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83 夕月は出かけたい

 

 目の前のテーブルに置かれた一冊のノート。


『交換日記vol2』と大きく主張して書かれており、横にはクマ(ウサギ)の絵が描かれている。可愛いというよりは達筆なその字と、ギャップが酷すぎるクマ(ウサギ)の絵が絶妙なバランスを作っている。


 いや、正確にはバランスは崩壊している。


(なんだかんだで続くもんなんだな)


 たわいもない日常を交換し合っていたら、いつの間にかノートは二冊目へと突入していた。「飽きるかもな」と心の中で少しは思っていたので、楓自身も意外であった。



 それはそうと――。


『デートデートデートデートデート!! クマ(ウサギ)の絵』


 これが本日の難題である。



 昨日の夜は公園で結と話し込んだ後、家まで送っていった。お互い恋愛感情など入る隙間はないが、夜道を一人で帰らせるのも心苦しいものがあり、結局は家まで送っていった。


 考えてみると当然であるが、結はアパートでの一人暮らしであった。「コーヒーぐらいなら出しますよ?」という申し出は断り、速やかに帰宅した。


 自宅に着くと手早く夕食を済ませ、シャワーを浴びた。「さぁ寝よう」と思ったのだが、夕月から日記を渡されていた事を思い出し、テーブルの上でそれを開いた。開かなければよかったと楓は後悔する。


「はぁ……これはまためんどくせぇ事書きやがって!」


 行きたい場所、やりたい事を書いている訳ではなく、ただ漠然と『デート』である。ようは「楓が考えて!」という夕月からのメッセージであろう。


 それがどれだけ楓を悩ませるか――。そんな事は夕月も理解している。理解したうえで夕月はデートを所望している。


「だいたいなんだよこのクマ。…………じっと見てるとイラっとするなこの獣。殴りてぇ」


「ウサギさん!」という夕月の声が聞こえた気がした。


 よく考えると、最近は夕月と二人で出かける事が少ない気もした。別に一緒に出かけたくないという訳ではないが、夏休み中はずっと一緒にいたため、そのあたりの感覚が若干麻痺しているのかもしれない。


 仮に「恋人らしい事をしているか?」と聞かれたらーー。胸を張って答えられる自信もない。


(……たまにはあいつの要求を飲んでもいいのかもな)


 さて、そうは思ってみるものの、どこで何をしたらいいのかさっぱりである。楓は容姿こそ整っているものの、夕月は正真正銘初めての彼女なのだ。経験値そのものが乏しいため、こういった事に関してはお手上げであった。


 ーーデートするとして、自分が楽しい事は何か。


 考えても頭に浮かんでくるのはボクシングの事だけ。「一緒にミット打つか!」などど言ったら夕月はヘソを曲げてしまうだろう。


(そういやあいつ可愛いもの好きだよな。前に行った動物園は楽しそうにしてたし)


 少し考えるとペンを動かした。夕月が気に入るか若干不安ではあるが、「少なくとも嫌がりはしないだろう」と思った末の答えだった。まだ書き終えてはいなかったが、眠気には勝てなかったため、ノートを開いたままベッドへと入った。





 ◇ ◇ ◇





 翌日ーー。


 朝早くに玄関のチャイムが鳴った。考えるまでもなく夕月であろう。


 長期休みはもう終わっているため、学校ではあまり一緒にいられないが、それでもこうして早朝のロードワークには付いてくる。その後は朝食をとり、一緒に学校に行くまでが一連の流れとなった。


 ベッドから起き上がろうとしたら、ちょうど夕月が部屋に入ってきた。


「……おはよう」

「よう。相変わらず早いな。てか無理して付き合わなくていいんだぞ?」

「……無理……してない……会いたくて」

「そうかよ」


 楓は頭をポリポリと掻きながらそう返す。ダイレクトに好意を伝えられるのは嬉しい反面、どうも慣れないというかむず痒いものがある。


 そんな楓の心境を察したのだろうか、夕月は小さく微笑んでいる。


 そしてテーブルの上に置かれた日記を見つけたようで、開きっぱなしのノートに「待ってました」と言わんばかりに飛びかかる。しかし僅かに早く楓がノートを手に取ると、不満そうに睨んでくる。


「……それを……見せよ」

「まだきちんと書いてねぇ」

「…………じゃあ……今……書いて」

「なんでだよ!!」

「……早く」


 我儘なお姫様は、どうやら楓からの返事を今すぐに見たいらしい。好奇心旺盛なその瞳が物語っている。こういう時の夕月は無駄に迫力がある。


 それでも楓は無視して着替え始める。


「……むー!!」

「おいこら! 離せ!!」


 小判鮫のようにくっついてくるので、引き離そうと試みるのだが……。どうやら離す気はないらしい。


「あー! くっそ! わかったよ!! 今書くから離せ!!」

「……ほんと?」

「書いてやるよ。だから離せ!」

「……最初から……そう言えば……いいの」

「チッ」


 夕月が凝視してる中でペンを持つ。


(……見すぎだろ。普通に書きにくい)


 溜息をつきながらペンを走らせると、「ほら」と夕月に渡した。夕月はすぐさまノートを開くと内容を確認し始めた。一通り読み終わったところで、楓へと視線を移す。


「……へへ」

「デートとかよくわかんねぇからよ。そんなもんでよかったか?」

「……水族館……ペンギンさん」


 嬉しそうにぴょんぴょんしている夕月を見ていると、どうやら悪い選択肢でもなかったようだ。とりあえず安心した楓は胸を撫で下ろした。


「クマを見に行くほうがよかったか?」

「……ウサギさん!!」


 ノートを指差しながら問い掛けると、頰を膨らませた少女はポカポカと胸叩いてくる。予想通りの可愛らしい反応であったため、思わず楓も笑顔になる。とはいえどう見てもクマなので、このネタは夕月をからかう時の定番になりつつある。


「服がねぇな。また陽に頼むか」

「……私服……楽しみ…………でも」

「でも?」

「……ほどほどに……して?」

「なんだよ、ほどほどって。俺はどうでもいいが陽は全力でコーディネートすると思うぞ」

「……最近……楓……モテる……から」

「別にモテてねぇだろ。モテるってのはおまえみたいな奴だ」

「…………楓は……私の」


 正面に立つと楓を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。


「なんだよ」

「……ちゅー」

「しねぇよ。アホか」

「……むぅ……じゃあ……デートの日……ね?」

「気が向いたらな」

「……約束」

「気が向いたらな」

「……楽しみ」


 完全に楓の事など無視して、一方的に約束してきた。キスしたくない訳ではないのだ。どちらかというとしたいとは思っている。


 だが夕月の唇はーー。


 柔らかくて、しっとりとしていて、そして夕月特有の甘ったるいような匂いがする。


 麻薬のような常習性があり、理性を保っておかないと押し倒してしまいそうになる。だから躊躇してしまうのも無理のない事なのだろう。


 当の本人は、むしろ相手が楓であったのなら、喜んで全てを差し出すのだろう。


 上等な美少女が無防備に誘ってきたのなら、いよいよ理性が崩壊する。欲求に任せて動いたのならそれはただの獣だ。


 ーー間違いが起こったら責任を取る。


 口で言うのは簡単だが、実行するには楓はまだ幼い。とはいえその事を自覚できている分、同年代の男子高校生よりは精神的に成熟しているのだろう。


 いずれにしろ「節度を持った距離感で」、そのように楓は自身を戒めている。


 そんな苦悩を知らない夕月は、今日も明日もその次の日もーー。「大好き!」という気持ちを躊躇せずにぶつける。


 ーー早くプロになって稼がないとな。


 そう思った楓であったが、ベルトが先か、結婚が先か……。先の事を考えると頭が痛くなる思いであった。




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