82 傲慢な想い
「慧は……知ってると思いますけど、天才なんです」
「あぁ、だろうな。万人がそう思ってるだろ」
そう語った結は誇らしそうで、そして悲しそうな様子だ。その表情を確認するには街灯の明かりだけでは足りない。更に髪で瞳が覆われているため、隣にいても様子は確認できない。
だがその声色からは、嫌でも悲痛な様子が伝わってしまうのだ。
――何を話せばいいのか。
口を紡いだまま、楓は結の反応を待つ。
「昔は一緒にボクシングをしていました。私がミットを持って慧のパンチを受ける。そして慧がミットを持って私のパンチを受ける。楽しかったんです」
「そうか」
「でも、そんな日々はある日突然終わりました」
結はジャージを捲り上げると右膝を出した。そこには手術したであろう跡があり、それは目を背けたくなるような痛々しいものであった。
さらに右肘を指差しながら「ここもです」と見せてきた。
「肘は遊離軟骨除去の跡、膝は前十字靭帯断裂の跡です」
「酷いな」
「ふふっ! 正直な人ですね。そうです。だから選手としてリングに立つのは諦めました」
怪我を理由に現役を退いた結は、それでもボクシングに関わっていたかったらしい。その主な理由が慧であり、想いを寄せているからこそ繋がりを大事にしたかった。
だが――。
「慧は興味をなくしたような瞳で私を見ました。"ボクシングやめるんだ? "と言われました」
「それで?」
「当時の慧は中学生でした。怪我をする前は私のほうが慧より強かったんです」
どうやら結は、全日本で準優勝するほどの強さだったらしい。怪我がなければ今でも現役だっただろう。もしかしたらベルトを巻いていたかもしれない。
「慧は本当は素直で優しくて、カッコよくて……魅力的な男の子でした」
「でした、か」
「えぇ。慧にボクシングを教えたのは私です」
「……」
「教えれば全てを吸収していきました。異常なスピードで強くなっていきました。だけど――」
「なるほどな。俺と一緒って訳か」
――強くなるためなら何もかも切り捨てる。
楓には慧の気持ちが手に取るように理解できた。
夕月がいて、陽や響、あずみ、そして家族がいる。楓の周りには人が増えていき、以前とは心構えも変化している。
だが慧は相変わらず一人で進んでいるのだ。愚直に一直線に。それが悪い事とは言わないし思わない。だが少しだけかわいそうにも思えた。
そんな風に思うのは楓の傲慢なのだろう。慧には慧の考えがあって、目標があり、そして信念がある。良い悪いではないのだ。それが駿河慧という人間なのだから。
「神代くんは一人ではないでしょう?」
「あぁ、今は一人じゃないと思う」
「……今は、ですか。神代くんは変わったのですね。慧も変われるのでしょうか?」
「さぁな。だが俺は慧を否定しない。あいつは間違っていないと思う」
「そう、ですか」
「だが――。というか俺もわかってねぇけど。人間って一人では生きていけねぇんじゃないか? 一人と思っているのは本人だけじゃねぇか? 最近少しだけそう思うようになった」
結は口を挟んではこない。何かを言いたそうにしているが、それを上手く言葉にできない、そんな様子だろうか。楓のほうを向いたまま口をパクパクさせている。
「家族に恋愛感情、って気持ちも正直俺にはさっぱりだ。だからあんたの気持ちもわからない。だが……ようは慧に見て欲しいんだろ?」
核心をついた楓の言葉に結は息を飲む。少し間を置いてから肯定するように首を縦に振った。
「そうです。私自身じゃもう慧には触れる事すらできません。ミットを構えても打ち込んできてはくれない……怪我の事もありますが、私が女だからでしょう。いえ、きっともう私に関心がないのかもしれません」
「だから俺を鍛える姿を見せつけつつ、そのままあいつを倒せ、と」
「えぇ。私が鍛えた"神代楓"を慧に見せつける。浅ましいでしょう? あなたを利用しようとしています。軽蔑しますか?」
「……」
本音を包み隠さず伝えてきたその姿は、楓には好印象に映った。
目的があり、利用する。
――実に結構な事だ。
単純でわかりやすくていい。表裏もないため、かえって信頼できそうな気さえした。何より結の構えるミットは打っていて気持ちが良かった。
『ここに打ってこい!』
『休むな! すぐに左を返せ!!』
言葉は交わしていなくとも、ミットを持っている結からはそう伝わってくる。優秀なトレーナーである事は疑いようもない。しかも――。
「あんたと組めば強くなるだけではなく、慧対策もできる訳だ。一石二鳥どころか一石三鳥ぐらいの勢いだな」
「そうですね。必然そうなります」
「軽蔑なんかするかよ。あんたは俺を利用する。そして俺もあんたを利用する。双方にメリットがあるな」
「そう言ってもらえると私もうれしいです」
結はベンチから立ち上がると楓の前に立ち、躊躇いがちに手を差し出してきた。今度はその手をしっかりと握った。
「よろしくお願いします」
「あぁ、よろしく頼む。……だが、二つほどいいか?」
「なんでしょう?」
「まずあんたの顔を見せろ。髪で全体像がはっきりしない」
「そんな事ですか」と言うと前髪を上げて素顔を晒す。その顔を見て楓は驚く。
(血繋がってないんだよな? 不思議なもんだ)
どことなく慧の面影が見え隠れする。無論、言うまでもなく顔は整っているのだが、「慧が女性だったらこんな感じなのか」と思ってしまう。
「慧にどこか似てるな」
「そうですか? 自分ではよくわかりませんが。それでもう一つの条件は?」
「天童明って男は知ってるか?」
「えぇ勿論です。惜しい人でしたね……最強っていう称号が相応しい人物だと思います」
その答えに思わず笑みが零れる。その様子を結は不思議そうに見つめている。
「俺をあのおっさんより強くしてくれ。最短で世界のベルトを獲る!」
「凄いですねあなたは。当然のように世界チャンピオンを目指すのですか」
「あぁ。必ず獲る!!」
「……面白いですね! わかりました。獲りましょう! あなたは現時点でかなり強いです。ですが弱点も多いです。まずはそこを強化しましょう」
「ははっ! 俺が弱点だらけか!! 最高だな!!」
頼りになる相棒を得た楓、そして結。
先は長い。
だがきっとやれると信じて――。
夜の公園に二人の笑い声だけが澄んで響いた。
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