75 退がらず前へ
ジムに着いた楓と夕月。
手を繋いだまま中に入る訳にもいかないので、楓から手を離したのだが夕月は不服そうである。「遊びに来てる訳じゃねぇ」と真剣に諭すと、さすがに反省したのか反論は無かった。
気合いを入れ直すと入り口のドアを開ける。
「お! 楓来たか!! 夕月ちゃんもいらっしゃい、よく来たね!」
「うっす」
「……お邪魔します」
夕月の姿が見えた途端に張り切り出すジムの面々、実に滑稽である。夕月はいつも通り、部屋の隅の椅子にちょこんと座る。
「こっち向いて」とアピールしながら動き出す連中だが、残念ながら……いや、当然のように夕月は楓しか見えていない。恋する乙女の蕩けるような笑顔は、男臭い連中には良いカンフル剤になっている。
その笑顔が自分に向く事はないという事実、連中はそこから必死に目をそらしている訳ではあるが。
「夕月ちゃんが来ると活気が出ていいねぇ」
会長は夕月の隣に立つと、ニコニコと笑いながら話し掛けた。
「……いえ……私は……座ってる……だけで」
「いいんだよそれだけで。重要なのは夕月ちゃんがここに居るっていう状況なんだよ」
「……それなら……よかった」
楓は柔軟を終えると拳にバンテージを巻き始める。何気ない仕草なのだが、夕月はこの姿が好きだった。早くクローブを着けたくてうずうずしているのが伝わってくる。眼光は鋭いが、目の奥が無邪気な少年のように輝いているのを夕月は見逃さない。
最近になって少しだけ変わった事がある。
楓はシャドーにかける時間が多くなったのだ。最初は一つ一つを確かめるように、ゆっくりと鏡でフォームを確認している。次第に速度を増していき、終いには実戦さながらの集中力を見せる。
蹴り足の体重を全て乗せたような右ストレートは、まるで一撃必殺とでも言いたそうな、馬鹿げた風切音を伝えてくる。
その姿を見たジムの面々は、「同じジムでよかった」などと安堵している。同じジムである限り対戦する事はないからである。
「楓、夏休み中に何かあったんだろう?」
「……駿河さんに……やられた……みたい」
「ははっ! そうか、そういうことか」
会長は嬉しそうに笑う。夕月にはそれが予想外であった。
「あいつは強すぎるからなぁ。駿河慧の存在はいい刺激になるだろう」
「……そう……なんですか?」
「あぁ、駿河慧は特別だよ。楓と同じさ。でも今はどうだろうね? 今の楓は強いよ」
常人は全てを捧げても見られないような世界。産まれながらに溢れる才能を持った二人は、驕ることなく努力を重ねていく。
同じ時代に同じ国で産まれたのは運命なのだろうか。二人ともどれだけ強くなろうとも、チャンピオンは一人だけである。
「……楓は……負けない」
「そうだね。楓は負けないよ。見てみろあのパンチ! 三階級上の威力だよ! あれをもらって立っていられる奴なんているもんか!」
興奮した会長は、楓を指差しながら熱く語りだす。「会長さんもボクシング好きなんだなぁ」と夕月も自然と頰が緩む。
二人で談笑しながら眺めていると、どうやら楓のシャドーは終わったらしい。いつもであれば、ここからサンドバックを叩いたり筋トレをしたりと、忙しなく動くのだが――。
「よーし楓! リング上がれ! 久しぶりにスパーしようぜ!! 俺は試合も決まってねぇし、本気で来ていいぞ!! はっはっは!!」
豪快に笑うこの男の名前は石井亮。ライトヘビー級日本ランキング一位の男である。階級は楓より上であるから、必然的に身体も一回り大きい。
チャンピオンが対戦を避けるほどの強者であり、おそらく戦ったのならベルトは約束されるだろう。だがなかなか試合が決まらないため、今現在は暇を持て余していた。
あきらかに力をつけている楓の様子を見て、直接その力を肌で感じたいと思ったようだ。
「はい。俺としてはありがたい事です。KOするつもりでやっていいですか?」
「おっ、言うじゃねえか!! 勿論だとも!! 殺す気でかかってこい!!」
「はい」
「面白い事になった」と他の者達もリングの周りに集まる。会長と夕月も同様だ。
「会長。許可をください」
「……はぁ。まったく! 1Rだけだ! それとグローブは12オンス。石井は手加減するように。楓は強いとはいえまだデビュー前だからな」
「手加減か! 確かに本気で殴ったら楓死ぬか! はっはっは!!」
「……手加減なしでいいですよ。やればわかります」
楓は壁に掛けてあるグローブを手に取ると準備をしていく。その様子を見て石井も準備を始めた。
リングに立った二人は対照的な表情をしていた。
一人は楽しそうに笑っている。
もう一人はスパーリングなのに本気である。素振りした左のキレが凄まじい。倒す気満々といった様子だ。
「よーし準備いいか楓! 来い!!」
「はい。よろしくお願いします」
ゴングが鳴る――。
先に仕掛けたのは楓。リング中央まで一気に駆けると左を三発。「たかがジャブだろう」と気軽に受け止めた石井は驚愕する。
(重い!!)
二階級上のはずなのに一瞬でガードを壊されてしまう。がら空きの顔面に楓の右ストレートが飛んでくる。これをギリギリで避けた石井だったが、風切音から感じる破壊力に冷たい汗が流れた。
――12オンスなのに失神させる威力がある。しかも階級が上の自分相手に。
それでもデビュー前の学生に遅れを取るわけにはいかない、そう思う石井は負けじと応戦する。
石井は楓に向けてワンツーを放った。ライトヘビー級のパンチだ。ミドル級の楓ならば後退せざるを得ないだろう、そう思ったのだが……。
楓のスピードであれば全てを躱すことは可能だったであろう。だが敢えて全てをブロックで受けた。ライトヘビー級のパンチを受けても後退しない身体。楓は以前よりも遥かに力強くなっている。
「退くものか!!」とリング中央を制圧した楓は、腰を落としどっしりと構えている。
(ほー、俺と打ち合おうって事か!! 面白いじゃねぇか楓!!)
楓と石井はリング中央で腰を落とし睨み合う。その距離は互いに一番危険な距離である。
石井はジャブから入り主導権を握る。巧みに楓のパンチを捌きつつ要所でカウンターを入れ、その都度楓の頭は後方へ弾かれる。だが楓は一向に退がる気配がない。
(こいつ!! やはりタフになってやがる!!)
それどころか相打ちのようにパンチを返してくるようになった。しかもその一発一発が硬く重い。
その様子に怯んだ石井は僅かに後退した。それを楓は見逃さない。
鋭く踏み込むと左ボディブローを叩き込む。足のつま先から拳にかけて連動して伝わった力は、容赦無く石井の脇腹を抉っていく。
「がはっ!!」
身体をくの字に曲げて悶絶する石井。楓は腰を落とすと右拳を振り上げる。「ガッ」という鈍い音が鳴り響き、石井の顎が上がる。一瞬身体が持ち上がったのではないか、と錯覚してしまうほどの右アッパー。
膝が揺れる。視界も定まらない。
フィニッシュへと楓が動いたその時――。
カーン!!
試合終了の合図である。
楓は拳を下げると石井に頭を下げた。
「ありがとうございました石井さん。いい練習になりました」
「お、おう! 顔の手当てしとけよ!! いい男が台無しだぞ!!」
「はい」
リングを降りた石井に会長が近寄っていく。
「石井……どうだった楓は?」
「…………あいつは化物です。モノが違う」
「折れたか? 肋骨」
「いえ、折れてはいないです。けど10オンスだったらやられてましたね。ミドル級とか冗談だろって威力です。しかも以前より打たれ強くなっています。あいつ……日本チャンピオンより強いですよ現時点で」
「やはりそうか」
石井の感想に特に驚かず、会長は納得したように頷いている。
「だがミドル級にはもう一人いる」
「駿河ですね? いやー、俺ミドル級じゃなくてよかったわ! はっはっは!!」
「うーむ、気合い入れて指導しないとな! 楓がベルト取れなかったら俺の責任だ」
「俺もやる気出ましたわ! とりあえず楓より先にベルト取ってきますよ」
「あぁ! 頼んだぞ石井!」
強烈な才能を目の当たりにした二人は、輝かしい未来を想像しながら楓を見つめていた。
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