90 目指すところは
「だから! 何回言えば分かるんですか!! 打った後に若干ガードが下がるんですよ神代くんは!!」
「わかってるよ! クソっ!!」
皆が帰る準備を始めたジムの中、リング上で向かい合っているのは楓と結である。「パンパン!」と小気味のいい音が鳴り響いている。
練習生の身でありながら、現役の選手達の邪魔をするわけにはいかない。最近はスパーで練習相手として指名される、などという事がない限りはこの時間帯にリングに上がる事が増えた。
以前は会長が持ってくれていたミットは、今は結が持っている。無論ジムの雇われトレーナーとして、楓以外の選手に対しても真摯に向き合っている。とは言ったものの、やはりというか楓に入れ込む想いは強い。
帰り仕度をしながら眺めているジムの面々も、興味深そうに、あるいは少し羨ましいという想いも混ざるだろうか、リングの上の二人を観察している。
リング脇には会長と夕月、陽、響の四人がパイプ椅子に座って観戦しており、この光景もジムでは恒例となりつつある。特に夕月はジム内でも不動のマスコットキャラとして君臨している。文句を言って追い出そうなどという者はいるはずもなかった。
気の荒い連中ばかりが集まっているが、その性根は真っ直ぐで優しい者ばかりだ。そういった点でも楓は環境に恵まれている。
そして楓のパンチを受けている駿河結ーー。
皆が楓に注目するのは当然なのだが、それと同じぐらい結の技術の高さに感心している。
「ほら! またガード下がった!!」
「ぐっ……」
結は楓の隙を見てはミットを持つ手でパンチを放ってくる。無論威力は無いようなものだが、楓としては悔しいというかーー。有り体に言うと屈辱である。
「はい、終わりです。休憩挟みます」
「はぁはぁ……くっ。涼しい顔しやがって」
「いいから早く休憩してください。メリハリをつけるのは基本ですよ?」
「ぐっ」
乱れた呼吸を整えながらコーナーへと戻る楓、その様子を見て陽や響は少し驚いた様子だ。陽は楓にタオルを手渡しながら話し掛ける。
「凄いな結さん。カッコいいって表現しか出てこない」
「あんたが振り回される様は見てて気持ちいいわね。上には上がいるって事よ」
「うるせぇ!!」
「……楓……がんばれ!」
いつの間にか楓以外の三人は“結“と名前で呼んでいる。楓自身はまだ呼び名を統一できていない、というか名前そのものを呼んだ事がない。現状特に困っていないので、途中で考える事自体をやめた。
ジムでの結はまさに有能の一言に尽きる。
実際のところ、結にミットを持ってから楓は色々と思い知った。率直に言うとやりづらくなった。
無意識に楓が避けているパンチを要求したり、隙があったら叩かれたりーー。挙げていくときりがないぐらいに弱点を浮き彫りにされていく。フラストレーションが溜まるのだが、自身が進歩していると考えると文句を言うのは筋違いであろう。むしろ楓は内心では感謝していた。
首にかけたタオルで汗を拭いながら結が近付いてくる。
「で、わかってきましたか?」
「……ちっ。俺は守りが下手糞だって言いてぇんだろ?」
「その通りです。足をそれほど使わないミット打ちですらこのザマです。ただの一流レベルなら通用するでしょうね、神代くんは目がいいですから。おそらく避けられます」
「ですが」と結は続ける。
「あなたが相手にしていくのは超一流と言われる人達です。勿論そこには慧も含まれます」
「ちょっといいですか結さん。俺は楓と慧さんがやり合ったのを見てました。続けていたら勝ったのは楓だと思ったんですけど」
結は少し考える素振りを見せると小さく息を吐いた。そして言いにくそうに、だがハッキリと言い切った。
「それは慧が油断していたからです。神代くんは舐められていただけの話です」
「そんなばかな!!」
食って掛かる勢いの陽を響が抑えている。いつもは陽が制止する側なので珍しい光景だ。
珍しいと言えばもう一つーー。
当の本人である楓は口を挟まずに結の次の言葉を待っている。その様子を目の当たりにした陽は、眉を顰めて「納得いかない」といった視線を結に向けている。
「……10ラウンドでやったら現状だとどうなる?」
「神代くんのKO負けです。よくて判定負けですね。現状だと話になりませんよ、触れる事すら難しいです」
「…………」
反論すると予想していた夕月、陽、響の三人は、沈黙したままの楓を見て現状の戦力差を理解した。それに加えて結の言葉には妙な説得力があった。
下を向いた楓達を見て結は微笑む。
「皆さんそんなに気を落とさないでください。あくまで現時点での話ですよ。神代くんは必ずチャンピオンにしてみせます。そのための私です」
「別に落ち込んでねぇよ。何から手をつけようか考えていただけだ。勝つのは俺だ」
「ふふっ! それだけ元気があれば大丈夫ですね」
「で、俺はまず何をすればいい?」
「ガードを下げない、開けない癖を身に付けてください。疲れるとガードが下がるのは致命傷になります。他にも色々言いたい事はありますが、まずは走ってください」
「……誰よりも走っているつもりだが?」
楓にはその自負があった。誰よりも練習しているつもりがあったし、練習量では誰にも負けていないと思っている。
(足りないってか?)
楓から視線を向けられても結は平然としている。長い髪を後ろで束ね直しながら話を続ける。
「誰より走っている? それは誰と比べてですか? このジムの中での話ですか?」
「……」
「笑わせないでください。あなたはどこへ行きたいのですか? 何を成したいのですか? これからあなたが相手にしていくのは化物連中です。世界が相手です。現状で満足したらそこで終了ですよ、進歩はありません」
「ハッキリ言ってくれるじゃねぇか」
「事実ですよ。簡単に世界タイトルを獲れると思いましたか? そんなに甘くはないですよ。事実あなたは私に振り回されているじゃないですか」
ーー何も言えない。
結の話は的を射ていると思ったからだ。認める事に抵抗はあるが、その通りだと思った。
楓はずっと一人で走ってきた。勿論ジムに通うようになってからは他者からの指導も受けている。それでもなお結は「全然足りない」と告げてくる。
ーーいつの間にか現状で満足してしまっていたのだろうか。
自身にその気がなくても、外から指摘されると嫌でも浮き彫りになってしまう。楓は拳を強く握り締めて俯く。
大きく息を吐くと「パン!」と両手で自身の頰を叩いた。
「あぁ!! その通りだよ畜生!! 気合い入れ直す!! ……スタミナだ。徹底的に走り込む」
「ふふっ、そうしてください。私も慢心せずにトレーナーとしての技術を高めます。敵の研究もします」
「ちっ、なんて厄介な奴がトレーナーに」
「そんなに褒めても何もあげませんよ?」
「いらねぇよ!!」
「さ! 休憩終わりです! グローブつけてください」
「おう!!」
笑顔の二人は再びリング上で練習を再開した。
◇ ◇ ◇
「だ、大丈夫か? 楓」
「いい気味ね。そのまま倒れたら面白いわよ?」
「黙れゴリラ女」
こってりと結に絞られた楓は、疲労困憊といった様子だろうか。ダメージがあるわけではないが、久々に疲れから膝がガクガクと震えている。
ジムから出た四人は帰路に就く。
「俺は響を送っていくからここで。じゃあね楓、夕月さん」
「ばいばーい夕月ちゃん!」
「……うむ……また明日」
「じゃあな」
陽と響の姿が見えなくなったのをしっかりと確認すると、夕月はおずおずと手を伸ばしてきた。どうやら手を繋ぎたいらしい。
いつものように強引に繋いてこないのは、楓の疲れ具合を気遣っての事である。繋いでいいのかどうか、手を出したり引っ込めたりを繰り返している。
その様子があまりに可笑しくて、可愛らしくて、そしていじらしくてーー。
珍しく楓のほうから夕月の手を取った。
「ーーっ!!」
夕月は呆気に取られたように大きい瞳をぱちくりさせている。
「疲れたから支えろよ。家まで送って行くんだから対価を寄越せ」
「…………わかった!」
うれしそうに腕を組んできた夕月を見ていると、少々苦笑いが零れるものの嫌な気はしなかった。




