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不死猿 ~死なずの猿~  作者: あざらしごまふ
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第一話 心猿 正に帰す

 三蔵は馬に乗り、山裾へと連なる森を歩んでいる。馬の轡を引いているのは、二日前に知り合った伯欽という男だ。まだ薄暗い早朝だというのに、伯欽はすこぶる機嫌よく、出会ったばかりの行きずりの僧の供をしている。

 一昨日、三蔵は虎に襲われたところをこの男に救われ、彼の家で食事を供してもらったうえに泊めてまでもらった。であれば、一方的に世話になったのは三蔵の方であるはずだが、伯欽は馬上の三蔵に何度も頭を下げ、ひたすらに有り難がっている。


「いやあ。まさかこんなことがあるなんて。俺ら猟師は殺生が仕事、地獄へ行くのは仕方がねえと思っていたんだが、徳の高い坊さんってのはすげえもんだなあ。死んだ人間の穢れを洗い流して、来世まで幸せにしてしまうんだからなあ。本当に、有り難えこった」


自分に向かって、今朝から何十度目かの手を合わせる伯欽に、三蔵は曖昧に微笑んだ。


 虎から救われた一昨日の晩、伯欽に伴われて家にやってきた三蔵の前に、夕べの斎の膳を置いた伯欽の母は、やにわに頭を下げ始めた。

 数年前に死んだ夫の命日が翌日なのだが、国境の田舎のことで、ろくな供養もしてやれぬ。こんなあばら家に高僧をお招きできたのは、仏縁と言うよりほかにない。どうか夫のために、お経をあげてもらえないか、というのだ。もちろん三蔵に否やはなく、伯欽の父のために、昨日一日を費やして、法事を行った。

 すると今朝、出立の準備をする三蔵の前に、伯欽一家が並んで平伏した。伯欽、伯欽の母、伯欽の嫁と、一家全員の夢枕に故人が立ち、涙を流してこう言ったという。


「死んでより今まで地獄で責めを受けていたが、突然、閻王が現れて、安楽な所へ移してくれた。しかも、じきにどこぞの長者の元へ、転生できることになったのだ―――」


伯欽一家は、これも三蔵の供養のおかげと頭を下げたが、三蔵自身は、自分に地獄の閻魔大王を動かすほどの力があるなどと、自惚れてはいない。彼らの見た夢は、彼等の心の痞えが取れたことの現れだろうと思っている。しかし、それを言葉にすれば、伯欽たちの信仰心に水を差してしまうことになりそうだったので、「貴方がたのお父上を思う心が御仏に届いたのでしょう」とだけ言って、共を申し出た伯欽とともに家を出た。


☆           ☆


 この三蔵が、長安を発ったのは、八日ほど前のことである。

 大唐国の今上皇帝 太宗が、水陸大会を発願し、数多の高僧を長安に集めて法話をさせていたところ、そのお祭り騒ぎの群衆の中に、釈迦の命を受けた観音菩薩が紛れ込んでいて、なんやかやとあおった挙句、「衆生を救わんと欲するなら大乗の教えを学べ」と、僧と皇帝を焚きつけた。それを受けて、陳玄奘なる僧が、天竺大雷音寺にいる釈迦牟尼の元へ大蔵経を取りに旅立ったというのは、大唐国の人間なら知らぬ者はない。だが、その陳玄奘、出立にあたって名を変え、唐三蔵と名乗るその僧が、実は尼僧であると知る者は、大唐国の中でもほんの一握りしかいない。

 尼僧が取経に赴くということに、反対するものは大勢いた。だが、他に一念発起して旅にでようというものは、誰もいなかったのだ。

 観音菩薩が皆の前に姿を現した時、太宗は衆生を救うことができるという経文を心から欲したようだが、元より皇帝である彼が長期間国を空けて経を取りに行くことはできない。誰か自分の代わりに行ってくれる者はおらぬかと周囲に問いかけるも、居並ぶ男達は皆尻込みし、ひそひそとささやきを交わすだけだった。貞観十三年のこの時、大唐国こそ平安と発展を享受しているが、一歩国外へ出れば、妖怪や魔物が我が物顔で跋扈している。天竺までの道のりなど、とても命あって行けるものではない。

 自分に下命されることを恐れて顔を上げることすらできぬ男共を、玄奘はそわそわとしながら眺めていた。確かに危険な道行きではあるだろう。だが、行かぬことには経文を読むことができず、誰一人この大唐国で大乗の教えを説くことができぬではないか。

 陳玄奘という尼僧は、道徳もあり、言行も基本的には慎み深く、経文その他の知識に関しては他の追随を許さぬほどに深い、僧としては完璧な人物であった。ただ、僧侶がかくことを許される唯一の欲心が、この広い大唐国で一番大きな女だった。その欲とはすなわち、知識欲ある。他に比類ない知識を有しているのは、その底知れぬ知識欲があったればこそで、幼少の頃より、自分がまだ知らぬ経があると聞けば、どれだけ遠くの寺であっても訪ねていき、書庫にある書物や経文を読み漁ってきた。玄奘を指導する立場にあった金山寺の尼僧長は頭を抱えたが、悪行を働いているわけではないし、行く先の寺院に対しての礼節もきちんと通すので、止めることもできずに今に至っている。現在では、およそ大唐国にある経文は、全て、彼女の頭の中におさまってしまっている。

 そんな玄奘であるから、観音の話を聞き、自分の知らぬ仏の教えがある、自分がまだ見ぬ経文があると思うと、見たくて知りたくて仕方がない。

 憶病風を吹かせてばかりの男共に焦れた彼女は、ついにその場に立ち上がってしまった。


「私が取りにまいります。」


皇帝も僧侶たちも動転した。


「い、いや、玄奘。そなたは尼ではないか」


口々にいう僧たちを大きな目で見回して、いっそ静かに玄奘は言った。


「尼ではいけませぬか?仏の教えを追い求め、衆生を救わんとする心は、私も皆様と同じでございましょう?先ほどのご様子では、皆様、長安を離れることができぬご様子ですので、私が天竺へ参ります。どうか、出国のお許しを下さいませ」


そう言って玄奘は再び床に座して頭を下げたが、なおも座はざわざわと声がおきるだけだ。その声の内容は、女の身ではこの危険極まる旅を成し遂げることはできまいというものだったが、実のところは皇帝の名代で尼僧を釈迦牟尼の元へ赴かせることへの、女性蔑視からくる対面の悪さを気にしているということが、視線や言葉尻から透けてみえていた。だが、そう口々に言い合いながらも、ならば自分が行こうという度胸は、この場にいる僧たちの誰にもない。

 再び焦れる玄奘と、口を動かすことしかできない男達のうえに、突如笑い声が降り注いだ。皆が眉をひそめて声がする方向を見れば、そこにいたのはさきほど正体を現した観世音菩薩だった。


「いいんじゃないか?一たび世俗を捨てて出家をすれば、男も女もない。確かに、お釈迦様(ゴータマー)は男だが、私などはどちらでもないよ。玄奘と言ったかな?その者はこの場にいる誰よりも、経文を欲し、そのためなら艱難辛苦も恐れぬというのだ。ならば、他の者のやることはひとつ。取経を彼女に託し、彼女の無事を祈って、気持ちよく送り出すことさ」


その観世音の言を聞き、「うむ」と膝を打ったのは太宗だった。男どもの不甲斐なさは否めぬが、兎も角も経を取りに行こうという、玄奘の心意気は買うべきだろうと思ったようだ。皇帝陛下がお決めになったことであれば、僧ごときがとやかく言うことではない。老僧たちはため息をもって諦観し、若い僧たちは自分に水を向けられずにすんだことにほっとして、玄奘を送り出すことにした。

 太宗は、玄奘がもどるまではと水陸大会を中断し、宴を設けて玄奘を励ました。さらには、女性の身でありながら誰もやりたがらぬ危険な大事に挑む玄奘を称え、紫金の鉢と道中の各国国王への親書と、そして唐三蔵の名を玄奘に与えた。

 観音菩薩はあのやり取りの後、「天竺で待っているよ」と一言言って玄奘の肩を叩き、九環錫杖と金襴袈裟を手渡して立ち去った。


 そういうわけで、この誰もやりたがらなかった西天への旅を玄奘が引き受け、今に至る。


☆           ☆


 伯欽が、馬上の三蔵を振り仰いだ。


「お坊さま。じきに両界山に入ります。残念ですが、そこでお別れです」


三蔵はさすがにぎょっとした。山に入れば、一昨日出会った大虎のような猛獣が多く出る。自分ひとりではこの山すら越えられるかどうかわからない。


「せめて、次の集落まで共に行ってはもらえないでしょうか?」


三蔵がそういうと、伯欽は頭を振った。


「それが、無理なんでさあ。両界山は国境にあるんでその名がついた山なんで、山のあちら側は、もう韃靼なんですよ。俺は唐の人間だから、国を出るわけにはいかねえんです」


「そうですか……」


三蔵が落胆しつつもうなづくと、突然地鳴りのような音が聞こえた。


「な、なんでしょう?これは」


三蔵はうろたえたが、伯欽は落ち着いた様子で笑って言った。


「ああ、猿が呼んでいるんですよ」


「猿?」


「この両界山は、韃靼と唐の国境と定まるまでは、五行山と言ったそうなんですが、その山の下に、猿が一匹下敷きになってまして」


「山の、下敷きに?」


「ええ。本人が言うには五百年の間そこでそうしてるっていうんです。信じられねえ話じゃありますが、ま、案外本当かもしれませんぜ。何しろ、飲み物も食い物もないのに、俺の爺さんが物心ついた時から、そこにいたそうですからねえ」


三蔵は目を白黒させたが、そういわれればその地鳴りのような音、「おーい、おーい」といっているように聞こえる。

 伯欽はその声に向かって「ああ、今行くよ!」と怒鳴り返し、三蔵を目で促して馬の轡を引いた。気づけば、地鳴りは止まっていた。


 伯欽が馬を止めたとき、三蔵はそれから目が離せなかった。

 山裾の地面の小さな裂け目から、湯につけすぎた黒茶のような色のまるい物が動いている。その丸いものには細かな凹凸があり、そのうちの小さな二つのくぼみが上下に開くと、赤い二つの光が現れた。その不気味なうごめくものに、伯欽は恐れげもなく近づいて話しかけた。


「おいおい、どうしたんだい。今日はばかに大声を張り上げていたが、どこか痒いところでもできたか?」


伯欽が丸いもののてっぺんを掻いて、生えていた苔をはがしてやると、丸いものは赤い光をすがめて伯欽を睨む。そうして動いているのを見れば、確かに猿の頭のように見える。その猿のようなものは突き出た口をさらに突き出して悪態をついた。


「馬鹿野郎。今更そんなことでお前を呼ぶか。俺が用があったのは、そっちの人だ」


猿の頭は赤い瞳を三蔵に向けた。不思議な光景に三蔵の驚きはまだおさまっていなかったが、ひとまず害はなさそうなので、馬を降りてそちらへ少し近づいた。

 猿らしきものは、動きづらそうに顎をあげて、じっと三蔵をみている。猿の横にしゃがんでいた伯欽が三蔵を見上げて笑った。


「ああ、この方か。この方は長安からはるばる西天天竺へお経を取りに行く方で、大変徳の高いお坊様なんだぞ。なんたってなあ―――」


と、伯欽はなぜか自分が胸を張って、昨日からの出来事を得々と話そうとしたが、猿の大声がそれを遮った。


「そうか!やっぱりそうなんだな!なあ、あんた…じゃねえ、お師匠様!俺をここから出してくれ!」


「え?」


三蔵は耳を疑った。見るもの聞くこと、何一つ現実味がない。三蔵は猿の目の前に行き、猿の瞳をのぞき込んで言った。


「そこから出せと言われても、私は見てのとおりの非力な僧で、とても山を動かす力などありはしない。そういうことなら、そちらの伯欽に頼むほうが、まだ見込みがあるのではないか?」


それを聞いて伯欽は笑った。


「いやいや、こんな岩山、動かすどころか、ひとかけら砕くことすらできやしませんよ」


猿は何度も首を振った。


「違うよ、違うんだよ!」


「何が違うの?」


猿は困ったような形に眉根をすがめ、首を三蔵に正対する位置に動かして話しだした。


「俺は五百年前、天界をわが物にしようとたくらんで、天帝のいる天宮で暴れまわったことがあるんだ。まあ、他にもなんやかやとやらかして、最終的に、お釈迦様にこの山の下敷きにされたってえわけなんだ。それでまあ、五百年の間、手足も動かせずここにこうして…口に入れるもんは山から流れ出る銅の汁だけって有様だったんだよ」


「それでよく死ななかったね」


三蔵がそういうと、猿はちょっとバツが悪そうな顔をした。


「それはそのう、色々やらかしたから……。王母娘娘の桃園の桃を食い散らかしたり、太上老君の金丹をくすねて食ったり……。で、不老不死。食わなくても死なないし、剣で刺されようが山につぶされようが死なない体になった、ってわけで」


「へえ………」


途方もなさすぎる話に、三蔵もどう反応していいかわからなくなった。ただ、伯欽の母や祖父母が赤子の頃から、ここでこうして山に潰されていたわけだから、まるきりの嘘ではないのだろうとぼんやり考えた。すると、ここまでじっと聞いていた伯欽が混ぜ返した。


「お前ねえ、さっきから聞いてりゃ、法螺ばっかり吹いてるんじゃないよ。お坊さんがこまってるじゃねえか」


猿は屹と伯欽を睨んだ。


「うるせえよ!お前は引っ込んでろ」


猿は三蔵に向き直ったが、三蔵はなお黙っている。三蔵の沈黙をなんと受け取ったのか、猿は困ったように話し始めた。


「いや、さすがに悪かったと思ってるよ。こんなとこに閉じ込められちまったのも、そりゃ仕方ねえさ。ほんと、いろいろやったからな。」


それは反省しているということなんだろうか、と三蔵は思った。猿は、首をもたげて三蔵を見上げた。


「それでよ。観音のや…観音菩薩が、この間ここに来て言ったんだよ。もうじき唐から天竺へお経を取りに来る坊さんが来る、そしたらお前はその人にここから出してもらって、その人の供をして天竺まで行くように、って」


三蔵は目を瞠った。なるほど、唐から天竺への道のりは、百鬼妖怪の跋扈するところだという。一昨日の大虎でさえ、伯欽がいなければ命をとられていたところだった。それが妖怪となればどうなることだろう。しかし、この猿なら……不死の者が供にいれば……。

 猿はさらに言った。


「な、俺をここから出してくれ。天竺まででも天界まででもお供するぜ」


三蔵は、いささかうろたえながら言った。


「し……しかし出すと言っても、一体どうすれば……」


猿は視線で上を指した。


「ほんと言うと、俺にとっちゃこんな山、重くもなんともねえ。けどよ、そこらへんにお釈迦様が貼ったお札があんだろ?それがこの山をびくともしねえように押さえてやがるんだ。そいつさえお師匠様が剥がしてくれりゃ、俺は自分でここから出られる」


そして、三蔵に向けてなおも言った。


「な、頼む。俺をここから出してくれ。そのお札を剥がしてくれ」


この猿が言う通り、観音菩薩が三蔵の供をするよう言ったのであれば、五百年という時間でこの猿の心根も変わり、釈尊の許しが出たということかもしれない。

 三蔵は猿に向かって頷いた。


「わかった。やってみよう」


三蔵は猿の頭上の、ごつごつと岩が突き出した崖を眺めまわした。猿の体の上と思しきところにはひときわ大きな岩があり、その岩肌に、古びた護符が一枚貼ってある。長い間風雨にさらされた形跡はあるものの、しっかりと岩に張り付いていて、岩肌に精巧な護符の絵が描かれているのではないかと思うほどだ。護符には『唵嘛呢叭め(口迷)吽』の六文字が書かれている。位置は、猿の頭の真上。三蔵が手を伸ばしてやっと届くくらいのところだ。

 三蔵は一度手を合わせ、西天を拝むと、猿の頭の横に立って護符のほうへ手を伸ばした。


 三蔵の手が護符の前に翳された時、正視するのも難しいほどの光が幾筋も放たれ、風に吹かれるようにふわりと護符がひとりでに宙に浮いた。そして玻璃の杯が砕けるように、きらきらと輝く数多の破片となって霧消した。

 伯欽も、そして三蔵自身も、呆然とその光景を見つめていた。金縛りにあったかのような二人を現実に引き戻したのは、足下からの声だった。


「よーし、これでいい。じゃあ、あんたとお師匠様は、危ねえからちょいと離れて、岩陰にでも隠れといてくれ」


三蔵と伯欽が猿の声を聞いた辺りまで引き返し、大きな岩の陰に馬共々身を隠すと、


「隠れたな?じゃあいくぜ!」


と声がして、天地が真っ二つに割れたかのような音がした。そして、大小さまざまな岩や石つぶて、樹木や土などがバラバラと降ってきて、しばらくは目を開けていられなかった。

物音が落ち着いて、おそるおそる目を開けた三蔵たちは、猿の居た場所に戻ってみたが、そこにあった両界山は人の背丈ほどの岩をまばらに残すだけとなり、猿としてはかなり大柄な真っ黒い猿が立っていて、首元や腕をボリボリと掻いていた。


「お前……。これ、お前がやったのか」


伯欽が周囲を見回して言った。猿は手首を揉みながら「ああ?」と態度悪く伯欽を見た。何を当たり前のことを言っているんだと言いたげである。

伯欽は、しげしげと猿の全身を眺め回してさらに言った。


「いや。お前、本当に手も足もある猿だったんだなあ」


猿はあきれたように言った。


「当たり前だろう。何言ってんだ」


猿は、話しながらひとしきり手足を曲げたり、腰を回したりすると、するりと三蔵の前にきて師父の礼をした。


「そいじゃ、お師匠様。出掛けましょうか」


早速、馬の手綱を取る猿に、三蔵は目をしばたいた。


「お前、本当に私に弟子入りするつもりなのかい?」


猿は赤い目をきょとんと見開いて三蔵を見た。


「そりゃあ、あの山の下から出していただいたんですから、天竺までぐらいお供させていただきますよ。いけませんか?」


えらく簡単に言ってのける猿に、三蔵は頭をふった。


「そりゃあ、観世音菩薩の肝煎りではあるし、何も問題はないよ」


「じゃあ、いいじゃないですか」


猿は、先ほどの山の破裂で土ぼこりをかぶった馬の鞍を、ぽんぽんとはたいて三蔵を乗せようとする。

三蔵は言った。


「だけど、ここから先大唐国を出れば、百鬼妖怪が跋扈しているそうだよ。それでもいいのかい?」


三蔵自身は、何がなんでも天竺へ行き、経文をもらう覚悟を決めているが、この猿にそれだけのつもりがあるのかと、三蔵は危ぶんだ。猿は肩を震わせて小さく笑い、三蔵を見やった。


「だからでしょう」


「え?」


「だから、観世音菩薩は俺を供につけたんでしょう。悪いけどお師匠様、あんた一人じゃ、この先三日も命がもたないよ」


そんなに過酷な旅なのかと、三蔵が眉をひそめると、猿は笑った。


「だから大丈夫ですって、さっき言いましたけど、俺は五百年前、天界で大暴れをして、その時天界軍とも互角以上に渡りあったんですよ。妖怪の千や二千、まとめてかかってきたって、お師匠様には指の一本も触れさせませんって」


黒い顔で笑う不死身の猿に、三蔵はやっと「そうかい」と言った。


「それじゃあ出家をするんだから、戒名を授けないといけないね」


三蔵が言うと、猿は微笑んだ。


「もう、以前いただいている名があるんです」


意外に静かに、誇らしげに猿がいうので、三蔵はやや感心して促した。


「何というんだい?」


「悟空。俺の名前は、孫悟空です」


三蔵は頷いた。


「悟空。いい名だね」


猿の悟空も、満足げに頷いた。伯欽が割って入った。


「いやあ。こりゃあ、いいお弟子さんができた。何しろ山を吹き飛ばしちまうほどの怪力なんだ。もう、この先何が来ても大丈夫ですね」


笑う伯欽を、当たり前だと悟空が小突いている。三蔵は、伯欽に丁寧に礼を述べ悟空に荷物を背負わせ、馬を引かせて西へと向かった。


 もと両界山であった所は、細長い岩が樹木のように天に向かってそびえ立ち、岩の林のようになっている。悟空と三蔵はその岩の間を、西へ向かって歩いた。

 地面の下だったところが剥き出しになったことで、虫が表に出てきたのだろうか。岩の各所に鳥が止まって、チュンチュンと岩肌を突いている。三蔵はそれを眺めて、どんな光景も、鳥などの小さな動物がいれば、心和むものとなるものだと思った。

 悟空が山をならしてしまったので、一刻ほどで両界山を抜けたらしい。岩の林が途切れ、本物の樹木が現れた。ぽつぽつと悟空と話しながら歩を進めていると、悟空が突然足を止めた。


「どうしたんだい?悟空」


三蔵が尋ねると、悟空は馬の手綱を持っていた左手を三蔵に向かって上げ、黙っているように手ぶりで告げた。赤い瞳が油断なく周囲をを見つめ、何かの動きを追っているようである。

 やがて悟空は背負っていた荷を静かに下ろし、音を立てずに三蔵の乗る馬の前に移動しつつ、右手を右の耳に持っていき、勢いよく振り下ろした。すると今まで空手だった右手の中に、長さ六尺ばかりの鉄の棒が握られていた。

 驚く三蔵の耳に、落ち着き払った悟空の声が聞こえた。


「お師匠様、すぐにすみますから、そこを動かないで下さいね」


三蔵が返事をするより早く、大きな咆吼が聞こえ、左側の木陰から巨大な虎が三蔵めがけて躍りかかってきた。三蔵は肝を潰して声も出ず、馬の首に抱き付き、たてがみに顔を埋めた。が、落ちかかって来るはずの虎の牙も爪も、体温すらも感じない。いななく馬を反射的になだめつつ顔をあげると、虎は中空で悟空の鉄棒に腹を突かれ、三蔵に牙を剥いた格好のまま、そこに留まっていた。

 更に二頭のうなり声が聞こえ、そちらを見れば、三蔵と悟空に向かって前方から二頭の虎が歩み寄っている。

 悟空が鉄棒を一閃させ、棒の先の虎を二頭の方へ投げつけた。二頭は飛び退って同胞の体を避け、再び悟空めがけて飛びかかる。

 悟空は棒を両手で握ると、先に飛びかかった虎の眉間に棒の左端を叩きつけて砕き、ついで襲いかかる虎の首を右端で叩き折り、よろよろと立ち上がった最初の虎に駆け寄って、鉄棒を大上段から頭に向かって振り下ろして、あっという間に虎三頭を仕留めてしまった。


呆然とする三蔵に、悟空が笑った。


「ああ。ちょいと運動して、ようやく体が馴染んできましたよ。何しろ五百年、身動きひとつできなかったもんですから」


目の前で起きたことがまだ信じられず、三蔵は目をパチパチさせた。


「いやあ、驚いた。この間、伯欽が虎を仕留めた時も驚いたが、それだって、もうひとまわり小さな虎一頭相手に、二刻も戦ったんだよ」


悟空はひょいと肩をすくめた。


「非力な人間と、一緒にしないでくださいよ」


言いながら悟空は、左腕を上げて上腕に鼻を寄せたが、すぐに渋い表情で顔を離した。どうも左の上腕と腹のあたりに、虎の返り血がついたらしい。悟空は耳に手を当ててあたりを探っていたが、やがて駆け寄って馬の手綱を掴むと、生い茂る木々の間にぐいぐいと馬を引っ張りながら言った。先ほどまで手にあった鉄棒は、いつの間にやら消えている。


「すいません、お師匠様。ちょっとだけ、寄り道をさせください」


馬上の三蔵が戸惑いつつ了承の言葉をいう間に、鬱蒼とした木々の向こうが明るくなってきた。足早に進む悟空に引っ張られて行くと、そこは比較的大きな池になっていて、岸辺には菖蒲や水仙が美を競っていた。


「ここで、ちょっと待っててください」


言うと悟空は、荷物を下ろしてざぼざぼと池の中に入っていった。ここで虎の血を洗い流すつもりなのだろうと了解し、三蔵は馬から下りて、岩の隙間から湧き出している清水を手に汲んで口に運んだ。悟空は、頭まで水に浸かり、ガシガシと体中を擦っているようだ。時折尖った口を水面に突き出して息継ぎをするが、それ以外は水の中である。三蔵は、池のほとりに座って悟空を待つことにした。

 やがて、ふーっと気持ちよさげな嘆息が聞こえ、池の中央近くに水柱があがった。ぶるぶると体を震わせて、水しぶきを飛ばす猿を見て、三蔵は驚いた。

 『美しい』と三蔵は思ったのだ。虎の血とともに、五百年分の汚れを洗い流した悟空は、その姿は全くの猿であるにも関わらず、とても美しいと三蔵には感じられた。真っ黒だった全身は、実は艶のある茶色い被毛に覆われていて、顔と、胸から腹の部分だけに、赤みの強い皮膚がみえている。水に濡れた被毛ごしでも、みずみずしい筋肉が逞しく引き締まっているのが分かる。中天にさしかかりつつある太陽を 赤い目を眇めて見上げる様も、顔についた水を手で払い除ける仕草も、全てが『精悍』と銘打たれた野生的な彫像のようだ。

 思わず三蔵が見惚れていると、ついと赤い瞳がこちらに流れて、何事か言いながらばしゃばしゃと水をかき分けてこちらに向かってきた。

 三蔵は、何故か正視してはいけないものがこちらに向かってきている気がして、赤らめた顔を背け、傍らにあった荷物を開いて中を漁った。悟空が三蔵の傍に現れた時、目当てのものを見つけた三蔵は、目を背けたまま、それを悟空に差し出した。


「お古だが、良かったらお前にあげるよ」


悟空が受け取って広げると、それは古いが清潔な一組の白衣(はくえ)だった。悟空はそれを身に着けて、三蔵を呼んだ。


「どうです?お師匠様」


三蔵が振り向くと、嬉々として腕を広げて見せる悟空がいた。つやつやと陽光をはじき返す被毛に真っ白な衣がよく合っている。悟空は猿としてはかなり大きく、背丈は三蔵とほぼ同じだ。


「うん、いいね。修行者らしくて」


三蔵が微笑むと悟空もにっかと笑った。


「ありがとうございます。それじゃ、さっぱりしたところで先に行きましょうか。日暮れまでにこの森を抜けないと、虎のいる森でお師匠様を野宿させることになっちまう」


悟空は三蔵を馬に乗せ、荷を負って歩き出した。


 その夜は、森を抜けたところに小さな小屋を建てて暮らしている家族に出会い、一晩泊めてもらうことができた。彼らはここから北西に広がる高原地帯のはずれに細々と暮らす少数民族のようだったが、行きずりの旅の者に優しかった。

 翌日、一家に別れを告げて歩を進め、日がだいぶ高くなってきた頃、突如複数の馬蹄の音と、意味の分からぬ叫び声とともに、六人の野盗にぐるりと取り囲まれた。どの顔も人品卑しきと形容するよりほかはないような顔つきで、三蔵を眺めまわしている。六人とも右手に刃の部分が大きく湾曲した、片手使いの刀を持ち、巧みに馬を操って、悟空たちの周囲を円になって回っている。


「坊さんかあ。大したものはもってなさそうだが、その馬はいいな。丈夫そうな肉付きをしているじゃねえか」


野盗の頭目らしき男がいうと、三蔵は静かに手を合わせた。


「私は唐から天竺へ参る旅の僧ゆえ、持ち合わせるもの一つございません。この馬も旅の途中でさる家から施捨いただいたもの。この馬を取られてはこの先旅を続けることができません。どうか、ご容赦ください」


野盗達は大笑いした。


「心配すんな、坊さん。あんたはここから先にいくこたあねえからよ」


哄笑する野盗たちのうち一人が、三蔵をしげしげと見て言った。


「兄貴。この坊さん、女ですぜ」


「なんだ。坊さんなんか大概細っこい奴ばっかだから気づかなかったぜ。へえ。よく見りゃ、いい顔して―――」


言葉途中で、頭目の頭が砕け、馬上から体が吹き飛んだ。中空に音もなく飛んだ悟空の体があり、右手には昨日と同じ鉄棒が握られている。悟空は頭目を吹き飛ばした鉄棒をそのままの勢いで右方へ振りぬき、さらに二人の頭を打ち砕くと、一度着地してさらに飛んだ。


「悟空!!」


三蔵は叫んだが、跳躍した悟空は繰り出した鉄棒を鋭く返し、残り三人の体を鉄棒に絡めとると、「粗!(太くなれ)」と唱えた。すると鉄棒は巨大な丸太のような太さになり、地響きを立てて三人の体ごと地面に落ちた。着地した悟空が手をかざすと鉄棒は消えたが、三人の体は平たく潰れ、血や臓物が地面にべっとりと張り付いていた。野盗達の馬は主を失い、いずこへか駆け去っていった。

 三蔵は馬を降り、蒼白になって周囲を見回していたが、握りこんだ手を耳元に運んでいる悟空に向かって怒鳴った。


「お前!なんということをしたのです!!」


悟空はきょとんとして振り向いた。


「殺生は仏門の固く戒めるところ。なのにお前はこのように惨たらしく………」


三蔵は言葉にならぬとばかりに身を震わせているが、悟空はそもそもなぜ怒っているのかがわからない。悟空は三蔵を見つめたまま、首をひねって言った。


「何言ってんだ?あいつらお師匠様を殺すつもりだったんだぜ?言ってたろ?俺たちはここから先には行けない、って。あれはそう言う意味なんだぜ」


「そんなことはわかっている!」


「殺らなきゃ殺られる。だから殺した。それが悪いってのか?」


「そうだ」


「はあ?」


悟空は顔全体を歪めた。本当に訳が分からない。師匠は天竺へいきたいんじゃなかったのか?百鬼妖怪が蔓延る道のりだと、自分で言っていたではないか。不殺の戒など守っていたのでは、まず辿り着ける所ではないということが理解できないのだろうか?


「俺は昨日、虎を殺した。伯欽も虎を殺した。みんなあんたのためにやった。あんただって、それを認めていただろう。同じことじゃねえか」


「虎が人を喰らうのは業だ。それを終わらせるには命を取るしかない。しかし人は違う。生きていればこそ、犯した罪を悔いることができる。それをお前は奪ったのだ!」


目に涙を浮かべながら言い募る三蔵を、悟空は冷笑した。


「じゃあ何か?あんたはここで、あいつらが改心して俺たちを殺すのを諦めるまで、延々と言って聞かせるつもりだったのか?そこまで呑気に待ってくれる訳がねえだろうが!」


「それでも殺してはならぬのだ!」


「意味わかんねえよ!」


遂には悟空も絶叫し、彼らの他には人一人居ない草原のただ中で、二人はしばしにらみ合った。

三蔵が口を開いた。


「わからぬなら……これからも殺生を繰り返すつもりなら、お前とこれ以上共に行くことはできぬ」


悟空も頷いた。


「みてえだな」


言い捨てて悟空は三蔵に背を向けたが、顔を半ばだけ振り向かせて言った。


「あんたがこの先何に出くわすか知らねえが、妖怪はあんたを取って喰おうとするだろう。奴らは徳の高い僧侶を喰ったら寿命が延びると信じてるからな。人間は、ひょっとしたらさっきみてえな奴らでも、あんたを殺さないかも知れねえ。だって、あんたは女だからな。ああいう奴らにとって、あんたは生かしておく価値がある。まあ、売りさばかれるにしろ、奴らの手元に置かれるにしろ、尼さんのあんたにとっちゃ死んだ方がましなめにあうだろうぜ。あんたが旅をするってことは、そういうことだ」


三蔵は、短い草が風にそよいでいる地面に目を落とした。


「たとえ悪党でも、妖怪でも、人語を解する者ならば、仏の教えを聞くことができる。悔い改める機会はある。………お前がそうであるように」


悟空は僅かに眉を動かしたが、ついと顔を背けると、ひらりと宙に飛び上がり、姿を消した。


 三蔵はひとつため息を吐いた。三蔵とて女の身であるからには、自分が煩悩の対象になる、性的な暴力の対象となるということを知らなかったわけではない。だが今、あの野党共が自分を女と知った瞬間の、下卑た、値踏みをするような目つきを見て、自分の認識の甘さを思い知らされていた。そして、改めて悟空の口から言われたということが、三蔵の心に鋭く刺さった。昨晩、悟空は当然のように三蔵と共に眠ることになったが、彼は微塵もそんな素振りを見せなかったのだ。

 彼はあの下卑た男たちとは違う。そして世の男たちの大半が、悟空ではなく、あの野盗と同じ側なのだと、そう悟空は言ったのだ。

 しかし、人殺しは絶対に受け入れることができない。

 三蔵は、死んだ野党の腕から曲刀を取ると、刀を地面に突き立てて土を掘り始めた。弟子の不始末を償うことにはなるまいが、せめて死んだ者の供養しようと思ったのだ。

 己の知らぬ新たな仏道を求めて旅をしているのに、仏の道を外れて何としよう。そんなことで、新たな仏の教えを知ることなどできるはずがない。

 三蔵は、そこだけは譲ることができなかった。


 ようやく男六人を入れることのできる穴を掘り、無残に飛び散り、または潰れて蔵物のはみ出した死体をできうる限りかき集めて埋葬し、経をあげ終えると、三蔵は疲れ果ててしまった。

 一人先へ進む気力も起きず、草を食む馬の傍へ座りこんでいると、草原の向こうから、老婆が一人、こちらへ向かって歩いて来るのが見えた。

 老婆は手に小さな風呂敷包みを持ち、背には銀蓮花に似た白い花をいっぱいに入れた籠を背負っている。老婆は三蔵が作った土饅頭を見つけると、背負い籠を下ろして白い花を数輪土饅頭の上に手向け、両手を合わせて目を閉じた。

 やがて老婆は目を開けると、今度は三蔵の方へ数歩歩み寄って手を合わせた。慌てて座り直し、手を合わせて答礼した三蔵に、老婆は声を掛けた。


「お坊様は、このようなところで何をなさっておいでですか?」


三蔵は俯いた。


「私は長安より参った旅の僧でございます。今朝方、ここで盗賊に襲われまして……」


「おやまあ」


老婆は顔を顰めた。


「その時は弟子が一人おったのですが、その弟子が六人いた盗賊を、全員殺してしまったのでございます。それが、先ほど貴女様が手を合わせてくださったあのお墓なのです」


「まあ、それは……」


と、老婆は絶句したが、ほどなく三蔵に向かって再び手を合わせた。


「兎も角も、お坊様がご無事でようございました。で、お弟子様は?」


三蔵は苦く答えた。


「私が不殺生を教えるべく叱りつけましたところ、腹を立てて飛び出して行ってしまいました」


三蔵は、ひとつため息を挟んだ。


「私に、弟子を教え導く力が無かったのでしょう」


老婆は柔らかく微笑んだ。


「師が迷われていては、弟子は行く先を見失ってしまいまする。お坊様は、お坊様の信じる道を行かれませ」


三蔵ははっと顔を上げた。老婆は、風呂敷包みを取り出して、三蔵に差し出した。


「婆の甥子が身につけていた物でございます。お弟子様がお戻りになったら、差し上げて下され」


老婆が三蔵に渡したのは、栗皮色の僧帽と布袍だった。

 三蔵はもはや、この老婆を只者とは思っていなかった。三蔵は渡された衣服から目を上げて、老婆を見た。老婆は至近から三蔵の目を見つめている。悪戯を企んでいるかのようなその目は、年寄のものではなかった。


「そして今からお教えする真言を、しかと覚えておかれませ。お弟子様が貴女様の言いつけに従われぬときは、この真言をお唱えなされば、必ず従いましょう」


「何という真言ですか?」


「定心真言。またの名を禁箍呪と言います」


老婆は口伝で真言を教え、三蔵が諳んじたのを認めると、満足げに頷いて一条の光となって消えた。三蔵は立ち上がり、その光の軌跡を追った。


「あの方も、天竺のお方なのだなあ」


三蔵はくすりと笑った。

 三蔵を覗き込んだあの目は、間違いなく観世音菩薩のものだった。一度お姿を拝しているのだから、三蔵と菩薩だけしかいないこの高原で、わざわざ姿を変える必要はないのではないかと思うのだ。おそらくは菩薩も天竺の神同様、化身(アバターラ)がお好きなのだろう、と三蔵は思った。

 三蔵は、再び馬の陰に腰を下ろした。観世音菩薩が連れ戻しに行った悟空を待つつもりだった。


☆        ☆


 一方、三蔵の前から姿を消した悟空は、雲に飛び乗って東へと向かっていた。

 この雲は、觔斗雲と言い、三蔵が向かっている長安から天竺までの距離、十万八千里など、瞬きをいくつかするくらいの時間で着いてしまうという代物だが、今は速度を緩めて悟空はしばし思案していた。三蔵のいうことに腹を立てて飛び出して来たものの、故郷である花果山水廉洞にまっすぐ戻る気にもなれず、さてどこで何をしようか、というところである。

 ふと下を見ると、丁度東洋大海の上に差し掛かっていた。竜族の長、東海竜王敖広の居城があるところだ。


(暇つぶしに、水晶宮で茶でも飲んで行くか)


悟空は、敖広の居城、水晶宮へと急降下した。


「やあ、これは斉天大聖じゃないですか。しばらくぶりです」


敖広は、気さくに内門まで出て来て、にこやかに悟空を迎え入れた。

 この水晶宮を悟空が訪れたのは二度目である。前回訪れたとき、悟空は自分専用の得物を求めて居直り強盗まがいの脅迫をしたので、敖広以外の家人の視線は、東洋大海が凍りつくほど冷たい。そんな中で敖広がこのような態度を取れるのは、竜王敖広の底知れぬ懐の深さゆえだ。

 ちなみにその折に手に入れたのがあの不思議な鉄棒なのだが、水晶宮の宝物庫にはあったものの、竜王の力をもってしても動かせぬほど重く、無用の長物と化していたものであったため、悟空のほうには無理を通したという自覚がまるでない。

 竜王敖広は、中庭の四阿に悟空を案内するべく歩き出した。


「大聖は、出家して西天へ旅をなさっていたのではないのですか?」


「………よく知ってるな」


憮然として悟空が言うと、敖広は笑った。


「そりゃ、五行山が爆発すれば、誰だって大聖に何かあったと思うでしょう。もう大聖が出家なさったことは、天上天下にあまねく知れ渡ってますよ」


「チッ!」


悟空は小さく毒づいた。


四阿に腰掛けると、青い衣を纏った雀鯛の娘が茶器を運んできた。娘を下がらせ、手ずから玉の杯に茶葉を入れる竜王を、ふて腐れた顔で見ながら悟空は言った。


「唐から天竺へ行くっていう坊さんがいたんで、弟子入りしたんだけどよ。この坊主がどうにも頑固者のわからずやだもんで、頭にきて出て来たんだ」


おいおい。と、竜王は思った。五行山が爆発したのはつい先ほど、地上界の時間でも、二日経っていないではないか。内心の苦笑を隠して、竜王は言った。


「まあ、お坊さんなんてみんな頑固者なんじゃないでしょうか。そうでなきゃ、生涯清貧に身を慎んで教義に身を捧げる、なんてできないでしょう」


言いながら茶葉の入った杯に敖広が湯を注いでいると、中庭を挟んだ廊下から、けたたましい物音と怒鳴り声が聞こえた。悟空と敖広が思わずそちらに目をやると、兵士のお仕着せを着た若い二匹の虯が、上官らしい壮年の虯に何やら怒鳴りつけられている。

竜王が困ったように頭を掻いた。


「どうも、お見苦しいところをお見せしてすみません。弟のところの訓練兵を預かってるんですが、勝手が違うとかなんとか言って、なかなかモノにならないんですよ」


東海竜王には、南海竜王の敖欽、西海竜王の敖閏、北海竜王の敖順と、三人の弟がいる。


「送り帰しゃいいじゃねえか。てめえの舎弟くらいてめえで躾けろ、ってよ」


「まあ、一度引き受けたものですから」


竜王は温和な笑顔で、湯気の立ち上る白茶を手で指した。


「お茶だって、こうしてじっくりと茶葉が静まるのを待たないと、美味しくならないでしょう?ですからまあ、二、三百年はこのまま面倒を見ようと思っているんです」


「三百年かよ」


悟空は自分の前に置かれた白茶を見た。

 椀の中では菊花のような形に固まっていた茶葉が、ひとひらずつ剥がれて水面に浮き、また沈んでゆく。白牡丹だろうか?温めの湯から立ち上る湯気は、甘やかな香りを乗せている。

 天界に連なるものには、半永久的な寿命がある。そんな者たちにとってみれば、百年という時間もさして長くはない時間ではある。が、決して短いとはえない。大体こちらの時間の一日は、人間の世界の一年なのだ。敖広はできの悪い兵士を教育するのに、三百年かけるといった。それだけかければ、何世代の子猿が兵士になれるだろう。ばかばかしいほど鷹揚にほほ笑む敖広の顔が、三蔵と重なって見えた。

 悟空は、がばと立ち上がった。


「悪りぃ、竜王。俺、やっぱり戻る」


敖広も立ち上がった。


「そうですか?では、またついでの折にお越しください」


「ああ」


悟空は中庭を出て行きかけて、突然敖広に向き直った。


「ありがとな、竜王」


竜王は驚いたようだったが、微笑んでゆっくりと頭を下げた。


 悟空が水晶宮を辞したのは、観世音菩薩が三蔵の元を発った直後だった。三蔵が洞察したとおり、はじめ菩薩は悟空を説得して三蔵の元へ戻らせるつもりだったのだが、中空へでたところで、東洋大海から觔斗雲がこちらに向かってくるのが見えた。菩薩は微笑み、南海普陀落山に進路を変えた。

その菩薩の後ろ姿を、悟空も視界の端に捉えていたが、心せいている悟空は深く気にとめなかった。

 悟空は雲の高度を落とし、目を凝らして三蔵を探した。さして遠くへ行ってはいまいと思ったが、別れた場所にまだとどまっていた。


 三蔵が再び馬の脇にすわりこんでから、それほど時間をおかずに悟空が天から降りてきた。

 悟空は三蔵を見、ついで三蔵が作った土饅頭を見た。土饅頭の上に花が置かれているのを見て、それが何なのかを悟ったらしく、ため息をひとつ吐いて目を伏せた。それから、数歩三蔵に近寄って言った。


「俺はまだ、お師匠様の言ったことが、正直よくわからねえ。けど、ここでお師匠様のところを離れるのは間違っていると思った。だから戻って来た」


悟空は、赤い目で正面から三蔵を見ている。三蔵は頷いた。


「私は、決して間違ったことを言ったとは思っていない。だが、先ほどの私の態度は、師として取るべき態度ではなかった。修養が足りなかった」


三蔵はいつの間にか伏せてしまっていた顔を上げ、件の布袍と帽子を差し出した。


「お前がいない間に出会ったお婆さんにいただいたものだ。私より、お前の方が似合いそうだから、使うといい」


悟空は歩み寄り、衣服を受け取った。赤みがかった栗皮色の衣は、確かに色白の三蔵にはあわなそうだった。三蔵の気品高い眉目とつややかな白い肌を際立たせる法衣は、銀杏葉のような黄辛子の直綴か、いっそ墨染の衣だろう。


「それでは、遠慮なく」


悟空は一度軽く額にいただき、三蔵が頷くのを見て早速身につけた。

 着てみれば、悟空の艶のある茶色の毛並みに、栗皮色の衣はよくあった。まんざらでもなさそうな顔で帽子までかぶった悟空をみとめて、三蔵は口の中で真言を唱えた。


「うあああああっ!ぐあっ!何だこれっ!うああああ!!」


突如、悟空は頭を押さえて七転八倒しはじめた。驚いて三蔵が真言を止めると、悟空もぴたりと動きをやめた。互いに何事がおこったかわからず、呆然としていたが、悟空は押さえていた頭にそれまでなかったものの感触を見いだした。


「何だこれは?」


悟空の頭には先ほどまでかぶっていた帽子はなく、鈍く光る金色の輪がはまっている。悟空はその輪を取ろうと、きっちりとはまっている輪と頭の皮膚のあいだに爪を差し込み、輪を取ろうとする。

三蔵は慌てて、再び真言を唱えはじめた


「いっ!いてっ!ぐいいいいいいぃ!!」


悟空は、悶えながら三蔵に目をやった。三蔵が真言を唱えるのをやめると、荒い息を二つ三つ吐いて、悟空がゆらりと立ち上がった。


「あんたが何か唱えるとこの輪っかが俺の頭を締め付ける。あんた一体―――」


悟空はよろめきながら立ち上がり、恨めし気な顔で三蔵に詰め寄ろうとして、はたと何かに気づいたように立ち止まった。


「ここに来るときに、観音菩薩が南海に帰って行くのを見た。この服と帽子を渡したのはあの野郎だな!」


悟空が身を翻しかけるのを見て、三蔵は止めた。


「やめたほうがいい」


悟空が歩を止めて振り返ったのは、三蔵の声が常の調子と変わらなかったからだろう。悟空はぎろりと三蔵を見た。


「私にこの真言を教えたのは、観世音菩薩なのだから」


教えた当人が真言を知らぬはずはない。悟空は一度天を仰ぎ、腕を組んで考え込んだ。三蔵もふうと息を吐き、冷静になって考えた。

 観世音菩薩のいう『三蔵の言うことに従うようになる』というのは、こういうことだったのか。なんとも直接的というか、駄々っ子を躾けるようなやり方だ。三蔵の顔をのぞき込んだ時の観世音菩薩の瞳を思い出して、まるで悪戯をたくらむ悪童だと三蔵は思ったが、天界の神々の手を焼かせたような悪猿にはこういうやり方しかないのかもしれない。


 悟空が組んでいた腕をほどいた。困り果てはしたが観念もした、といった表情で三蔵に言った。


「お師匠様。俺はあなたがおっしゃったことには従うように心がけます。だから、お師匠様もやたらとその呪文を使わないでくださいよ」


三蔵は何度も頷いた。


「ああ。わかった」


悟空は衣服についた土を払うと、気を取り直したように荷を負いながら言った。


「さあ、日暮れまでに南の山に入っちまいましょう。野宿するにしても、こんな見晴らしのいい草原じゃあ、野盗や獣に見つけてくれって言ってるようなもんですからね」


三蔵は、悟空が轡を引く馬に乗った。傾いてゆく日と同じ方角に向かって、ほくほくと馬に揺られている三蔵を、悟空は胡散臭そうに見上げた。


「どうしたんです?いやにご機嫌じゃありませんか。俺を懲らしめる手段ができたことが、そんなに嬉しいんですか?」


三蔵は声を立てて笑った。


「そうじゃないよ」


「じゃ、何です?」


三蔵は目を細めて低い太陽を見上げた。


「さっきお前、『ここに来るときに、観音菩薩が南海に帰って行くのを見た』って言っただろう?」


「ええ」


「だったらお前は、菩薩に説得されたのではなく、自分の意志でここに戻ってきたということだ。私は、それが嬉しかったんだよ」


悟空は照れたらしく、三蔵から目を離して視線を彷徨わせている。どうにもお互い不器用な性分らしいと三蔵が思っていると、悟空がつぶやく声が聞こえた。


「この服には、何の仕掛けもないだろうな」


悟空はしばらくの間、疑り深く布袍の襟を引っ張ったり、懐をのぞき込んだりしていた。


 悟空の出奔騒ぎから数か月。移ろいゆく季節の中を、三蔵と悟空は至って元気に旅していた。時に野盗に襲われ、時に熊や豹に襲われた。動物の中にも長く生きたものの中には不完全ながら妖力を持つものもいたが、土台悟空の相手ではない。悟空の方でも極力殺さぬように心がけているので、後々害をなさぬ程度に懲らしめて、あとは適当に蹴散らしながら着々と西へ向けて進んでいる。

 悟空はまだあの栗皮色の布袍を着ている。三蔵からもらった白衣の上に布袍をひっかけて、途中で襲ってきた虎の毛皮を割いて帯代わりにしたものを、腰に巻いて縛っている。布袍の前はほとんど合わせていないので、何とも無頼な感じだが、それもまた悟空には似合っていた。


 野宿の夜もたびたびあった。そんな時、三蔵は好んで悟空の話を聞いた。

 花果山の仙石が生んだ石の卵から生まれ、滝壺に飛び込んで水簾洞という住居群を見つけて猿族の王となったこと。觔斗雲に乗る術や七十二変化を学んだこと。幽冥界に行って冥界十王を殴り倒し、自分と仲間の名前を閻魔帳から消したこと。蟠桃園の桃や太上老君の金丹をくすねて食べたこと。などなど

 物心ついた時から尼僧として寺にいた三蔵には、想像の彼方にもないほどに遠い遠い世界の話だった。何しろ天地創造云々というころからあった仙石から始まる話なので、長い長い旅の夜にどれだけ聞いても尽きることがない。悟空の方でも、三蔵が飽きることなく目を輝かせて聞いてくるので、請われるままに話して聞かせた。


「時に悟空。お前が時折持っているあの棒は、一体どういうものなんだい?」


「ああ。あれは、如意金箍棒といいまして、元は東洋大海の東海竜王のところにあったものなんです。混世魔王ってやつに水簾洞を荒らされたときに、傲来国から武器を調達してきて猿軍を作ったんですけど、そしたら自分も自分に合った武器が欲しくなりましてね。竜王の宮殿にならなんかあるだろうと思って行ったんですよ。いろいろ試させてもらったんですが、どれも俺には軽すぎて。結局、宝物庫の奥にあったこの棒をもらったんです。もとは、天地創造の時に、海を沈めた錘らしいんですが、何しろ重さが一万三千五百斤もあるもんで、誰も動かせないからずーっとそこにほったらかしにしてあったんですよ。長さ太さは自由に変えられるし、重さもいいし、使い勝手は抜群です」


「現れたり、消えたりもするのかい?」


「消えてるわけじゃないんです。普段は半寸ばかりに小さくして、耳の中におさめてるんです。それを出して使ってるだけですよ」


「へえ!元の持ち主の東海竜王というのは、どのようなお方なんだい?」


「そうですねえ。竜族の長なわけですけど、俺の見たところ、なんつーんですか?昼行燈?人はいいんですけど、うすぼんやりした感じですね」


「……いや、そんなことはないだろう」


と、こんな具合である。

 そうして、西へ西へと歩を進めるうち、季節は移ろい、北からの風が骨身にこたえる季節となった。三蔵が、白い息を吐きながら言った。


「気のせいか、今日はまた一段と風が冷たいような気がするね」


吹き付ける風に顔の周りの毛をなびかせながら悟空が答えた。


「実際、冷たいんだと思いますよ。風の音の中に、小さく水音が混じっています。この先に大きな川があるんでしょう」


「なるほど、風が冷たいのは、川の湿気を含んでいるからなのか」


三蔵は、寒気にさらされて赤くなった頬を掌で擦った。

  ほどなく、二人の行く道はごつごつとした岩が多くなり、だんだんとそれは切り立った岩壁のようになってきた。やがて三蔵の耳にも川を流れる水の音がはっきりと聞こえるようになり、岩が途切れて目の前に大きな谷川が広がった。否、そんな長閑なものではない。荒まく流れは轟々と音を立て、そこかしこで白い水飛沫を上げている。

 三蔵は軽い違和感を覚えた。確かに川の両側は、ごつごつとした岩壁だが、川の上下でそれほど高低差があるわけではない。だのになぜ、こんなにも水が荒れていているのだろう。

 川幅は辛うじて対岸が見えるかどうかというほどに広く、水深もかなり深そうだ。西へ向かう道はといえば、この川の横の岩壁から細く突き出した足場を、川沿いに進むより他にない。

 

 悟空と三蔵は、思わず足元の川を覗き込んだ。


 その時、川の中央に巨大な水柱が上がった。幅こそ六尺ほどだが、高さは悟空や三蔵の頭よりもはるか上まで立ち上っている。その水柱のなかでは銀灰色の鱗がキラキラと光り、水柱の先端からは大きな竜の頭が突き出し、こちらを振り向いた。

 三蔵は声を上げたかも知れない。竜がおもむろに大きな口を開き、襲いかかってきたのだ。思わず馬の上に身をすくめかけて、三蔵は体がすくい上げられたのを感じた。力強い、温かいものに、しっかりと体が支えられている。思わず閉じてしまっていた目を開けると、悟空が自分を両手で抱き上げ、傍にそびえる岩壁をひょいひょいと登っているところだった。

 温かい体温を伝える腕と胸、柔らかい被毛の下で躍動する逞しい筋肉の動きを感じて、三蔵は瞬間、これまで感じたことのない感覚にとらわれた。 

 三蔵が悟空の顔を見上げると、悟空は下を見て小さくひとつ舌打ちをした。そうしながらも、五丈はある岩壁をあっという間に駈け上り、三蔵を崖の上に下ろした。


「くそっ!あの野郎、馬を喰いやがった!」


「何だって?!」


驚いた三蔵が断崖の下を見下ろすと、竜は小さな波を起こしながらブクブクと川の中に戻ろうとしている。

 崖下にいた馬が竜に喰われたと悟空は言ったが、それを確認するには崖の縁まで行かねばならず、今の三蔵の位置からは見えなかった。

悟空は荷物を下ろしながら言う。


「お師匠様、ちょっとここにいてください。俺、あいつをとっちめてきます」


言うが早いか、三蔵が返事をする間もなく、崖下へおりていった。

 無害な竜なら放置しておいても構わないが、先ほどの様子からすれば、この谷を行く旅人の馬なり命なり取って喰っているのだろう。第一、このままでは三蔵が無事に通れるかどうかもわからない。三蔵は悟空の武運を祈った。


 悟空は飛び降りざま耳から如意禁錮棒を取り出して、川へ向かって振り下ろしつつ「長!」と叫んだ。途端に棒は三丈ばかりも伸び、川の中央で水底に沈みつつあった竜の頭に命中した。怒った竜は、大きな水飛沫をあげて再び姿を現した。


「何をするか!この猿め!!」


悟空は突き出した岩の上に立ち、右足を引いて如意棒の先を竜に向け、隙のない姿勢で構えている。如意棒は、両手持ちの棒として、手ごろな長さに戻されていた。

 悟空は答える。


「そりゃ、こっちの台詞だ!馬を返しやがれ!!泥棒!」


「そんなもの、もう腹の中だ!」


「だったらお前の腹を裂いて出すまでだ!」


言いざま悟空は飛び上がり、竜の髭を掴んで頭に取り付こうとした。竜は頭を振ってかわし、巨体を悟空の周囲にうねらせた。先ほど頭に如意棒の一撃を受けた。あの時は周囲に水があり、いくらか棒の勢いを削いだのでどうにか堪えたが、あんなもの直接打ち付けられたらひとたまりもない。

 竜は、相手は猿と見て取り、どうにか絡みついて水の中に沈めようと考えた。

 悟空は、髭への突進が空擊に終わると、迫ってくる巨体を中空で体を一ひねりしてかわし、渾身の力で如意棒を胴体に叩きつけ、反動でこれまでいたのとは逆の岸に飛んだ。

 対岸は凹凸の少ない岩壁だったが、岩の間から小さな木が生えていた。悟空はその枝に手を伸ばしてぶら下がると、くるりと回転して枝の上に座った。

 竜は苦悶にのたうちながら、樹上の悟空を狙おうとしている。悟空は竜が体制を整える間を与えず、再び飛んだ。

 水面に蜷局を巻いている胴をめがけて飛び降りる。と同時に、ただ一枚の鱗に如意棒を縦に突き入れた。

 鱗が砕ける音がして、竜が咆吼した。勝ち目なしと見た竜は、水面に長い体を出してひとつ大きくのたうった。悟空は足元の踏ん張りがきかず、水に落ちて、竜の起こした水のうねりに呑まれた。


「悟空!」


思わず三蔵は崖の縁まで這い寄り、声を掛けた。すると、水面に小さな茶色い頭がぽかりと現れ、三蔵を見上げて軽く右手を上げてみせた。三蔵はほっと安堵の息を吐いた。

 悟空は岩の上に飛び上がり、竜を引っ張り出そうとなおも悪態をついてみせた。意気地なしの馬泥棒、うすのろ鰌、図体ばかりでかくてメダカほどの肝っ玉も持たないはりぼて野郎、と挑発した挙げ句、伸ばした如意棒を突っ込んで川の水をかき回してみたが、まるで出てくる気配がない。

 悟空は頭を掻いて、一旦三蔵のいる崖の上まであがってきた。


「畜生。あの野郎、敵わねえと悟ったのか、全くでてきませんや」


悟空は濡れた布袍の裾を絞りながら、心底困った様子で言った。三蔵がため息を吐いた。


「竜にも、親兄弟や世間的な上下関係などないのだろうか?誰かに頼んで、あの竜を呼び出すことができれば……」


「なるほど、『敵を倒すには、先ず敵を知れ』だな。よし」


悟空は頷くと、指を組み合わせて呪文を唱えた。すると、いつの間にか悟空の前に、今までみたことのない壮年の男が、頭を垂れて跪いていた。


「これはこれは、斉天大聖」


「『これはこれは』じゃねえよ。俺はさっきからここにいただろうが」


「そうでしたか!それは大変失礼をいたしました。何分雑用ばかりが多い身の上でして、ご容赦ください」


頭を下げる男に、悟空がさらに何か言おうと口を開いたとき、悟空の袖を三蔵が引いた。


「悟空」


「何です?」


「そちらの方は、どなたなのです?」


「ああ」


悟空は軽く体を脇によけて、三蔵と男を向き合わせ、男の方に言った。


「おい。俺が出家したことは知っているだろう。この方は俺のお師匠様だ」


以前、東洋大海に行った時に東海竜王の敖広が言った通りだとすれば、この男も悟空の出家を知っているだろうと思っての言葉だったのだが、やはり知っていたらしい。

 男は心得た様子で、三蔵に向かって挨拶した。


「ご挨拶が遅れました。私は、ここ陀盤山の山神でございます」


三蔵は驚いて座り直し、自らも名乗った。全く、相手は神様だというのに、この猿ときたらどうしてこうも頭が高いのだろう。


「それで、今日はどういったご用件でしょう?」


山神は、あくまで辞を低くしてたずねてくる。対して悟空は態度悪く、親指で川を指して言った。


「ここにいる鰌野郎、あいつは一体どういう奴なんだ?」


「鰌といいますと、ここにいる竜のことでございますか?」


「ああ。あの野郎、お師匠様の馬を喰いやがったんだ」


三蔵も頷くと、山神は困ったように眉を垂らした。


「さ、左様でございましたか。私の山で難儀なさっておいでとは、誠に申し訳ございません。ですが、何分あの竜のことは、私もよく知らないのでございますよ」


悟空は片眉を吊り上げて詰め寄った。


「知らねえだと?この川にいるもんを、山神のお前が知らねえってことはねえだろう」


「これ、悟空」


悟空に詰め寄られて、山神が怯えて後すざっているので、見かねて三蔵が窘めた。悟空が体を離すと、山神は窒息してでもいたように、二、三度大きく息をして言った。


「本当なんでございます。何年前でしたか、突然、観世音菩薩があの竜を連れておみえになり、しばらくここに置くから、とおっしゃったのでございます」


「菩薩が?」


声をあげたのは三蔵の方だった。山神は頷いた。


「この川は、元はとても流れがゆるやかで、水が透明に澄み切った、静かな川でございました。水面が鏡のように滑らかで、鳥が水面に映った自分の姿を、仲間の鳥がいるのだと勘違いして水に飛び込んでしまいますもので、川の名が鷹愁澗とついたほどでございます」


「それが、奴が来てからああなったってわけか」


悟空が、轟々と猛っている鷹愁澗の流れを顎で指した。


「左様です」


「それであいつはここを行く人間や馬を喰ってんのか?」


「人はどうかわかりませんが、鳥や馬は喰っているようでございます」


悟空は舌打ちして、腰に手を当てて言いつのった。


「なんで黙ってんだよ!観音が連れてきたのなら、観音に言って引き取ってもらやあいいじゃねえか!」


山神はもじもじと衣の裾を弄んだ。


「それは……しばらくの間だけだとおっしゃったものですから、すぐにしかるべき所へ連れていってくださるのだろうと思っていたのです」


悟空はため息を吐いた。

 全く、敖広もそうだが、神だの仏だのの天界人は、なんと悠長なのだろう。その『しばらくの間』に、どれだけの旅人が犠牲になるか、一体考えたことがあるのだろうか?

 悟空は三蔵に目をやった。三蔵は、『短気を起こすなよ』という目で悟空を見ている。悟空はぽんと膝を打った。


「よおし、わかった。俺が観音に掛け合ってくる」


山神はやや慌てた。


「し、しかし大聖!」


「なあに、大丈夫だ。俺達は観音菩薩に言われて天竺へ旅してるようなもんなんだ。そんな俺達の行く手を、自分が放った鰌野郎が阻んでるとあっちゃ、観音菩薩も知らんぷりはできねえだろ。なあ、お師匠様」


三蔵は少々心配そうな様子で悟空を見上げた。


「観世音菩薩がここに竜を放たれたということは、相応な理由がおありなのだろう。お前が礼を失することなく、そのあたりの事情を菩薩におうかがいできるのか、それだけが私は心配だよ」


悟空は面倒くさそうに頭を掻いた。


「わかりました。わかりましたよ。それじゃあ山神、俺が南海に行ってくる間、お師匠様をしっかりお守りしろよ」


「心得ました。大聖」


そう悟空は山神に後を頼み、身を翻して觔斗雲に飛び乗った。


 三蔵にはああ言ったが、悟空はこの際、二言三言の文句は菩薩に言ってやるつもりだった。やはり、やられっぱなしは我慢ならい性分である。

 雲を飛ばせばすぐに南海に着いた。雲の速度と高度を落として下をうかがえば、落迦山の崖のあたりに目指す菩薩の姿が見えた。悟空は雲から飛び降りた。菩薩は眼前に降り立った悟空の姿を見て、小首をかしげたが、すぐにニヤリと笑って先手を打ってきた。


「やあ。わざわざ布袍の着こなしを見せに来てくれたのかい?やはり私の見立ては合っていたようだね。よくにあってるじゃないか。コッチも」


自分のこめかみのあたりをつついて見せる菩薩を、悟空はじろりと睨んだ。


「あんたに人をいたぶって楽しむ趣味があるとは思わなかったぜ」


「私にそんな趣味はないよ」


「嘘をつきやがれ。今の今、からかったくせに」


菩薩は笑った。


「だって、人の身の三蔵にお前を従わせるには、頭痛のタネくらい握らせとかないと無理だろうが。お前なら大丈夫、すぐに付けていることも忘れるようになるさ」


そう言って笑う菩薩の表情は、あの時悟空が自由意志で自分の元に戻ったと知って、馬上で微笑んでいた三蔵の顔と同じだった。

 用はそれだけかい?と、菩薩が立ち去りかけたので、悟空は言った。


「じゃ、何で師匠の馬を竜に喰わせる?」


菩薩は眉を寄せて振り返った。


「何だって?」


悟空は剣呑な表情で菩薩を睨んでいた。


「陀盤山の竜だ。あんたが連れて来たんだろう」


菩薩は「だばんざん?」と口の中で呟いていたが、やがてぱあっと明るい表情で言った。


「ああ!あいつか!今、どうしてる?」


旧友の噂を聞くようにたずねてくる菩薩に、悟空は頭を抱えた。


「どうしたもこうしたも、鷹愁澗を濁流にして、旅の者を足止めしちゃあ、馬を取って喰ってるぜ!お師匠様の馬も喰われた!」


「あいつ…」


今度は菩薩が頭を抱えた。文字通り、左手で顔の半分を覆うようにして俯き気味の頭を抱えている。やがて、手を離すと、菩薩は先を促した。


「で?どうした」


「俺がちょっとばかしとっちめてやったら、敵わねえと思って巣に籠もっちまったよ」


「お前達が天竺へ行こうとしていることは、あいつに言ったのかい?」


「言う暇もねえよ!川べりに着いたとたん、有無を言わさずガブリだぜ?そんで、二、三発殴って、あとは馬を弁償させようにも、何を言ったって出て来やがらねえ」


「全く、どいつもこいつも……」


菩薩は天を見上げてため息を吐いた。


「わかったよ。とにかく、お前と一緒に陀盤山へ行こう」


悟空と菩薩は、雲をおこして陀盤山へ向かった。

 鷹愁澗の崖に着くと、三蔵と山神が叩頭して観音菩薩を迎えた。菩薩は「ああ、いいいい。ふたりとも、迷惑をかけたね」と言って、川へ向き直った。


「私だ。出て来なさい」


菩薩が言うと、川の中央に水柱が起き、「観世音菩薩様!」と声がして、竜が姿を現した。

 竜は菩薩の方を見、悟空が隣にいるのを見て、ぎょっと尻込みしたようである。だがそれでも、菩薩が自分の前をちょいちょいと指さして促すと、おそるおそる寄ってきた。菩薩は言った。


「お前は、西方へお経をとりに行く者を待っていたんじゃなかったのかい?」


悟空と三蔵は驚いた。竜が答える。


「待っておりました!いえ、今も待っております!ですが、待てども待てども一向に現れないのです」


菩薩は一喝した。


「自らの罪を悔い改めるべく、取経の僧を待っている者が、旅人の馬を喰らうとはどういうことだ!」


竜は恐懼して頭を垂れた。菩薩は、今度は悟空と竜を交互に見やって言った。


「大体お前たちは、話し合うということを覚えろよ。有無を言わさず腕力に訴えたのでは、伝わるものも伝わらんじゃないか」


菩薩は竜に三蔵を示した。


「お前が待っていた、西方へ向かうお坊さんは、この人だ」


「えっ、この方が?!」


次いで悟空を示した。


「そしてこれは、その一番弟子だ」


「えええええっ!!」


うろたえる竜、というのは、なかなか見られるものではない。三蔵は思わずしげしげと見つめた。観世音菩薩は明らかに笑いを堪えた顔で、三蔵に説明した。


「こいつは西海竜王敖閏の息子でね。ちょっとした火遊びからの出火で、宝物庫にあった竜珠を焼いてしまったんだ。竜珠は竜族の命とも言うべき物だからね。身内ではあるけれど、敖閏も天界の裁きを受けさせるしかなかった。死刑になるところだったんだが、私が責任を持つってことでここに連れてきてお前を待たせてたんだ。あんまり可哀想だったからね。"敖閏が"」


観世音菩薩は最後のところを竜に向かって言い、あまり馬鹿なことをして、私を後悔させるなと言い渡した。そして、三蔵と悟空に向き直り、


「お前たちの馬はこいつが食べてしまったそうだが、元よりこいつは、三蔵の天竺までの乗り物にするためにここに待たせていたのだ。地上の馬では、とても天竺までは保つまいと思ってね」


「そうなのです。先ほどは大変ご無礼をいたしましたが、精神誠意、天竺までおとも致します。さあ、どうぞお乗りください」


そう言って、竜は三蔵の前に頭を差し出した。

 その鼻面を、菩薩がぺちんと叩いた。


「馬鹿か、お前は。人の身の三蔵が、竜に乗れる訳がないだろう。お前が馬になるんだよ」


「ええっ!私がですか!?」


「当たり前だ」


菩薩は言い様、組んだ指で竜の面前にくるりと円を描き、呪文を唱えた。

 すると竜の姿は消え、美しい白馬が崖の上に現れた。鱗にも似た艶のある白い被毛、逞しい馬体、少し黄色みを帯びたたてがみは、太陽光を反射して金色に輝いて、性根はともかく見た目は三蔵に相応しいじゃないかと悟空は思った。


「これで扱い安くなったよ。馬の扱いは得意だろう?悟空」


観世音菩薩が白馬の首を叩きながら言った。

 悟空はその昔、天界で馬番の職に就いていたことがある。天馬の馬番なのだから、地上界の馬など、どんな暴れ馬でも悟空のひと睨みで従順になる。だが、天界の官職としては下っ端中の下っ端なので、侮辱されたと感じた悟空が暴れ出し、天界軍が出動することになったわけである。菩薩はそのことをからかったのだ。

 悟空はぷいとそっぽを向いた。


「あんたが人をいたぶるのが趣味だと言ったのは俺の間違いだ。あんたは、俺をいたぶるのが趣味なんだ」


菩薩は笑った。


「すまんすまん。今日はお前をからかいすぎた。お詫びにいいものをやるよ」


菩薩は傍に生えていた柳の葉を三枚取り、「変!」唱えた。すると三枚の柳の葉は、金色の三本の毛になった。


「困った時には、これを使え。きっと、お前の役にたつだろう」


菩薩は悟空の頭頂部にそれを挿すと、悟空の両腕を叩いて、「行っておいで」と言った。

 平服して礼を言う三蔵には、その滑らかな頬に触れてにっこりと微笑み、うなずいて一条の光となって消えた。

 三蔵が立ち上がると、いつの間にかいなくなっていた山神が現れて、声をかけた。


「三蔵法師様、斉天大聖」


山神は両腕に抱えた馬具を差し出した。


「いくら竜馬とはいえ、裸馬では大変でしょう」


「確かにな」


悟空は山神から馬具を受け取り、轡と手綱、鞍をつけて三蔵を乗せた。

 二人はすっかり静かになった鷹愁澗を眺めながら、西に向かって、旅を続けた。


 陀盤山をこえて早数ヶ月がすぎた。月日とともに季節は移り、日中はうららかな春の日差しの中に、少々厳しさが混じり始めてきていたが、日が落ちると夜風にはまだ肌寒さを感じた。

 その日、悟空は日が落ちてもなかなか馬を止めようとしなかった。そのうちに木々の真っ黒な影の間に、微かな灯りが見え隠れし始めた。


「悟空、あの灯りはなんだろう?」


「随分立派な寺院か道観のようです」


三蔵が何かに気づいた時の会話は、だいたいこういうものになる。それは、悟空の視覚聴覚が三蔵より優れている、というか、人間より大分優れているので、三蔵の見えるもの聞こえるものは、悟空にはずっと以前から見えているし聞こえていて、三蔵がなんとなく気づくころには、それが何なのかをはっきりと把握しているからだ。

 ことに悟空の目は火眼金晴と呼ばれ、八里先まではっきりと見通すことができるほどなので、逆に、悟空が何かに気づいてそれを告げても、三蔵にはまだ何も見えていないし、聞こえていない。

 続けて悟空は言った。


「日は落ちてしまいましたが、あそこまで行けば一晩くらいは泊めてもらえると思うので、もう少し辛抱してください」


「ああ、わかった」


二人は道を急いだ。

 山道を行くことしばし、木々の密度が減って大きく長い塀が現れ、その塀を曲がった所に、どっしりとした朱塗りの壁に黒々とした瓦の乗った立派な門が現れた。

 三蔵は悟空を待たせて、山門の内に向かって声をかけると、門番役らしい小僧が出て来て三蔵に両手を合わせた。


「私は唐より参った旅の者です。たまたま当地を通りかかりましたので、立ち寄らせていただきました」


「ようこそおいでくださいました。院主に知らせて参りますので、しばしお待ちください」


小僧は三蔵を待たせたまま、奥に引っ込んで行った。その様子を、少し離れた所から悟空が何か言いたげな顔で見ていた。

 やがて三蔵の前に、一人の和尚がにこやかに歩み寄ってきた。


「これはこれは、遠い所からようこそおいでくださいました。私、この寺の院主の広謀と申します」


「夜分に失礼いたします。唐三蔵と申します」


和尚が両手を合わせて挨拶したので、三蔵も名乗って両手を合わせた。すると、広謀院主は三蔵の顔をしげしげと見て小首をかしげた。


「あの、大唐国からおみえになったと聞いたのですが、貴女お一人で?」


女一人でここまで来たのかと訝しんだのだろう。三蔵は首を振った。


「いえ、実は弟子が一人おりまして、あちらで待たせております」


和尚は再び微笑んだ。


「そうですか。では、お弟子の方もぜひご一緒にお入りになってください」


「かたじけない。では、お言葉に甘えて」


三蔵は、両手を合わせて礼を言い、悟空を呼んだ。悟空の姿が、門の篝火に移ると、院主はぎょっとした顔になった。


「あ、あのう……こちらは……」


「弟子です」


「し、しかし、そのう……」


院主は言い淀みつつ、悟空をもう一度ちらと見て、決意したように語を次いだ。


「わ、私には大きな猿に見えるのですが……」


三蔵は、麗しいほどの微笑をしてみせた。


「ええ、猿です。ですが、私の弟子です。この弟子がおらねば、私はここに至るまでに、何度命を落としていたか知れません」


院主はその三蔵の口調と、じっと黙って二人のやり取りを聞いている悟空の態度とを見て、ひとまず信じることに決めたらしい。

 おっかなびっくりと言った様子ではあるが、門の奥に向かって手を差し出した。


「そ、それではこちらへ」


三蔵と悟空は山門を潜った。


 山門の奥は広く長い通路になっており、両脇に五尺おきに篝火が置かれていた。敷地はかなり広く、篝火の届く範囲しか見えないが、それだけでもかなり贅を尽くした造りなのがわかる。

 前庭には緑が多く敷地が広いので確とはわからないが、山門の両翼から奥に向かって回廊が伸びているようだ。外から見た塀の長さから考えれば、回廊の外側にもまだ敷地は広がっており、いくつかの建物もあるらしい。その広壮さはといえば、回廊すらもそのあたりの民家と同じくらいの奥行があり、黒い瓦がふんだんに葺かれている。

 通路の突き当たりには本殿があり、こちらは大きな丸木の柱をを何本もつかった木造で、軒裏から長押にかけては青を基調としたきらびやかな文様が描かれ、明り取りの蔀戸には細やかな装飾が彫り込まれ、その木枠や柱には、各所に金の装飾がされている。

 本殿正面の扉の上には厚み一寸はある黒漆塗りの一枚板が掲げられていて、そこに金の文字で『観音禅院』と掘られていた。

 それを見て、悟空はげんなりした表情になったが、三蔵はぱあっと目を輝かせた。


「こちらは『観音禅院』とおっしゃるのですか!私は、観世音菩薩のお導きにより、大唐国皇帝陛下の聖旨を奉じて天竺へ経文を求めに参るところ、ここまでの道のりでも、菩薩の聖恩を多々お受けして参りました。ぜひとも拝ませていただきたく存じます」


三蔵が言うと、院主は「もちろんでございます」と言って、他の和尚や下男を呼び、あれこれと指示を与えて、殿門を開けて灯りを灯したり、香や鼓の準備をした。

 本殿の中も絢爛たるものだった。悟空は実際に菩薩のいる南海普陀落山を知っているが、そこよりもはるかに豪奢である。実際の菩薩の住まいは質素なものなのだ。

 家移りすればいいのに、と悟空は半ば本気で思った。


 三蔵は身なりを整えて本殿に入り、経をあげ始めた。悟空が鐘を勤め、院主が鼓を鳴らした。三蔵の、和尚としては高めだが朗々とした声が響き、寺院内にいた沢山の和尚たちが本殿に集まってきた。もはや建物の絢爛ささえ、三蔵の唇が紡ぎ出す荘厳な仏教世界を盛り立てる舞台装置のようで、和尚たちは自然に跪き、頭を垂れて手を合わせた。

 三蔵が読経を終えると、本殿の中はしばし冴え冴えとした静寂に包まれたが、やがて入り口近くにいた和尚たちが、なにやらざわざわとし始めた。


「祖師様のおこしだ」


複数の声がそう言うのが聞こえ、若い僧侶たちが軒廊や殿内の左右に別れて平伏する。三蔵も座を降りて座り直したところで、本殿の入り口に、二人の小僧を連れ、杖をついた老僧が姿を現した。ゆっくりと歩み寄る老僧に、三蔵は頭を下げた。


「貴女が唐土からお越しになったお方ですか。まことに見事な読経でございました。ここにいる者達には、素晴らしい勉強になったでしょう。どうぞ奥にいらしてください。お茶をご用意しております」


老僧はそう言うと、先に立って歩き出した。三蔵が後に続き、その後に悟空が続く。両脇に下がって悟空達を通した二人の小僧が、悟空の後に続いた。

 奥院に着くと、扉の前にまた二人の小僧が立っていて、老僧に一礼して扉を開けた。どうにも権威主義的なお寺だと、悟空は小鼻に皺を寄せた。それは天宮と同じように感じられて、悟空は好きになれなかった。

 室内に入って老僧と三蔵が席につき、悟空は三蔵の背後に立った。部屋の隅には、先ほどの院主ともう一人の和尚が控えている。

 ほどなく小僧が茶器を捧げ持って入ってきた。茶托は透けるほど綺麗に磨きあげられた羊脂玉、茶杯は金色の植線と鮮やかな青色で牡丹が描かれた七宝、それに茶を注ぎ入れている急須はといえば、柄にも胴にも繊細な模様が鍛金された白銅で、いずれもかなりの値打ち物だ。茶のほうはどうだかわからないが、とりあえず黄茶のいい香りは漂っている。


「見事なものですね」


三蔵が曖昧すぎる言葉で茶器を褒めた。悟空は思わず噴き出しかけた。

 頭からつま先までの九分九厘が仏のことで埋め尽くされている学究の徒、唐三蔵である。美々しい調度品など見せられたところで、まるで興味をそそられないのだ。まして、高級品を褒めそやすための気の利いた言葉など、三蔵の語彙の中にあろう筈もない。それでも、ここまで寺院らしくもなく派手派手しい茶器を見て、ここは褒めておくべきだと判断し、なんとか言葉を絞り出したのだろう。

 「よくできました」と、悟空としては褒めたい気分である。高価な茶器だということに、まるで気付かない可能性さえあったのだ。


「いやいや。唐からお越しのお方にお出しするにはお恥ずかしいものですが、田舎者の無調法でしてな」


老僧は言葉だけはそう言ったが、内心そう思っていないことはまるわかりだし、そもそも食器だの調度品だのが粗末だということは、坊主が恥じ入ることではない。

 三蔵は重ねておべっかを言う気はないらしく、一礼して茶を一口啜った。老僧は言った。


「大唐国からここまで、どれほどの道のりでしたか?」


三蔵は静かに答えた。


「長安を出て一万一千里余りというところでしょうか?途中、両界山でこの弟子を収めまして、西蕃哈み国を出てからふた月でようやくこちらへたどり着きました」

「それはそれは、私なぞ遠く想像もつかぬ道のりですなあ。何しろ、この山門から出たこともろくにないのですよ」


それは、ここから出ずとも暮らせるほどに、この寺が広く、何でも揃っているという自慢か?と、悟空は意地悪く考えた。

 三蔵はそれに気づいているのかいないのか、そこには触れずにこう答えた。


「若さゆえの無知と浅慮で出て来たようなものです」


「いやいや、羨ましい限り」


老僧は笑った。話題を変えようと思ったのか、三蔵は問いかけた。


「老師様は、おいくつでいらっしゃいますか?」


老僧はにやりと笑った。


「今年で二百七十です」


三蔵の背後で、悟空は軽く小首を傾げた。二百七十歳だと?どれほど頑健でも、人間の肉体と精神は百年そこそこしか耐えられまいと思っていたが、俺の認識は誤っていたのだろうか。

 三蔵と老僧の話は続く。


「それほどの長寿でいらっしゃるのでしたら、この寺をお出にならずとも、様々な物事をご覧になられたでしょう」


「はっはっは、このような田舎では千年の時も一夜と同じ。何年経とうが同じように季節が巡るだけです。ごくたまに訪れる、貴女のような旅のお方に余所のお話を聞くのが、ただ一つの楽しみなのでございますよ」


老僧は笑いながら眼をわずかに輝かせた。


「ところで、長安の都からいらっしゃったのですから、何か珍しい物をお持ちでしょう?ひとつ見せていただけませんか」


三蔵は即座に首を振った。


「私は、旅の僧侶。日々の食事さえ人々から施捨をいただいておりますのに、何を持っておりましょう」


三蔵が答えると、老僧は一瞬だが明らかに失望の表情をした。悟空は、この物欲まみれの成金趣味和尚にひと泡吹かせてみたくなった。


「お師匠様、あるじゃありませんか」


「悟空!」


三蔵は慌てて振り返った。

 老僧は、三蔵の背後に控えていた巨大な猿が突然しゃべったので、口を開けて悟空を見上げたが、物欲の力が勝ったか、すぐに身を乗り出した。


「ほお!やはり何かおありでしたか!」


三蔵は片手で悟空を押しとどめつつ、老僧に言った。


「いえ、人にお見せするような物ではございませぬ」


「よろしいではありませんか。見せていただくだけなのですから」


重ねて老僧に言われては、三蔵は引くしかない。悟空は脇に下ろしていた荷物の中から、二枚の油紙にくるまれた、錦蘭袈裟を取り出した。

 途端にあたりが光に満ちた。老僧も、その背後に控えていた二人の和尚も、まずその眩しさに目を細め、次いで目をまん丸くして袈裟に見入った。金とも宝玉とも異なる妙なる輝きが周囲に満ちるのをしばし眺めた後、数瞬視線を彷徨わせて、老僧は顔を覆って嘆き始めた。


「口惜しいのお。並のお品でないことはよくわかるというのに、はや日も落ちはてた後のこの燭台の灯りでは、年寄りの目にはよう見えぬ」


老僧は勢いよく顔を上げると、縋りつかんばかりの勢いで懇願した。


「三蔵どの。今夜一晩、この袈裟を儂にお貸しくださらんか。自室に持ち帰り、じっくり眺めたいのじゃ。勿論、明日の朝には必ずお返しする。この通り、お願いじゃ」


老僧に卓の上に平服され、後ろの二人の和尚にも並んで頭を下げられて、三蔵は断るわけにいかなくなった。三蔵は、悟空をちらりと睨んでから、老僧に言った。


「わかりました。ですが、それは観世音菩薩より拝領した大切なもの。必ず、明日の朝お返し願います」


「ありがとうございます。明日、必ずお返しいたします」


老僧は悟空から袈裟を受け取ると、禅堂に斎を用意していると言って自室に引き取った。

 禅堂に案内されて二人だけになると、三蔵は改めて悟空を睨んだ。


「お前ね、あのように人に物を見せびらかすんじゃないよ!坊主が物自慢してどうするんだい。ことにあのように強欲な御仁は、最初はそのつもりはなくとも、いざ物を目の前にすれば悪心に取り憑かれることもある。ひょっとしたら、明日になっても何かしら理由を付けて返してくれぬかもしれないよ」


悟空は三蔵に向かって両腕を振った。


「わかった、わかった、わかりましたよ。俺が悪かったです。明日になったら、なんとしてでも俺が袈裟を取り返してきます」


三蔵はひとまずその場は許すことにして、観音禅院の和尚たちが用意してくれた斎をいただき、床も設えてくれたので、その晩は禅堂で眠りについた。


 自室である方丈に引き取った老僧は、燭台を引き寄せて、しげしげと眺めた。

 灯りなどなくとも茫とした光をたたえているこの袈裟だが、手に取って見ても何が光っているのかがわからない。金糸で編まれているというのでも、金箔が貼られているというのでもない。手触りは最高級の絹のごとく滑らかで軽いと言うのに、まるで後光が射すかのように、妙なる光を放っている。老僧が纏っているのは、金糸の刺繍がふんだんに施された贅沢な袈裟だが、そのような物とは比較にならぬほどの値打ち物に思われた。

 老僧は、何としてでもこの袈裟が欲しくなった。

 三蔵達の斎の世話等を他の和尚に指示して、院主の広謀と近侍役の和尚が戻ってきた。


「祖師様、いかがでございますか?例の袈裟は」


方丈に入ってきた二人にむけていた目を袈裟に戻し、手に取った袈裟を掲げてみせた。


「見事なものじゃ。いったい何でできているのかわからぬが、ここまで神々しい袈裟は初めて見た。全く、この世のものとは思えぬ」


「実際、この世のものでないのかも知れませぬ」


広謀が言った。「どういうことだ?」と近侍役が驚いて聞き返す。


「あの三蔵という和尚が言っていたではないか。この袈裟は観世音菩薩より賜ったものだ、と。あの者は、経を取りに行くのも観世音菩薩の導きがあった、と言っていた。最初は、そう思わせるような何かがあったということだろうと思っていたが。女の身であの化猿を弟子として従わせているほどだ。真実、観世音菩薩と縁があったとしても、不思議ではないだろう」


もう片方の和尚が大声を上げた。


「そ、それでは、この袈裟はこの世では手に入れることができない物だというのか!」


「そうであっても不思議はない」


二人の会話を聞きながら、老僧はなおも袈裟から目を離さず、やがてしみじみと言った。


「……欲しいのぉ……」


それは、欲望が言語化した。喉から手が出る代わりに声が出た。そんな声だった。


「何とかして、これを我が物にする術はないものかのぉ」


老僧のその言葉は、二人にとっては命令に等しいものであるらしい。二人はしばし考えこむ表情をしたが、すぐに広謀が眉をあげた。


「祖師様。私にひとつ考えがございます」


「おお!どのような手じゃ?」


和尚は声をやや低くした。


「あの者達が寝ている禅堂に火をつけるのです。焼け死んでしまえば、袈裟を取り返しにくることはできますまい」


「しかし、それでは禅堂が焼けてしまうではないか」


「禅堂はまた再建すればよい。なあに、焼けた理由をちょいと哀れっぽい話にでっち上げれば、再建費用くらいすぐに集まるさ」


そう話す三人の表情は、とても僧侶のものではなかった。老僧はいっそ重々しく言った。


「うむ。それでいこう」


二人は一礼して方丈を出て行った。


 禅堂で一旦は眠りについた悟空だったが、夜半過ぎに禅堂の外から何やら物音がするので目を覚ました。耳をそばだてると、複数の人間が歩き回る音と、禅堂の周囲のあちらこちらに何かしらの物を運んできては下ろしているような音が聞こえる。

 悟空は起きだし、窓を僅かに開いて外を窺った。火眼金睛を有し、夜目も効く悟空である。彼の眼には、観音禅院の和尚たちが、柴を持ってきては禅堂の周囲に積み上げているのがはっきりと見えた。


(奴ら、俺たちを焼き殺す気だな!)


かっとなった悟空は耳に手を持っていったが、はたと思いとどまった。外に躍り出て和尚を殺しまわるぐらい、悟空にとっては寝る前の運動にもなりはしないが、後から知った三蔵は怒って、またあの呪文を唱えるだろう。悟空は床に座り込んでしばし考え込み、はたと膝を打って立ち上がった。

 三蔵は、まだ深い眠りの中だ。悟空は一匹の羽虫に姿を変え、窓の隙間から禅堂の外に飛び出した。そして觔斗雲に飛び乗り天へと昇って行った。


 着いたところは南天門である。悟空が觔斗雲から飛び降りると、衛兵はさっと悟空に槍先を向けた。


「斉天大聖、何をしに来た!」


威勢よく問いただすが、その実緊張と恐怖で脂汗を流している。天界の者たちは悟空の強さとたちの悪さを知っているので、最大限に警戒しているのだ。

 悟空は両手を体の前にかざして言った。


「そう殺気立つなよ。何もしやしねえ。ちょっと広目天王に頼みがあるだけだ。」


衛兵たちは悟空の言葉をすべて信じたわけではなさそうだったが、それでも一人が広目天の元へ走って行ったので、しばらくすると広目天王がやってきた。


「おお、斉天大聖。しばらくぶりだな。なんでも、最近は仏門に入ったそうじゃないか。今日はどうした?」


広目天王の堂々とした体躯がゆっくりと近づいてくる。悟空は猿としてはかなり大きく、人間の女性としては長身の三蔵とあまり変わらぬほどの背丈と、無駄なく引き締まった筋肉と豊かで柔らかな被毛を持っているが、広目天王の身長は悟空の二倍近くあり、体の幅も厚みも十分すぎるほどで、屈強そのものといった体をしている。尤も、四天王は皆大体こんな体をしているので、広目天王の特徴としては、離れ気味の目と、右手にいつも小さな竜を掴んでいることだ。

 悟空が間近に来た広目天を見上げると、右手の竜が悟空の方へ首を伸ばし、鉤爪をのばしてちょっかいをかけようとした。悟空はそれを首を振って避け、広目天王に言った。


「ちょいと急ぐんだ。俺のお師匠様の命を狙ってるやつがいてな。あんたの辟火罩(火よけ籠)を貸してもらいたいんだ」


広目天王は軽く驚いて悟空を見直した。


「それは大変だな。そういうことなら貸さなくもないが、何しろお前さんは手癖が悪いからな」


悟空は舌打ちした。


広目天(ヴィルーパークシャ)(種々の眼をした者)なんて御大層な名をしているくせに何も見えてねえな!仏門に入ってからの俺は真面目そのものだぜ?ほんの少しの間、地上の時間で一晩でいいんだ。終わったらすぐに返しにくる。な?」


思いがけず悟空に懇願されて、広目天王はおかしくなった。すぐに衛兵の一人に、辟火罩を持ってこさせた。


「さあ、これでお前の師匠を救え」


「恩に着るぜ、広目天」


声のみを残して、悟空は消えた。広目天は悟空が消えた空を見下ろして微笑した。


「あの斉天大聖がねえ」



 観音禅院に戻ると、和尚たちが丁度積み上げた柴に火をつけたところだった。悟空は禅堂に辟火罩をかぶせた。悟空は禅堂から離れた拝殿の屋根の上に乗り、炎に向かて息をふうっと吹きかけた。

 すると一陣の風が吹き、柴についた炎を煽った。炎は高く燃え上がり、禅堂を覆いつくした。禅堂を取り巻いていた和尚たちがわっと退いた。悟空は再び息を吹き付けた。

 炎はさらに燃え上がった。禅堂の脇から僧房や拝殿に伸びていた回廊に燃え移り、あっという間に僧房や拝殿、東西の堂に燃え広がった。

 どれだけ燃え広がろうと、辟火罩に守られた禅堂は無事である。燃え盛る観音禅院や、逃げ惑う和尚たちを見渡していた悟空は、突然あっと声を上げた。


「いけね!忘れてた!」


悟空は禅堂の脇に繋いでいた白馬を辟火罩の中に押し込み、大きく中空に飛び上がると、老僧がいる方丈の屋根の上に降り立った。


「ここが焼けちゃあ、袈裟がだめになっちまうもんな」


方丈は、禅院の一番奥まったところにある。悟空は方丈の上から禅院の方へ向けて風を起こし続けた。

 火は、方丈と禅堂のみを残した観音禅院のすべての建物を焼き払い、明け方になってようやく鎮火した。

 悟空は辟火罩を広目天に返し、取って返して三蔵を起こした。


「お師匠様、起きてください」


三蔵はよほど深く眠っていたらしく、「んん」と小さく声を出した後、起き上がって両手で大きな目を擦った。そして、まだ寝ぼけ眼の顔を上げると


「なんだか外が騒がしいね。何かあったのかい?」


とのたまった。悟空がせいぜい控えめに


「ええ。ちょっと火事が」


というと、三蔵はがばと立ち上がり、走り寄って禅院の扉を開けた。外の惨状を見て、三蔵はしばし固まっていたが、そばに寄ってきた悟空を屹と睨んだ。

 悟空は落ち着き払って言った。


「俺じゃありませんよ。奴らが自分で火を点けたんです。多分俺たちを殺して、袈裟を手に入れるためにね」


三蔵は少し眼光を緩めたが、まだ悟空を睨んでいる。


「何か俺に言いたいことがあるんですか?」


悟空が聞くと、三蔵は表情を変えはしなかったが、その場は離れて動き出した。


「あるよ。いろいろと。でもまあいい。袈裟は無事なんだろうね」


「大丈夫です。あの欲張り爺さんの部屋は焼けてませんから。すぐに返してもらいましょう」


 三蔵が身支度を整え、悟空も顔や被毛に付いた煤を落として外に出ると、和尚達が不思議な物を見るような顔で二人を見た。

 辺り一面に焦げ臭い匂いが漂い、必死に火を消そうと試みたらしく、地面はそこら中が水を含んでぬかるみかけていた。その地面の至る所に、経文や鍋釜、そして宝物殿から運び出したらしい、木箱や行李や風呂敷包みがおかれており、木箱や風呂敷の隙間から、高価そうな反物や珊瑚細工、宝玉などが覗いていた。

 悟空たちは老僧を探して、荷物の間を縫うようにして、歩いていた。


「お前たち、何故……」


不自然に途切れた問いは、院主の広謀のものだった。その隣では、顔の色をまるで失った老僧が悟空達を見て、気絶せんばかりになっている。

 悟空は挑戦的に言った。


「何故死んでねえのか?って聞きたいのか?よく見てみろよ。禅堂は全く燃えてないぜ」


固い表情の三蔵と、その横でニヤついている悟空を交互に見て、老僧は怯えた声で繰り返した。


「何故だ……何故……」


「不思議だよなあ。火元は禅堂だったはずだもんなあ。」


悟空は耳から如意棒を出しながら嘯いた。


「まあ、ここは観音禅院だからな。観世音菩薩の御加護……なんじゃねえの?あんたたちは大変だったみたいだけど」


悟空はすい、と如意棒の先を二人に向けた。


「さあ、一晩経ったぜ。お師匠様の袈裟を返してくれよ」


老僧の目が途端にうろたえたものになってあらぬ方を彷徨った。そして、悟空と目を合わせぬまま言った。


「け、袈裟は……焼けてしもうた」


「はあ?!」


悟空は老僧の顎の下に如意棒を突っ込んで詰め寄った。


「方丈が無傷なのはわかってんだ!あんたは昨晩、あの袈裟を持って方丈に籠ってた。袈裟が焼けるわけがねえ!この期に及んでまだ欲をかくつもりなのか!!」


「ひぃぃ」


如意棒を顎の下に押し込まれて中空に吊りあげられそうになった老僧は、情けない声を上げた。広謀が慌てて悟空の足元にひれ伏した。


「や、焼けてはいません。焼けてはいないのですが、今、ここにはないのです!」


悟空は老僧を放り出し、広謀に向かって地を這うような声を出した。


「どういうことだ」


広謀は悟空の前に平伏した。


「申し訳ありません!昨晩の火事騒ぎの間に、何者かに盗まれたらしく……火勢が強くなって、祖師様の元へ私が駆け付けた時には、すでに方丈になかったのでございます」


悟空の背中をいやな汗が流れた。

 被毛を二本抜いて縄に変えると、広謀と老僧を木に縛り付け、焼け出された荷物をすべて開けさせ、方丈も天井裏から床下までを探し、僧侶から小僧まで一人ひとり調べ上げたが、やはり見つからない。

 焦る悟空が恐る恐る三蔵を見ると、三蔵が指を組み合わせて胸の前に持ってきていた。緊箍呪を唱える姿勢だ。


「待った!!お師匠様、待った!!」


悟空は三蔵の前に跪いた。


「わかってます。これは、元をただせば俺があの業突く張りに張り合って、袈裟自慢をしたことから始まったんです。よーくわかってます!必ず火事場泥棒を探し出して袈裟を取り返しますから、それはやめてください。ね?」


三蔵は手を下ろした。


「わかっているならそれはいいが、どうやって泥棒を探し出すつもりだい?」


三蔵が言うと、悟空は肩で息を吐いて立ち上がった。


「俺は昨晩、方丈を延焼から守るために一晩中方丈の上にいたんです。その俺に気づかれずに袈裟を持ち出せる者は、並みの人間じゃないはずです」


悟空は縛られている老僧に詰め寄った。


「おい。あんた、心当たりがあるんだろう?」


老僧は、震えながら首を振った。


「し…知らん!」


悟空はさらに言った。


「この辺りには化け物が住んでいる。そうだろ?」


老僧は黙ったまま、汗を垂らしている。


「化け物はどこにいる?」


老僧は逡巡するような表情は見せるものの、口を開けない。化け物に余程ひどく脅されているのだろうかと思っていると、取り巻いていた和尚の一人が言った。


「黒風山です!ここから、南に二十里ほど行ったところに黒風山という山があり、そこに化け物が住んでいます!名は確か…黒大王と」


「なるほどね。そいつが火事場泥棒の正体か」


悟空は立ち上がった。


「じゃあ、ちょっくら俺はその化け物に会ってくる。お前ら、その間しっかりお師匠様の面倒をみてろよ。手抜きをしたら───」


悟空は素手で焼け残った土壁をどん、と打った。土壁は粉々に崩れ落ちた。


「わかったな」


「は、はい!!」


「ついでにそこのジジイとおっさんは馬小屋にでも入れとけ!」


和尚たちが広謀と老僧を縛ったまま引き立てていくのを見送って、悟空は三蔵に歩み寄った。


「ではお師匠様、行ってまいります」


三蔵はため息交じりに頷いた。悟空は、觔斗雲に飛び乗り、一路黒風山に向かった。


 黒風山に近づいた時、悟空の火眼金睛が怪しげな光景を捉えた。少し離れた所に飛び降り、茂みに隠れながら近寄ってみると、二匹の妖怪が立ち話をしている所だった。


「明日の宴会には来るんだろう?」


「ああ、もちろん行かせもらうさ。あんたへの贈り物も持ってな」


「おお!お前さんからの贈り物は、外れだったことがないからなあ。期待してるぜ」


どうやら明日宴会があり、片方が主人で片方が客らしい、客のほうは、尖った耳と黒と茶の混ざった被毛を持ち、喋ると先の尖った鋭い歯をしているのがわかるが、主人の方は、悟空の位置からでは姿が見えない。

 主人の方の妖怪が続けた。


「実は俺の方にもな、是非見せたい物があるんだ」


「ほう。そりゃ何だ?」


「袈裟さ」


「袈裟?!そいつは随分辛気くさいじゃないか」


主人が手を振っているのが見える。


「いやいや、それがそうではないのだ。羽毛のように軽いのに、内より金色の輝きを放っているのだ」


茶黒の妖怪が目を丸くした。


「へえ!そりゃあ金池の奴が欲しがりそうな代物じゃねえか」


「その金池の所から、かっぱらって来たのさ」


「そうなのか?!」


「ああ、昨晩あいつの所で火事があってな。そのどさくさで頂戴してきた。あの野郎、俺のお陰で延々と生きながらえているくせに、つまんねえものばかり寄越して、こういう肝心な物は自分でためこんでやがる」


「全くだな」


悟空はなるほどと思った。

 あの欲張り和尚の名は金池というらしい。金の池とは、また言い得た名だ。二百七十年も生きていたのは、やはり妖怪の力があってこそだったようだ。

 妖怪たちの会話はまだ続いている。


「さっき、金池にも使いを出したからな。明日は何かまた別の物を持ってやってくるだろう」


「それは楽しみだ。金池がどんな顔をするかがな」


人の悪い哄笑をして、妖怪たちは別れた。

 悟空はもう一度雲に乗り、周囲を眺め渡した。あの妖怪に、金池和尚の窮状を知られるのはまずい。使者から金池が捕縛されているのが伝わらないよう、始末しておかなければならない。

 黒風山から観音禅院に向かう山裾の辺りを、一匹の小妖怪が文箱を抱えて歩いているのが見えた。悟空が雲から飛び降りざま、如意棒を取り出して頭をポカリと一発やると、小妖怪は頭がつぶれて死んでしまった。

 悟空は文箱の紐を解き、中の手紙を取り出した。やはり思った通りのもので、表書きは『金池上人様』となっていた。内容は、さっき妖怪たちが話していた通りのものだ。手紙の末尾には、『熊罷生拝』と書かれていた。

 悟空はにやりと笑った。


「『敵を倒すには先ず敵を知れ』だな」


言いながら手紙を懐に押し込むと、目に見えぬほどの速さで山を駈け上り始めた。

 山深くまで入りこむと、突然切り立った崖が現れた。悟空が登るのはわけもない崖だが、これでは金池和尚は登れまいと思って、崖下をぐるりと回っていると崖にぽっかりと洞窟が開いていて、その穴の上に『黒風山黒風洞』と刻まれている。悟空は慌てて洞窟の両脇に立っている衛兵に見つからぬよう岩陰に隠れた。

 そして、しばし顎に手を当てていたが、体の毛を1本引き抜いて、一枚の袈裟に変えた。そして、ひとつ身をひねると、たちまち金池和尚の姿になった。

 金池和尚に化けた悟空がゆるゆると洞門に近づくと、衛兵が一礼して迎えた。


「これは、金池上人」


悟空は鷹揚に頷いた。


「おお、ご苦労。黒大王はおいでかのぉ」


「はい。お取り次ぎして参りますので、しばしお待ちを」


衛兵の小妖怪が一匹洞窟の奥に消え、ほどなく大きな妖怪がのしのしとやってきた。

 背丈は悟空よりも頭ひとつ大きい程度だが、胴回りは二回り太く、腕や脚の太さも二倍近い。そしてその全てが黒い。黒い被毛に覆われている手足はもちろん、顔も瞳も真っ黒だ。来ている服も袖口や襟などに金糸で刺繍が施されているが、布地は黒だ。

 そのような妖怪が、妙に愛嬌のある顔でニコニコと話しかけてくる。


「これは金池上人。ようこそお出でくださった」


「突然押しかけて相済みませぬ」


偽金池和尚の悟空がしおらしく腰を折って見せると、黒大王こと熊罷生は、さあさあ、と腕を広げて洞内へ誘う。岩をくり抜いたような通路の奥は、かなりの広さがあり、横合いの崖の切れ目から光も差し込んで、頭上には松や竹の鮮やかな緑が映え、桃や李の花が咲き、足元は芍薬の桃色、蘭の白、菖蒲の紫などで五色に彩られていた。

 二の門の上には


『静隠深山無俗慮

 幽居仙洞楽天真』


と、七言詩の門聯が掲げられていた。


へえ、と悟空は思った。悪くない趣味だと思ったのだ。

 前庭の傍らで、一組の男女の妖怪が何やら楽しげに語り合っていた。確かに、恋の語らいにはうってつけの前庭だ。主人に似て手下も風流な奴らだなと悟空が思っていると、二人は熊罷生を見て、慌てて拱手して控えた。熊罷生が二人に小声で何かを指示すると、男妖怪は洞門の外に出かけて行き、女妖怪は悟空達に一礼して二の門から奥に下がった。

 悟空と肩を並べて二の門をくぐりながら熊罷生は言った。


「実は明日、当家で宴会を催そうと思っておりまして、そちらへも使者を出したのだが、途中でいきあいませなんだか」


悟空は答えた。


「ええ、会いました。それで、その仏衣にをぜひとも見せていただかねば、と、明日まで待ちきれずうかがった次第です」


そうですか、と熊罷生が相づちを打つ間に、これまた風流な中庭を経て、朱塗りの柱で囲まれた堂に入った。

 堂の中では何人もの女妖怪が室内を飾りつけたり、卓や椅子を設えたりしている。熊罷生と悟空は、作法通りに椅子を勧めあって座についた。

 前庭にいた女妖怪が茶器を捧げ持って入って来たとき、熊罷生が言った。


「袈裟を見に来たとおっしゃるが、あの袈裟を貴殿は見たことがあるはずですぞ。何しろ、昨晩貴殿の部屋から拝借したものですからな」


笑う熊罷生を上目遣いに見やって悟空は言った。


「やはりそうでしたか……」


熊罷生は笑いをおさめた。

 女妖怪が注いだ茶から、ふくよかな桃のような香りが漂った。悟空はその茶杯を掌に包みながら言った。


「実は、あの袈裟は私のものではないのです。昨晩、私の禅院に宿した唐僧から、一晩だけという約束で借り受けたものなのです」


「ほう」


熊罷生は得心したように言った。


「では、あの袈裟は唐の品だということか」


「左様です」


悟空はあくまで腰を低くして答える。


「ですので、あの袈裟を返して下さらぬか。代わりに、こちらの袈裟を進呈いたしますゆえ」


悟空が持っていた風呂敷包みを差し出した。熊罷生はニヤリと笑った。


「なるほど。わかったぞ。昨日の火事は、お前さんがあの袈裟を我が物にしようとして仕組んだ点け火だな」


悟空が咄嗟にどう返して良いかわからず、ぐっと押し黙った時、熊罷生の後ろから「失礼します」と小声で言って入って来たものがいる。熊罷生の耳元に寄って何やら囁きはじめたのは、前庭にいた男妖怪だった。

 熊罷生はおどけたような困り顔をして言った。


「すまんすまん。点け火をしたのはお前さんじゃないかもしれん。何故ならお前は……金池じゃないからなあ!」


言いざま熊罷生は椅子を蹴って立ち上がり、手下に取って来させた黒い槍嬰のついた槍を取って構えた。

 悟空も遅れをとってはいない。その場で飛び上がりざま正体をあらわし、風呂敷包みにしていた毛を回収すると同時に耳から如意棒を出して構える。

 互いににらみ合った所で、熊罷生が聞いた。


「お前、何者だ」


悟空は熊罷生に目を据えたまま答える。


「あの錦蘭袈裟の持ち主、唐三蔵の一番弟子、孫悟空だ!」


熊罷生は哄笑した。


「なんだ、天宮荒らしの弼馬温か!」


悟空はかっと頭に血を上らせた。弼馬温とは、悟空が天宮で馬方だった時の官職名である。悟空としては、最高に腹の立つ嘲りの言葉だ。

 悟空は卓を蹴って熊罷生に肉薄し、如意棒を横に一閃した。熊罷生は床に槍を立て、如意棒を受け止めた。

 悟空はいささか驚いた。両界山を出てよりこっち、悟空の攻撃を受け止め得た者はいなかったのだ。悟空の赤い瞳が輝いた。久しぶりに手応えのある相手と闘えそうだ。

 熊罷生が槍を突き出せば、悟空の如意棒がそれを跳ね上げる。跳ね上げた勢いで如意棒を半回転させ、同時に背中から間合いを詰めて思い切り背後に棒を突き込む。熊罷生は横跳びにかわし、洞門の外まで走り出た。もちろん悟空は後を追う。

 重量のある槍を、自慢の膂力で縦横無尽に振り回し、黒風山が鳴動するほどの力技で攻める熊罷生。小回りの効く体と風のごとき速さで、地面も樹上も自由自在に動き回り、多種多彩な攻撃を仕掛ける悟空。

 双方一歩も譲らず闘い続け、いつしか日は西へと傾き始めていた。

 嬉々として闘い続ける悟空に対し、熊罷生は少々息が切れてきた。このまま闘い続けるのは不利とみた熊罷生は、如意棒を打ち込んできた悟空を渾身の力で弾き飛ばすと、素早く洞門の中に逃げ込み、石の門扉を固く閉ざしてしまった。


「おいこら、黒助!引っ込んでないで出てきやがれ!臆病者!火事場泥棒!もう終わりかよ!つまんねえ奴だな、炭団子!ヘタレ野郎!」


思いつく限りの悪口を言いながら、洞門の扉を叩いたり蹴ったりしたが、いくらやっても熊罷生は出てこないし、洞門も破れない。

 悟空としてはあと二昼夜くらいは闘い続けられそうだったが、相手がいなくては仕方がない。そういえば、朝飯も食わずに出てきたし、前の晩はろくに眠ってもいなかったなと思い出し、一度帰ってまた出直すことにした。三蔵にも一度事の次第を話しに行って、周囲の輩に睨みをきかせておく必要もあるだろう。悟空は雲を呼んで飛び乗った。



 観音禅院に戻ると、三蔵が気が気でないという様子で尋ねてきた。


「どうであった」


悟空は頭を振った。


「袈裟は確かに黒風山の化け物が持っていました。ですが、残念ながらまだ取り返すことはできていません」


三蔵は途端に意気消沈し、「そうか……」と言って元座っていた床几にへたり込んでしまった。悟空は三蔵を励ました。


「大丈夫です。化け物の正体もわかりましたし、半日手合わせをしてきましたので、腕前のほどもわかっています。奴の方が音をあげて洞窟の中に引き籠もっちまいましたので、一旦俺も引き上げてきた所です」


それを聞いて三蔵は、少し生色を取り戻したようだ。


「化け物の正体は、何だったんだい?」


悟空は懐から件の手紙を取り出した。


「あの化け物と金池上人は、旧知の仲だったんですよ。ここに『熊罷生』と書いていますし、全身真っ黒な奴でしたから、奴は熊の化け物でしょう」


「なるほどねえ。精霊になることができるような熊なら、きちんと修行を積めば、仙人にも聖者にもなれように、導く者がいないばかりに悪行をのみ積んでいる。哀れなことだ」


三蔵が生真面目に嘆いていると、和尚達が斎の用意が出来たと、二人を呼びに来た。


「ともかく今日の所は腹拵えをして、明日の日の出までに奴を懲らしめる一計を案ずることとしましょう」


悟空はそう言って、三蔵と食事の席に着いた。


 夜は焼け残った禅堂に泊めてくれたので、悟空と三蔵も床についたが、悟空はなかなか寝付けなかった。


『人語を解する者ならば、仏の教えを聞くことができる。悔い改める機会はある。………お前がそうであるように』


あの出奔騒ぎの時に三蔵が言った言葉が、悟空の中に響いていた。決して納得して受け入れることができたわけではないが、その時の三蔵の表情と相まって、忘れられない記憶となって残っている。


『精霊になることができるような熊なら、きちんと修行を積めば、仙人にも聖者にもなれように』


今回、三蔵はそう言った。熊の妖怪でも、礼儀に則った手紙をしたためられるなら、悔い改めることができると思っているのだろうか。悟空には少しばかりばかばかしくも感じられるが、熊罷生が人語を解するとばれてしまった以上、殺さずにすむ方法を考えねばならないような気がする。


「うーん」


床の中で思わず悟空はうなった。

 熊罷生と悟空の腕を比べれば、持久力は悟空の方が上だが、短期戦となると五分五分だ。燃料切れの度に洞窟に籠られていたら、いつまでたっても埒があかない。まして殺すわけにはいかないとなると、何かあと一押し欲しいところである。


「チッ、仕方ねえ」


悟空はなにやら決心をして、布団をかぶりなおした。


 翌朝早く、和尚たちが作った粥をかきこむと、和尚たちに三蔵の世話と老僧たちの監視を言い渡し、悟空は觔斗雲に飛び乗った。行く先は、南海普陀落山である。

 南海の青い海にぽっかりと浮かぶ島々の中で、ひときわ妙なる眺めで宝樹が連なっているのが普陀落山だ。だが観世音菩薩のお気に入りは、世にも珍しい宝樹の森ではなく、ひたすら緑の竹が立ち並ぶ竹林の方だという。悟空は竹林のただなかに降り立ち、菩薩の姿を探した。

 やはり菩薩は竹林の中に蓮台を置いて座していた。悟空が近寄ると、菩薩はさも仕方なさげに目を開けた。


「瞑想中だったんだがなあ」


菩薩がいうので、悟空は菩薩の上を行く不貞腐れた態度をとった。


「そんなことやってる場合かよ、窃盗団の元締めさん。ネタは上がってるぜ」


言いがかりをつけられて、菩薩もさすがに法界定印を解き、片手を膝の上に乗せて言った。


「何のことだ。私は智恵(パンニャー)の象徴、大慈大悲の観世音菩薩だよ」


「自分で言うかよ」


悟空は菩薩を正面から睨んだ。


「智恵の象徴だかなんだか知らないが、子飼いの小悪党に浅知恵を授けて袈裟を取り返しただろう」


「何のことだ?身に覚えがないね。少し前に私の寺が一つ、見栄っ張りの猿に焼き討ちにあったことなら知ってるけど」


「さすが、観世音アヴァローキタスヴァラ(観察した声)だけあって、口は減らねえな!」


悟空はうんざりして吐き捨てた。何もかもお見通しのようである。菩薩は笑った。


「身から出た錆だろう?自分で何とかしろよ。と、言いたいところだけれど、今回は行ってあげるよ。お前も何かに気付きかけているようだし、私も少しは反省している」


観世音菩薩は表情を引き締めて言った。


「金池は生きすぎた。何かを悟って生きるのならよいが、私腹の肥やし方ばかり考えて生きてしまったのでは、もはや後世に悪いものしか残せまい……」


観世音菩薩らしくもない真剣な独語に驚く悟空の頭に、蓮台から降りた観世音菩薩は笑って手を置いた。


「では、行こうか」


 観世音菩薩とともに黒風山に上まで来たとき、悟空は「あっ!」と一声叫んで雲を飛び降りた。降りた先は一匹の妖怪の真上、二個の仙丹を入れた宝玉の盤(平皿)を持ったその妖怪は、昨日悟空が盗み見た、熊罷生の立ち話の相手だった。悟空は飛び降りざま取り出した如意棒を、妖怪の頭に叩きつけた。

 声を立てる間もなく死んだその姿は、一匹の狼だった。


「悟空!何故殺した!」


悟空の後から地上に降りてきた菩薩が言った。眉根にきつく皺を寄せ、困惑しているようにも、悲しんでいるようにもみえる顔をしている。

 悟空は言った。


「こいつも泥棒の一味ですよ。俺は昨日、こいつが熊罷生と話しているところを見たんだ。こいつも強欲和尚から袈裟を巻き上げようとしてたんだよ」


菩薩は頭を振った。


「だからと言って、殺すことはないだろうが」


悟空はひょいと片方の眉を引き上げた。


「あれえ?あんたも絶対的平和主義か?盗まれても、殺されても、俺たちは泣き寝入りしかないってのか。そんなことで、陸路天竺まで辿り着けっていうのかよ!無茶言うな!」


観世音菩薩は目と口をきつく閉じて悟空の怒声を聞いていたが、やがて静かに首を振って、目を開けた。そして、赤く燃え立つ悟空の瞳を真剣な面持ちで覗き込んだ。


「悟空。お前は気づかなきゃいけないんだ。その奥にあるものを。お前は三蔵と共にあることで、気づくことができる筈なんだ」


菩薩はまた悟空の頭に手を置いた。

 『気づきはじめた』だの『気づかなきゃいけない』だの、何のことを言っているのかわからない。悟空の性分からいって、そんな訳のわからないことをいう奴は、力ずくで締め上げてわかるようにしゃべらせるか、抹殺するかするところだが、緊箍児呪を握っている観音菩薩と三蔵にはそうもいかない。


「何が言いてえんだ?訳がわからねえよ」


せめてもの反抗で、悟空がそう言うと


「まあ、急には無理か」


と自分を納得させるように菩薩が言った。

 悟空は死んだ狼妖怪に目を落とし、あることに気づいて玉の盤を手に取った。


「盤の裏に『凌虚子製』と掘ってある」


悟空がいうと、観世音菩薩も覗きこんで言った。


「誰かにあげるつもりだったのかな?『凌虚子』というのはこの狼の名なんだろう」


そこで悟空はぱっと眉を開いた。


「なあ、俺の策に乗ってくれないか?」


「策?」


観世音菩薩が聞き返すと、悟空は盤から落ちてしまっていた仙丹を拾って言った。


「ああ。まず、あんたがこの凌虚子に化ける。で、俺がこの仙丹のひとつに化けるから、あんたは黒風洞に行って、俺を熊罷生に喰わせてくれ」


観世音菩薩はため息を吐いた。


「お前、私に妖怪のふりをさせようとは、いい度胸してるよ」


言いながらも、菩薩は凌虚子の姿になった。悟空は大笑いして手を叩いた。


「すごいすごい!そっくりだ。ひょっとしたら今まで、凌虚子が菩薩にばけてたんじゃねえかってくらいだ」


「実際、菩薩になるも、妖怪になるも、心の持ちようひとつさ。さあ、お前も早く化けな」


悟空は仙丹を一粒盤に入れ、あと一粒を口の中に放り込むと、身を翻して盤の中に入った。見ると、先ほどの物よりやや大きめの仙丹が盤の中に出現している。

 菩薩は盤を持って歩き出した。


 ほどなく、洞門の前に来た。門番の小妖怪は凌虚子を知っていたようで、包拳の礼をした。


「いらっしゃいませ。凌虚仙長。ただいま主人にお取り次ぎいたしますので、しばしお待ちを」


一人の小妖怪が取り次ぎに走ってしばらくすると、黒大王自ら客を出迎えた。


「おお、よく来た。さあさあ、入ってくれ。実はな、昨日、あの袈裟の出所がわかったのだ」


「出所?」


「ああ、奥に落ち着いてからゆっくり話すよ。まずは、酒を飲もうじゃないか」


菩薩は挨拶をする間もなく、洞門の奥に誘われてしまった。どうやらこの妖怪と凌虚子とは、お前、俺の仲らしい。

 洞門の中を見て、菩薩は内心驚いた。それほど見事な庭園だったのだ。二の門の七言詩もいい。どうやらこの妖怪、美を解する心は持っているのだなと菩薩は思った。凌虚子は何度もみている筈なので、あちこち眺め渡す訳にはいかないのが少々残念だった。

 堂に腰を落ち着けると、女妖怪が何とも婉麗なしぐさで酒壺を持って現れた。


「お前さんが好きな果実酒を用意した。さあ、まずは一杯」


菩薩はひとまず生臭の酒でなかったことに安堵した。凌虚子の顔でほくほくと笑ってみせて


「そりゃあ嬉しいね。遠慮なくいただこう」


と言って、女妖怪が差し出した瑪瑙の杯を受け取り、酒を満たさせた。


「では」


と二人は同時に杯を干した。

 仙丹になった悟空は舌打ちする思いだ。菩薩のやつめ、役得じゃないか!菩薩も何となくそれに気付いていて、これ以上待たせたらせっかちな猿が暴れだしかねないな、と考えた。


「ところで黒大王、宴席によんでくれたお礼に、珍しいものを持ってきたんだ」


と、菩薩は切り出し、手元に置いていた玉盤を卓の中央に差し出した。さりげなく悟空が化けた大きい方が黒大王の方へ向くように手元で回している。


「ほう。何を持ってきてくれたんだ?」


熊罷生が鷹揚に尋ねると、偽凌虚子は胸を張った。


「ちょっとした筋から手に入れたものなんだが、なんと不老長寿の仙薬だそうだ。お前さんの長寿を祝って、どうだい、一粒」


熊罷生は感心した顔になった。


「そいつは珍しい代物だな。あの袈裟といい、最近の俺は物運がいいらしい」


「ははっ、本当だな」


「せっかくだから、遠慮なくいただくとしよう」


菩薩は大きい方を手で示して熊罷生にすすめ、自分は小さい方を手に取った。熊罷生も迷わず大きい方を手に取り、大きな口を開いて放り込んだ。

 熊罷生が嚥下するまでもなく、悟空の仙丹は腹の中に滑り込んだ。そして熊罷生が驚く間も十分に与えず、胃袋の中を殴る、蹴る、つねる、引っ掻く。ありとあらゆる方法で暴れまわった。


「あっ!うぐっ!がっ!」


熊罷生はまともな叫び声すらあげることができずに苦しんでいる。周囲にいた女妖怪たちが悲鳴を上げ、屋敷の各所にいた衛兵が武器や甲冑の音をさせて乗り込んでくる。

 観世音菩薩は瞬く間に正体を現し、苦しむ熊罷生の額に手をかざして小さく叫んだ。


「唵!」


その間に悟空は熊罷生の鼻孔から外へと飛び出し、如意棒を構えて衛兵どもを蹴散らし始めた。

 菩薩の手のひらのあたりを起点にして、熊罷生の額に金色の輪が現れた。それは悟空のそれと似ているが、よく見れば少々意匠が異なっている。腹の痛みが消えた熊罷生が、菩薩につかみかかろうとする。菩薩は腰布をなびかせてひらりと飛び退ると、胸の前に片手をあげて軽く印を組み、口の中で真言を唱え始めた。

 途端に熊罷生は、頭を押さえて苦しみ始めた。血走らせた目を剥き、床を転がりながらもがき苦しむ様を如意棒で指して、悟空が怒鳴った。


「動くな!!少しでも動いたら、お前らの大将がこのままのたうち回って死ぬことになるぜ」


衛兵や女たちが動きを止め、菩薩が真言を止めた。悟空が大王の喉元に如意棒を突き付けた。


「おい。お師匠様の袈裟はどこだ」


「お……奥だ。俺の部屋の衣かけにかけてある」


悟空は近くにいた女妖怪に声を掛け、袈裟を取りに行かせた。女妖怪が袈裟を悟空に差し出すと、熊罷生が一声吠えて、袈裟に向かってとびかかろうとした。すかさず菩薩が真言を唱え始め、熊罷生の爪は袈裟にかかることなく地をかきむしった。

 真言は、悟空が女妖怪から袈裟を受け取ってもまだ続いていた。熊罷生はもはや人の形を保つこともできず。大きな黒熊となり、堂から中庭に転がり落ちて悶えている。息も絶え絶えの熊を見て、同じ痛みを知る悟空がなんだか気の毒になってきたころ、菩薩はようやく唇の動きを止めた。


「熊罷生」


菩薩が言った。かの熊は涙と涎を垂らしながら、よろよろと起き上がろうとしている。


「悔い改めて私のもとに帰依しないか」


熊罷生は怨念を込めた目で菩薩を睨む。これはなかなか反骨心旺盛な奴だ。隣にいる猿といい勝負かもしれない。と思い、菩薩は次の語をついだ。


「そうでなければ、私もこの猿がお前の上に鉄棒を叩きつけるのを止める理由がないんだがな」


熊罷生は溜息を吐き、不承不承平伏した。


「お許しください。私は仏門に帰依いたします」


菩薩は熊罷生に頷いた。


「そういうわけで悟空。この熊はもらっていくよ」


「いいですけど。こいつが菩薩の役に立とうとしますかね?」


悟空が疑問をぶつけると、菩薩は建物や庭を見回して言った。


「見てごらんよ、なかなかいい庭じゃないか。美を理解する心があるなら、行動の美醜についてもそのうちわかるようになるさ。さしあたり、普陀落山の裏山の管理人にしよう」


先ほどこっちが慈悲心をくすぐられるほど、熊妖怪を痛めつけていた人とも思えない言葉だ。と、悟空は思った。あきれたような顔で悟空は減らず口を叩いた。


「ふうん。それでゆくゆくはそいつが菩薩になるんですか?」


菩薩は笑った。


「いいねえ。菩薩の中に一人くらい、妖怪出身者がいても面白いじゃないか」


 悟空は呆れたように首を振り、周囲にいた小妖怪に命じて堂の中央に薪を積み上げた。


「燃やしてしまうのかい?」


菩薩が言った。


「放っておいて、また別の妖怪が住みついたら、人間たちが困るからな」


「それはそうだが、なんだか勿体ないね」


菩薩は言ったが、それでも止めようとはしなかった。

 すっかり準備がおわると、悟空は周りにいた下っ端の妖怪たちに言った。


「ここは焼き払うから、お前たちはどこへなりと行くがいい。必要以上に徒党を組むんじゃねえぞ!この俺様が見張ってるってことを忘れるな!!」


妖怪たちが散り散りになると、悟空は薪に火を放ち、観音禅院でやったように、ぷうと一息吹き付けて、黒風洞を焼き払ってしまった。


「さて、私たちも行くか」


菩薩が言った。悟空がたずねた。


「師匠に会いに行ってくれないのか?」


菩薩はほほ笑んだ。


「うん。今日は荷物もあるしね」


菩薩は熊罷生を指した。そして、悟空が殊勝にもぺこりと下げた頭に手を置いて、艶のある茶色の被毛を撫でた。


「私が会わずとも、三蔵にはお前がいるからいいんだ。お前は、三蔵とともに行け。共に旅することで、お前が持って生まれることができなかったもの。そして、お前が得る機会を自ら失してしまったものに、気づくことができよう」


またわけがわからないことを言う。と、悟空が思い、抗議しようと見上げると、もうすでに、菩薩の姿も熊罷生の姿もそこにはなかった。


☆           ☆


 観音禅院では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。監禁していた金池上人が、苦しげなうめき声を上げ始めたかと思うと、ボロボロの白骨となってしまったのだ。

 これは上人がこれまでやってきた悪行の報いか?と慌てふためく和尚たちを、三蔵が一喝した。


「そなたたちは何のために仏道の修行をしているのです!これが上人の行った悪行の報いならばなおこと、せめて彼の魂が少しでも清められるよう、供養を行うのが坊主であろう!」


和尚たちは、悪夢の淵から蒼天の下に引き上げられたような表情で三蔵を見つめ、急に自らの魂も洗われたような心地になった。そして、ボロボロの上人の骨をできうる限りかき集め、彼がお気に入りだったという瑠璃の鉢の中に入れ、鐘と鼓を鳴らして皆で一心に経文を上げているところへ、悟空が帰ってきた。


 三蔵から話を聞いた悟空は、ひとつ頷いて言った。


「金池上人が二百七十年も生き続けていたのは、あの熊の妖怪の力が働いていたからなのです。今は熊自身が妖力を使える状態になくなったので、金池和尚の命が保てなくなったのでしょう。骨がボロボロだったのは、百年以上前に死んでいるべき人だったからです」


「そうだったのか……」


三蔵はため息とともに言って、今一度両手を合わせた。目を開いた三蔵は、悟空を見て聞いた。


「それで、どうなった?」


悟空は、懐から布に包まれた袈裟をとり出した。


「おお!」


安心したように袈裟を手に取る三蔵を見ながら、悟空は言った。


「観世音菩薩に助太刀をお願いしました。熊罷生は、菩薩の下で仏道に帰依し、普陀落山の守衛に仲間入りするそうです」


三蔵は花が咲くような微笑みを悟空に向けた。


「そうか。その妖怪についてはよかったけれど、また観世音菩薩の手を煩わせてしまったね」


悟空は嘯くような調子で言った。


「いいんじゃないですか?元々は観音様のお膝元に欲張り和尚がいたことから始まったんですから」


三蔵は表情を引き締めて言った。


「いいや。お前が持ち物自慢などしたことが、そもそもの原因だ」


悟空は苦く笑った。


「それ、菩薩からも言われました」


三蔵も小さく笑った。


 すでに日は暮れていた。悟空は、監禁していた広謀を開放し、不寝番で一晩中金池上人のために香を焚かせた。悟空と三蔵は観音禅院にもう一泊することとなり、翌日、死んだ金池上人の葬儀を行ってから、観音禅院を発った。


「すごい人出でしたね」


「そうだね」


二人が話しているのは、金池上人の葬儀の話である。


「あの分なら、前みたいに贅沢なものにしなけりゃ、すぐにでも禅院が再建できそうだったなあ」


言わずと知れた。香典という名の喜捨である。


「いいんじゃないか?それであの人たちの拠り所ができるのなら」


人の心はわからない。と悟空は思った。

 人の心だけではない。仏に関しても、悟空にはわからないことだらけだ。出家したといっても、寺で修行をしたわけでもなく、出家するなり旅に出て今に至るわけだから、知らないことの方が多い。


(この旅で何がわかるというんだろう?)


今は、ともかく西に進まねばならない、という以外、悟空には何もわかっていなかった。



第二話へ続く


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