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81 トレーナーは妹?

 

 足元から上へと観察するような視線。


 前髪で隠れたその瞳は、異様にギラついているようにも見える。ミットを外すと、口角を上げながら楓の前に立つ。


 ――どこかで会った気がする。


 ミットを打っている間もずっと感じていた感覚。初対面のはずなのに、そうは感じない。


「で、あんたは?」

「…………」


 改めて目の前の少女を眺めてみる。近くで見るとやはり引き締まった身体をしている。鍛え込んでいる人間のそれであり、陰で努力している事は疑いようもない。


 スレンダーという表現は適切ではなかった。余計な脂肪がついていない、アスリートの体つきである。


「……あなたならきっと」

「は? 何言ってんだ?」


 意味不明な言葉に楓は困惑する。二人の様子を見て会長が割って入る。


「で、どうだったうちの楓は?」

「はい。申し分ありません。彼ならきっと」

「だろう? では――」

「はい。よろしくお願いします!」

「会長。説明してください。この人は誰で、何が目的なんですか?」


 楓の言い分ももっともである。ジムに着いたら知らない少女がいて、しかもその少女はミットを持ち慣れている。普通の一般女性ではない事だけは確かだ。


 夕月はきょとんとしたまま見ているだけだ。何が起きているのかわからないのだろう、視線が色々なところを行ったり来たりしている。


「はじめまして神代楓くん。私は駿河結するがゆいと言います。……言うまでもないかしら?」

「駿河……まさか慧の?」

「そう」

「妹さんか」

「姉です!! はぁ……よく間違われるんですよね。幼く見られるみたいですが、二十一歳です」

「歳上? マジか」

「敬語は不要です。長い付き合いになりそうですから、砕けた口調で結構です」


 ――駿河結。


 慧の姉だと名乗る人物は、どうやら楓のジムでトレーナーとして働くつもりのようだ。あまりに予想外の人物であったため、思考が全く追いつかない。


(スパイみたいなもんか?)


 楓がそう考えるのも無理はない。慧と楓は言わばライバル同士であり、その身内がトレーナーとして来たのだ。警戒心を持つな、というほうが無理な話だろう。


 警戒心を微塵も隠そうとはしない楓の様子を見て、結は苦笑いしながら手を出してきた。


「よろしくお願いします。私はこのジムのトレーナーになります。あなたが警戒するのもわかります。ですが、私はあなたを慧より強くしたいんです」

「……なぜだ?」


 相変わらず楓の目つきは鋭い。だが結には少しも臆した様子は感じられない。差し出した手は宙を彷徨ったままであり、楓が握手に応じる気配もない。


 結は手を引っ込めると、少しずつ説明を始めた。


「同階級で慧を止められるとしたら、それはあなただけですから」

「答えになっていない。なぜあんたは慧を止めたいんだ? 身内ならむしろ慧を鍛えて応援したらいいだろうが」

「……」


 結は何かを考えるように沈黙する。少し経つと会長に問い掛ける。


「会長さん。神代くんをお借りしてもいいですか? その……あまり聞かれたくはない事でして」

「私は構わないが、楓はどうだ?」

「なぜ俺がその女のために時間を作らなければいけないんですか? しかも慧の姉だと……ふざけるなよ。断る」

「……随分と嫌われてしまったようですね」


 取り付く島がない楓の様子に、結は悲しそうに俯いてしまった。すると突然夕月が楓の腕を引っ張ってきた。


「なんだよ?」

「……駿河さん……悲しそう」

「だからどうした? 知るかよ」

「……話ぐらい……聞いて……あげよう?」

「は? なんでスパイみたいな奴の話を――」

「違います!!」


 突然声を張り上げた結は、「スパイなんかじゃないです!!」と強く否定してきた。俯いたままであるが、固く握られているであろう拳は小刻みに震えている。


 あまりに必死な様子であったため、楓も少しだけ考える。どうやらスパイなどという下卑た理由でもないようだ。だとすれば――。


(何か理由があるのか。めんどくせぇが……)


 大きく溜息をつくと、首を小さく縦に振った。


「わかったよ。話だけは聞いてやる。ただ俺は夕月(こいつ)を家まで送るつもりだ。その後なら時間を作る」

「えぇ、構いません!! ありがとう!!」

「いらねぇよ礼なんて。全ては話を聞いてからだろ」

「それでもありがとう……えっと……ゆづきさん? でよかったかしら? あなたもありがとう」

「……いえ……私は……何も…………小日向夕月……です……はじめまして……です」

「改めまして、駿河結です。へぇ、神代くんの彼女さんですか。これはまたとんでもない美人さんですね」

「……そ……そんな事……ない……です」


 夕月はあわあわと慌てながら、楓の腕を引っ張っている。その姿を見て結と会長は思わず笑みを零した。


 楓としては少々意外だった。


 楓が見ず知らずの女性と二人きりになる状況、それを夕月が許すとは思っていなかったのだ。自惚れている訳ではないが、それぐらいに好かれている自覚はある。


 女の勘なのか、はたまた本能のようなものなのか――。いずれにしろ夕月は「この人は大丈夫」と判断したらしい。


 せっかくジムに来たのに練習できなかったのは不満であるが、もう話は決まってしまったため、諦めて結の話を聞く事にした。


 楓、夕月、結の三人は揃ってジムを出ると夕月の家へと向かう。





 ◇ ◇ ◇





「じゃあ、悪いな夕月。俺はこの人と話してから帰る」


 夕月はニッコリと笑うと小さく頷いた。そして「あ」と思い出したように手荷物を漁る。


 取り出した交換日記を開くと、目の前で何かを書き始めた――。書き終えると楓にだけ見えるようにノートを開く。


『信じてるけど浮気はダメだよ?』

「は? しねぇよ。んなめんどくさい事」


 その返答を聞いた夕月は満足そうに笑うと、ノートを楓の胸に押し付ける。「また明日」と一言だけ残すと、フリフリと手を振りながら家の中へと入っていった。





 その場に残された楓と結。


 なんとも言えない気まずい空気が流れる。最初に口を開いたのは楓であった。


「じゃあ、話を聞く。公園でいいか?」

「えぇ、構いません」


 楓が先導する形で、二人は少し距離を置いて公園へと向かう。





「はい。お茶でよかったですか?」

「……どうも」


 ベンチに並んで座ると、結からペッドボトルのお茶を手渡された。

 

 時刻は八時。


 既に陽は落ち、公園の中にも人は少ない。ジョギングや犬の散歩など、たまに目の前を人が横切る程度で静かなものである。


 街灯に照らされた隣の女性を見る。手入れはしているのだろうが、それでも長めの髪であったので、「ホラー映画にこんな奴いたな」などと関係のない事を考えていた。


 五分ほど経っただろうか――。


 結はようやく重い口を開く。


「私は慧が好きです」

「そうか。家族だしな」

「いえ、そういう好きではなくて……一人の男性としての()()です」

「そうか」

「私と慧は血は繋がっていません。両親は再婚なんです。それぞれの連れ子として私達は家族になりました」

「そうか」


 全く動揺していないと言えば嘘になる。だが本人が好きだと言っているのならそうなのだろう。姉も妹もいない楓には理解し難いが、それでも家族に恋愛感情を持つのが少々特殊な事は理解できている。


 何と言っていいかわからず、ただ結が語るのを待つだけだった。


「でも……慧は私の事なんか眼中にありません。それどころか会話すらありません。頭の中にはボクシングの事だけ」

「だろうな。知ってる。で、何でそれが俺のトレーナーになる事に繋がるんだ?」

「浅ましいんです私。自分でも自覚しています」

「わからねぇよそれだと。わかるように話せ」


 遠慮のない楓の口調に一瞬驚いたものの、結は少しだけ笑顔を作ると話し出した。




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