
姉さんは親から捨てられただろうその忌まわしき日を、温かく優しい思い出に変えてくれた。
ともあれ、それが姉さんとの一番古い記憶だ。
姉さんは大人達に僕らは姉弟であること、捨てた親はどうしようもない生活難で姉弟をここに捨てに来たことを辿々しく説明したという。そのまま僕らは隣接する養護施設で育てられることになった。
姉さんの名は右月。僕の名は敦忠。
これは教会に出入りする大人に命名してもらったそうだ。 姉さんはショックのためか名前を覚えてないと言うし、僕は僕で『アツ』しか言えなかったそうだ。
施設内で『きょうだい』がいるのは、密かに優越感だった。
姉さんは美しくて可愛くて可憐で、おまけにとびっきり優しいから、僕は皆に羨ましがられた。
何より殺伐とした経験を持つ子が多い中で、僕だけが血を分けた大好きな家族が側にいることが嬉しくて嬉しくてちょっぴり罪悪感で、信じていない神にすら何度も感謝した。
でも幸福は、きっと、永遠に与えられるものではない。
僕たちは施設からいつか出なくてはいけない。その時に姉弟だからといって一緒に居られるのか?
僕は考えるほど怖くなった。
施設の隣の教会から定期的に牧師が『お茶話会』を開きに来ていた。
僕は宗教は嫌いだから、
牧師のありがたい話の内容は全く聞いてなかったけれど
『隣人を愛しなさい』
という言葉が一番嫌いだった。
隣には姉さんがいつもいたから、それはもちろん愛せたけど、他のどうでもいいやつは到底愛せる気がしない。
おまけにこの狭い施設には心も狭い奴らがウロウロしている。僕を含め心がねじ曲がっている奴ばっかりだ。
いつも二人で楽しそうにしている僕らが鼻につくんだろう。執拗にちょっかいを出してくる。
奴らに、もちろん愛さないでやるから僕たちの半径5メートル以内は一切寄ってくるな、と心の中で罵った。
牧師が施設に来ると、だいたい大きい子供は手伝いに駆り出され、その時12歳で一番歳上の姉さんは『茶話会』の『お手伝いリーダー』だった。
今年はクリスマスの日にクリスマスページェントという宗教劇をやるので、これからクリスマスまでの茶話会は小学生メンバーだけでページェント劇の練習をすることになった。
クリスマスページェントとは、イエス・キリストの誕生を描いた聖誕劇である。
監督に決まった姉さんの演技指導はかなりスパルタだった。皆、スパルタな姉さんは意外だったみたいで厳しい檄が飛ぶたび、戸惑いで顔が引き攣っていた。
姉さんは凝り性で、配役から脚本と音響、舞台美術まで自分でやるつもりだと言っていた。
オーディションで、僕は天使ガブリエルの役をやることになった。マリアに神の子の受胎告知をする。
姉さんは監督なので役が無いのが残念だ。マリア様なんてぴったりだと思っていたのに。
でも綺麗すぎる姉さんが主役になったら、みんなの目が釘付けになってしまうし、それは嫌だと思う。それに、姉さんに年増の役なんて似合わないかもしれない。
夫のヨセフもいるのを思い出す。
うん、似合わない。監督で良かった。
だけど、途中から強引に加わった牧師の馬鹿息子が、大幅に脚本を改変した。
「面白いからいいじゃない?」
姉さんは平気そうだったけど、あいつは部外者なのに、腹が立つ。
3人の博士は医師に変更になったし、羊飼いは助産師になっていた。めちゃくちゃなストーリーだ。
僕の役の天使ガブリエルは新米天使で、受胎の聖女マリアが誰か分からずウロウロ彷徨い、妙齢の女性に当たってはくだけ痴漢扱いで迷惑をかけまくる。
その紆余曲折がなぜかコメディーで、当日は大いにウケた。
「たぶん、あなたです!あなたのお腹に神の子が。」
たぶん、に観客がウケる。
「えー!バカを言わないで!私まだ結婚もしてないのに!」
マリアは処女なのに神の子を妊娠しヨセフと結婚する。
正直、原作からして生々しくて胸糞悪い話だ。
後は自信の無い新米助産師が迷いを振り切り、見事出産の介助をやり遂げる。新米医師もようやく適切な指示を出し、とうとう神の子がーーー
ライトが眩しく当たる。
この照明は姉さんの仕事だ。監督は当日はできることが少ないからそれも受け持ったそうだ。
皆でイエス・キリストの誕生を喜ぶ。
ぐるぐる巻にした毛布の塊イエスだけど。
学年の小さな子と幼児は可愛らしい天使の衣装と羊の着ぐるみ二手に分かれ、踊り狂う。
最後に、照明を片手にした姉さんがナレーションを入れる。
「私達の人生はこれから新しい事の連続です。でも今日この日、この世に神の子がお生まれになったことに感謝し、心に刻みたいと思います。私達もみな神の子ども達です。父である神は努力する子どもを見放しはしないでしょう。」
拍手喝采だった。
かなり改変しちゃって神を冒涜する内容だと思ったけど。牧師の馬鹿息子のせいだ。
こんなストーリー、
本当にいいの?
姉さんが考えたいい感じのラストのナレーションが無かったら大目玉だったと思う。
カーテンコールだ。
幸いにもたかだか小さな施設での子供劇に文句を言うつもりの大人は居ないようだ。
牧師の息子は舞台の真ん中で慇懃にお辞儀していた。馬鹿はヨセフ役をちゃっかりやっていた。