87 予習はバッチリです
――猛省しろ。この色ボケが。
可能であれば自分自身を殴りつけてやりたい。気が緩んだというか、理性が役立たずだったというか。
いずれにしろ失態である。なぜ失態かと言うと、隣の少女の表情を見れば一目瞭然だ。半ば強引に抱き寄せられた夕月はというと、それからずっと上機嫌である。
溶けてなくなるのではないか? と思ってしまうほど顔は蕩けて締まりがない。楓からの一方的な行動であったため言い訳のしようもない。
となると、それはもう夕月の独壇場である。少女にとってはこの上ない状況なのだろう。いつも以上にぴったりと密着したままで、離れる気配など皆無である。
心の中で猛省した楓だったが、時は既に遅し。隙を見せた楓の負けだった。
「悪かった。俺が悪かったからもう少し離れてくれ、頼む」
「……い……や!!」
「……はぁ」
夕月の目には断固たる意思を感じる。
(ダメだ。こうなったこいつはもう何を言っても無駄だ。詰んでる)
額に手をあてて、目を閉じたまま宙を仰ぐ。もう溜息すら出ない。
通行人の視線が痛い。腕を組んでぴったりと寄り添った姿は、注目するなという方が難しいだろう。周りから見ると美男美女が仲睦まじく歩いているのだ。視線を浴びるのも必然である。
それに加えて、今日の夕月は異常なほどに気合いが入っている。前髪は三つ編みにしてサイドへ流しており、薄く化粧までしている。
膝下ぐらいのベージュのスカート、リボンベルトでとめてある。グリーンのブラウスは緩めのシルエットでうなじが見え隠れするため、その度にドキッとしてしまう。
オシャレなど全く興味のない楓でも、その姿を見ればはっきりとわかる。
(こいつ、モデルか何かか?)
口には出さないものの、心の中は動揺したままであった。
そして例の如く、その体躯には合わない大きなバッグを持っていた。そのアンバランスな様子は、唯一笑って見ていられるところだろう。
楓は自由な方の手を差し出す。
「おい、それ寄越せ。俺が持つ」
「……大丈夫……だよ?」
「いいから寄越せ! 俺が気になるんだよ!」
「…………ありがとう」
夕月は手に持っていたバッグを手渡してきた。持ってみるとやはり結構な重さがあった。
「重いなこれ。ダンベルでも入れてんのか?」
「……意味が……わからぬ」
中身が気になったものの、さすがに勝手に覗くのはマナー違反だろう。というか、夕月が無言のまま「見ないでね?」と圧力をかけている。
「……そう……いえば」
「ん?」
「……いい……それ…………好き」
「何がだ?」
「……メガネ」
「あぁ、これか。ぶっちゃけ邪魔なんだこれ。でも来る途中で魚屋の奥さんから渡されてよ、嫌々かけてきた」
「……魚屋さん……グッジョブ!」
「外していいか?」と聞いてみたら、夕月はブンブンと首を横に振る。本音としては今すぐにでも外したいのだが……。「まぁ仕方ねぇな」とすぐに諦めた。
電車に乗った二人は並んで席に座る。当然夕月は密着したままである。
水族館までは電車で一時間といったところか。目を瞑った楓は早速睡眠態勢へと移行する。
だが、それは夕月によって阻止された。何度も肩を揺すられ眠る事は許されない。
「何だよ、着くまで時間あるだろ? 寝る」
「……今……デート!」
「そうだな。おやすみ」
「……許さぬ!」
これでもかと身体全体を揺すってくる。一体何が不満なのだろうか。
――体力というのは有限だ。いついかなる時でも戦えるように備えなくてはならない。睡眠は大事なのだ。
そんな見当違いの事を楓考えていた。
「体力は常に満タンにしとかねぇとダメだろ? 常にカウンターのイメージだ」
「……何と……戦うの?」
「敵だ」
「……楓が……わからない」
夕月には伝わらなかったらしい。何やら難しい顔をしているのがその証拠だ。「じゃ」と寝ようとしている楓を、それでも阻止してくる。
「……お話……しよう?」
「何の話するんだ?」
「……」
夕月は何やら考え込んでいる。多少顔がニヤついているため、よからぬ事を考えているのだけはわかる。
「……私の……どこが……好き?」
「さぁな、自分で考えろ。ていうか、なんつー話題振ってきてんだよ! 突然の右ストレートとか当たると思ってんのか?」
「……下手な……鉄砲も」
「「数撃ちゃ当たる」」
「アホか!」と軽く夕月のおでこを突いた。軽く怒ったつもりだったのだが、それとは対照的に夕月はただ嬉しそうに微笑んでいる。
「へへ」と触れられたおでこに手をあてている。
夕月にとっては会話の内容など二の次なのだ。大事なのはこうして楓とやり取りをする事であって……。
たわいないやり取りの全てがキラキラと光っていて、それが少女にとっての宝物なのだ。
今この時、この瞬間を決して忘れないように――。
楓と一緒にいる時の夕月は、常にそんな事を考えている。
好きで好きでどうしようもなくて。
考えると胸が締め付けられるように切なくて、痛くて。でもその痛みも愛おしくて。
楓と出会ってからの夕月は、自分自身の心境の変化に驚いていた。まさか自分がこんなに誰かを想う日が来るなど、想像すらしてなかったしあり得ないとまで思っていた。
「幸せだなぁ」としみじみ思う夕月であった。
◇ ◇ ◇
結局一睡もさせてもらえなかった訳だが、妙にテンションの高い夕月と話していると、あっという間に時間は過ぎた。
行きの電車の中では、スマホを使って水族館のHPを見たりしていた。だが夕月は既に予習バッチリのようであり、HPの説明も無駄に手慣れていた。
「着いたな」
「……うむ」
満を持して着いた水族館。
「早く!早く!」とグイグイと夕月は腕を引っ張ってくる。無邪気に笑う姿を見るのは悪くない。
(楽しそうだなこいつ)
「よし! せっかくだしな! 気合い入れて魚見るぞ!」
「……うむ!」
つられて自分も笑顔になっている事に、楓本人はまだ気が付かない。
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