97 間接でも許しません
時刻は朝の五時。
浮かれたような、不思議な熱を持ったなんとも形容し難い雰囲気の中、楓の通う高校は文化祭当日を迎えた。楓のクラスも準備はどうにか間に合ったようで、後はその時を待つだけである。
できる限り協力はしてきたつもりだが、どうも周りのクラスメイトとの温度差というか、同じ熱を持つ事は難しかった。とはいえ、与えられた役目はきっちりこなしてきたとは思う。
ロードワークをしながら、これから騒がしくなるであろう学校の事を考えていると、このまま知らないところまで走って逃げたくなる。
そんな楓の雰囲気を感じたのか、隣を走る響は皮肉を込めて楓に話し掛けてきた。
「楽しみね。今日の文化祭」
「そうだな」
「嘘つけ」と響は軽く楓の肩を小突いてきた。
今朝、ロードワークのため玄関から出ると、よく見た少女が気怠そうに立っていた。少し驚いたが、話を聞くと「一人で走っても張り合いがないから」という理由で来たらしい。遊びではない事は響はよくわかっている。そうであるのなら楓としても断る理由もなかった。
「珍しいな、おまえ一人で来るとか」
「いいでしょ別に。それよりあんた……明らかにスタミナついたわよね?」
結に指摘されてからというもの、楓は徹底的に走り込んでいる。パンチの土台は足腰というのは理解していたが、その認識はどうも甘かったらしい。結は綺麗な顔をしながら、ボクシングに関しては一切の妥協がない。一般的には鬼トレーナーと比喩されても仕方ないが、楓にとってはありがたい厳しさだった。
最近はパンチを振るより、走る事に意識が集中している。だが、いざグローブをつけてサンドバッグを叩いてみると、力の伝わり方というか、明らかに自身が進化しているのを実感している。
きっと一人だったら辿り着けなかった。仮に疑心暗鬼に陥っても、尻を叩いてくれる頼もしい相棒ができた。
最初は響も並んで走っていたものの、徐々にその差は表れる。前を行く楓は、響とある程度の距離ができると、 その場でステップを踏みながらシャドーをしている。多少響に気を遣っているところはあるが、このインターバルも悪くはない。
「はぁはぁ……。あ、あんた化け物よ!」
「少し休めよ、俺はもう少しシャドー続ける」
両手を膝の上に置いて、響は地面へと目をやる。ポタポタと汗が地面に落ち、その水滴は土を黒く染めていく。息を整えるのにも苦労しそうだ。
「ちょうどいい、立ったままファイティングポーズ取っててくれ。マス(寸止め)でやるから動くなよ?」
「こ、こう?」
ぎこちない様子で響は両拳を目の前に構える。途端に楓の雰囲気が一変する。肩を揺らしフェイントをかけながら迫る。
殺気の込もったパンチが響に襲いかかる。コンビネーションの終わり際、鋭い踏み込みから左ボディを寸止めした時、限界に達した響はその場で尻餅をついた。
「こ、殺すつもりなの!?」
「あ? まぁそのつもりでやってるけど」
「少しは手加減しなさいよバカ!!」
「おまえ相手に手加減なんていらねえだろ。なにを今更」
「あんたねえ。私は一応女よ!?」
「だからどうした。おまえは女だが響だ」
呆れたように響は宙を仰ぐ。二人以外誰もいない空間には、相変わらず拳の風切り音だけが鳴り響く。
憎まれ口を叩きながらも、楓と一緒のこの時間は嫌いではない。恋人なんて甘ったるい関係ではないが、自分を女扱いしない楓は、響にとっては気を遣わなくていい貴重な相手だ。親や友達、陽とは違った繋がりだと思っている。
頭上の空は綺麗な群青色で、「今日はよく晴れそうね」と小さく呟いた。刻一刻と色を変えるその様子を、脱力しながら見つめている。汗がひいて若干の寒さを感じると、パンパンと埃を払いながら立ち上がる。
「あいつのパンチは綺麗なんだ。悔しいけどよ」
唐突に楓が口を開いた。あいつとは誰を指すのか、天童明、駿河慧、どちらも違うなと響は感じた。
「誰の事よ?」
「あいつだよ。姉のほうだ」
「あぁ」と響は納得した。駿河結は楓から見ても優秀なトレーナーらしい。聞いた話だと、ケガが理由でボクシングを引退したらしいが、才能自体は枯渇していないようだ。
とはいえ、響は結が本気でパンチを振っている姿を見た事はない。基本的には楓のパンチを受けているイメージだ。時折隙をついて、楓にカウンターを入れているのは感心したが。
「あんたが夕月ちゃん一筋なのはわかってるけど、あんな美人とよく一緒にいられるわね」
「ん? あいつが俺に惚れるとかあり得ねえからな。理由は伏せるが。勿論俺もあいつには惚れない。互いに異性と思ってねえよ」
「ふーん、まぁそうなんでしょうね。いい関係じゃない」
選手とトレーナーとはいえ男と女。間違いが起こるのはあり得そうなものだが、楓と結に限ってそれはない。互いにしっかりとした目標があるし、強く想っている相手もいる。
「つーか、おまえ余計な事仕組んでんじゃねえよ」
「うるさいわね! あんたが夕月ちゃんを大事にしないからでしょ!」
「ちっ」
「夕月ちゃんニッコニコだったから、何か進展はあったんでしょ? むしろ感謝しなさいよ響様に」
「……この脳筋女が」
互いに舌打ちをしながら、折り返して楓の家へと走り出す。響は必死に食らいついてきた。息絶え絶えといった様子だが、それでも普段よりかなりハイペースだっため、着いてこれただけ賞賛ものだろう。決して口には出さないが、楓も心の内では感心している。
玄関のドアを開けると、パンが焼けたような香りが流れてきた。ちょこんと玄関の隅に並んだ小さな靴が視界に入る。
「あ! いい匂い! 夕月ちゃん来てるのね!」
響は楓の肩に腕を乗せながら玄関を覗き込む。
「肩が重い、邪魔だ」
「固い事言わない! ボクシング少年」
「ちっ」
二人のやり取りに気付いたのか、部屋の奥からエプロンをしたままの夕月が歩いてきた。
「……おかえり……なさい」
「よう」
「おはよー! 夕月ちゃん!」
響の姿を見ても驚いていない様子から、夕月は響がロードワークに同行しているのを知っていたらしい。
「……ごはんに……する? ……お風呂に……する? ……それとも」
「飯だ」
「……それとm」
「飯だ」
「……むぅ」
適度に夕月をあしらいつつ、靴を脱いで部屋へ入る。響もケラケラ笑いながら後へ続いた。
冷蔵庫から500mlの炭酸水を取り出す。今まで炭酸飲料は口にしなかったが、甘さがなくさっぱりしているため、密かな楓のマイブームとなっている。
コップに注がずに直接飲んでいると、響が恨めしそうに睨んでくる。
「そんな顔すんなよ。ほらやるよ」
「さんきゅー!!」
響はペッドボトルを奪うように手にすると、躊躇なく口にし一気に飲み干した。その光景を見た夕月は、わなわなと震えながら楓に猛抗議を始めた。
「ん? どうした?」
「……か」
「か?」
「……間接……ちゅー!!」
「だからなんだよ、ガキかおまえは」
「……許せぬ」
夕月は冷蔵庫を開けると、これまた同じ炭酸水を一口飲んだ。そしてそのペッドボトルを楓に差し出す。
「……はい」
「あ? いらねえよ。さっき飲んだだろ」
「…………大丈夫」
「大丈夫の意味がわからん。さっさと蓋してしま、むぐっ!!」
夕月は背伸びをしながら、無理矢理楓の口にペッドボトルを突っ込んだ。その表情は怒りに満ちている。響は腹を抱えてうずくまっている。「お腹いたい」と漏らしているので笑っているのだろう。
「げほっげほっ!! 殺す気かおまえは!?」
「……楓が……悪い」
「あはは! よかったじゃん楓! こんな可愛い子のヤキモチとか。幸せ者じゃーん」
「……響ちゃんも! ……ちゅーは……藍原さんと……して!」
「あらら、怒られちゃった」
楓と響にとっては当たり前のやり取りだったのだが、夕月にはそうではなかったらしい。夕月は怒っているのだが、それでも反省の様子が見られない楓と響を見て、二人を交互に叩き始めた。
だが、「可愛いなぁ夕月ちゃんは!!」とそのまま響に抱きしめられて、半ば強制的に場は収められた。
頬を膨らませたままの夕月を座らせると、三人で朝食をとる。
「なんでおまえも食ってんだ?」
「細かい事は気にしなーい。夕月ちゃんの料理を朝から食べれるなんて幸せ」
「おまえも料理覚えろよ」
「は? 無理に決まってるじゃん。将来の料理担当は陽に決まってるわ」
「…………藍原さん」
楓と夕月の若干呆れが混じった視線も、残念ながら響には効果がなかった。できるできないの次元ではなく、やる気がないのだ。陽の将来を不憫に思った。
◇ ◇ ◇
食事と身支度を終えると、楓達は早速学校へと向かう。途中で陽を捕獲すると四人で登校する。
「おはよー楓! 夕月さん! 響!」
「よう、哀れなコック」
「……おはよう……がんばって……藍原さん」
「おはよ陽! 今日もチャラいわね」
挨拶しただけのはずなのに、意味不明にコックと呼ばれ、なぜか励まされ、そしてチャラいと言われる。
「俺の扱い酷くない?」
「うるさいわね。さっさと歩きなさいよ、遅刻したらあんたのせいよ!」
「おかしい!!」
その訴えは誰にも届かない。前を歩く楓、夕月、響の姿を陽は唖然と眺めた。




