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94 強行手段

 刺すような寒さというには程遠いものの、肌が冷たいと感じる風は、練習後でまだ火照りの残る身体には心地よく感じる。


 街灯の光に誘われる虫の数が減っていく度に「あと数ヶ月もすれば雪が降るか」と思う。


 楓にとって冬というのは特別な季節だ。嫌いな訳ではないが、苦い別れの記憶が刷り込まれている。これから先も忘れることは決してない。毎年夏が終わった頃には嫌でも思い出してしまう。


「寒くなりましたね」

「あぁ、そうだな」


 取って付けたような会話を結から振られる。ボクシング以外の話題では間が持たない、と結が気を遣ってくれたようだ。


 だが、せっかく結から話し掛けてくれたのに、やはりというか、案の定というか――。結局は無言のまま公園へと歩を進めた。


 十五分ほど歩いたところで、街灯が多くなり明るみが増した。公園の街灯だった。周囲に人影は見当たらず、音もなく寂寥感すら漂うベンチに、二人揃って腰掛ける。


 近くの自動販売機で買ったコーヒーを結に手渡す。


「無糖ですか」

「なんだ、微糖がよかったか?」


「いえ」と一言だけ返すと、結はコーヒーを口に運ぶ。その様子を見て楓は自然と口元が緩んだ。不思議に思ったのか、結はコーヒーを口から離して楓に尋ねる。


「見られると飲みにくいんですけど」

「あぁ、悪い。ちょっと思い出してな。あの時は微糖を渡したな、って」

「夕月さんの話ですか? 惚気ならいりませんよ」

「惚気か……そんなんじゃねぇな」


 楓の表情が僅かに曇ったのを察した結は、一つ咳払いをしてから本題へと話を戻した。


「で、私に相談ってなんでしょうか?」

「あぁ、そうだったな」


 昼に学校で響から指摘された事、夕月への態度、接し方について。色々と考えてみたが結論が出なかった事。


 心の内で引っかかっている事を、一つずつ話していった。意外な事に結は口を挟まずに静かに聞き入っていた。


 一通り説明し終えると結は、「なるほど」と短く一言だけ呟き、目を閉じて頭の中を整理するように沈黙した。その様子を見た楓は、結が話し始めるのを待つ。


「神代くんは」

「ん?」

「神代くんは、夕月さんが彼女でいる事を当然のように思ってますか?」


 結の言葉の意味を頭の中で砕いていく。


(……そうなんだろうか。いや、そうなのかもしれねぇな)


 ――夕月を幸せにするのは自分でありたい。


 当然楓はそう思っているし、他の誰にも渡すつもりなどない。だが、最近は確かに独占欲というか、側にいて当然のような感覚が強まっている気がする。


 極端な言い方になるが、付き合った当初であれば「夕月が幸せになるなら相手は俺じゃなくてもいい」という考えが、頭の片隅にチラついてはいた。だが、そんな考えも今となっては、忘却の彼方へ消え去りつつあった。


「たしかに、そう思っているかもしれねぇな」

「一緒にいるのは当然じゃないんですよ。もともとは血の繋がりのない他人なんですから」

「随分ときっぱり言い切るんだな」

「身をもって体験中ですからね。"家族"って言葉でさえ私には高い壁に感じるんです」

「……悪い」

「気にしないでください。これも私自身が選んだ道です。欲しいものは自分で動いて掴み取ります」


 そう話す結の表情に迷いはない。きっと楓とは比べものにならないぐらいの試行錯誤を繰り返したのだろう。面と向かって話していると伝わってくるのは、やはり精神的に大人だな、という印象だった。長い前髪の間から覗く瞳は、迷いなく澄んで綺麗に見えた。


「強いんだな」

「強がっているだけかもしれませんよ?」

「虚勢だとしても、騙し通せるならそれは本物だろ。俺は嫌いじゃねぇ」

「ふふっ! いい事言うじゃないですか」


「さて」と結は自身の太腿をパン! と叩くとゆっくりとベンチから立ち上がった。


「一つ、考えがあります」

「お、まじか?」

「響さんの携帯番号は知っていますか?」

「は?」


 スマホ未所持の楓だが、財布の中には必要最低限の連絡先は、メモして携帯している。家族、夕月、陽、そして不本意ながら響のものだ。


 結が何を考えているのかさっぱりなのだが、とりあえず連絡先は知っているので、仕方なく首を縦に振る。


「では、教えてください。今から電話してみますので」

「……はぁ。何考えてんだよ」

「いいですから早く」

「わかったよ。ほら」


 メモを見せると、結は手早くスマホに番号を入力していった。そして通話ボタンを押そうとして――。


「何してるんですか? 向こう行っててください」

「なんでだよ!」

「いいから行っててください」

「断る」

「では私も協力はしません。帰りますね、さようなら」

「お、おい!」


 本気で帰ろうとしている結の腕を掴む。「では向こうに行っててください」と再度告げられて、楓は溜息をついて大人しく従った。


 二十分ほど経って、ようやく通話は終わったようだった。ゆっくりと結が近付いてくる。


「お待たせしました」

「おう。待った」

「明日土曜日ですけど神代くんは予定空いてるので、付き合ってもらいます」

「いや、なんで暇だって断言してんだよ!」

「トレーニング以外で何か予定でも?」

「……ねぇよ、畜生!」


 珍しく土日は夕月からの誘いもなかったため、実際楓の予定は空白であった。とはいっても時間が空いたらひたすら走っているので、厳密には空白でもないのだが。


 ――結の意図が全く読めない。


 しかも響と話したということは、それだけでいい予感がしないのだ。顔が引き攣っていくのも無理のない話で――。


 だからといって楓に他の選択肢はない。正確にいうなら、他の選択肢は全て結(と響)によって黒塗りされてしまった。大人しく彼女達の玩具になるほかないのだ。


 大きく溜息をついた楓は「お手柔らかに頼む」と告げるのが精一杯だった。





 ◇ ◇ ◇





 翌日の朝十時。


 結に指定された場所は、最寄りのショッピングモールだった。早朝のトレーニングを終えた楓は、手早く身支度を整えると家を出る。


 なぜか私服から髪型まで結に指定され、面倒だとは思ったが、結の目が笑っていなかったので黙って従った。


 待ち合わせの本屋の前には、すでに結が立っていた。


「よう……って誰だよおまえは」

「おはようございます。第一声がどれだけ失礼なんですかあなたは」


 長い前髪は編んでサイドに流し、綺麗な顔を覗かせている。濃くならない程度のメイクもしているようだ。白いTシャツの上から羽織ったベージュのニットカーディガンは、緩く肩を落とした大きめのもので、細身の体型の結にはよく似合っている。


「馬子にも衣装ってやつか」

「絶望的に褒めるのが下手な人ですね。まぁ期待してませんけど。驚きすらしないのは癪ですが」

「ま、超の付く美人は夕月で見慣れてるからな。驚きはないな」

「はいはいご馳走様です」


 この段階になっても結の目的が不明だ。明後日の方向を見ながら考えていると、結は溜息をついてから楓に話し掛ける。


「……まぁ予想はしてましたけど、ほかの女性には見向きもしないようですね」

「あ? どういう意味だよ」

「こっちの話です。では……」


「今日一日のデート、よろしくお願いしますね」


 結の爆弾発言に、口を開けたまま呆然と立ち尽くす楓であった。

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