72 夏休みも終わり
新学期が始まります!
楓にとっては人生で最も濃密な夏休み期間であった。自分の事だけでなく、他者の事までこれほど考えた事はなかったであろう。
最優先すべきは自分自身の道であり、その考えは変わっていない。だがそれが全てではないと思えるようになった。
家族や夕月達、そして商店街の人達。
――応援してくれる皆のために頑張るのも悪くないと。
――ゆくゆくは皆の想いを背負って拳を振れる人間になりたいと。
慧にこっぴどくやられた経験は、またひとつ楓を人間として成長させた。角が取れて少しだけ丸くなった雰囲気は夕月達も感じており、人間味が出てきた事を喜ばしくも思っている。
様々な事があった高校一年生の夏は、楓の人生で忘れる事のできないものとなった。
そして今日は始業式である。
久しぶりに今朝は一人でロードワークを行った。静かな雰囲気で走るのは物足りないというか、少し寂しいというか……。「何言ってんだかバカが」と心の中で自嘲する。
自身の頰を強めに叩いて気合いを入れ直すと、静かな道を再び走り出す。
(ここか……)
息を整えながら橋を歩いていく。相変わらず辺りに人の気配は無いようであった。夕月達と一緒に走る時にはここは通っていなかった。
橋の中央付近で欄干に手をかけると谷底を覗き込む。白い霧に覆われた谷底は「ほら怖くないでしょ?」と誘い込んでいるようにさえ思えた。夕月もこんな光景を見ながら身投げしようとしたのだろうか。
「チッ、胸糞悪い。夕月はもうここには来ねえよバカが! 引っ込んでろ!」
「絶対に離さない」と小さく呟くと自宅へと向かって折り返した。
◇ ◇ ◇
「…………おはよう」
「おう、来てたのか」
玄関を開けるとパタパタと夕月が近付いてきた。部屋にはパンが焼けるようないい匂いが漂っており、どうやら朝食を作ってくれていたらしい。
鍵の隠し場所を教えているため、夕月は楓が不在でも部屋の中に居る事が増えた。特段見られて困るようなものも無いし、やましい事などひとつも無いので、鍵の場所を教える事にも抵抗は無かった。
というより夕月が外でずっと立っているほうが問題なのだ。以前ナンパ紛いの事件もあったため、それを警戒しての配慮でもあった。
「そろそろ合鍵でも作ってくるか。必要だろ?」
「……ふぇ? ……合鍵…………欲しい!」
思った以上に食い付いてきたため、楓は苦笑しながら夕月の頭に手を伸ばす。すると夕月はその手から離れるように勢いよく後ろに下がった。
「はぁ、だから何だよ。いい加減説明しろ」
「…………あぅ」
――またこれである。
扇風機を持ってきた日からだろうか。夕月は楓との距離が近くなると、こうして距離をとっては黙ってしまう。睨まれたりする訳ではなく、ただ顔を赤らめながらじっと楓を見つめている。
その行動が何を意味しているのか……。さっぱりわからないのでお手上げ状態である。
「はぁ、よくわかんねぇけど何か不快な思いさせたか? 言ってくれれば善処はするが――」
「違う!」
夕月にしてはかなり珍しく、楓が言い切る前に口を開いた。
「不満がある訳ではないんだな?」
夕月は首を縦に振る。
「わかったよ。よくわかんねぇけど好きにしろ」
「……楓が……あんな事……するから」
「あんな事? どんな事だ?」
「…………知らない」
頰を膨らませると背を向けて部屋の中へ戻っていった。
(意味わからん。何だよ一体)
楓は首を傾げながら部屋の中へ入った。
テーブルの上にはすでに朝食が用意されており、夕月は正座で楓を待っている。
――これも些細な変化である。
いつもは迷わず隣に来るのに、テーブルを挟んで対面に座っている。楓としてはありがたい事であるが、どうも拍子抜けというか反応に困ってしまう。
「…………いただき……ます」
「いただきます」
粛々と食事は進んでいった。
◇ ◇ ◇
「楓? 夕月さんと喧嘩でもしたの?」
「いや、してない……はずだ」
「それにしては距離が遠くないか? いつもはべったりなのに」
「ま、いいんじゃねぇの? 目の届く範囲にいれば構わん。くっつくと暑いしありがたい限りだ」
「夕月さんっていう最上級の彼女がいて、そんな雑に扱うのはおまえぐらいだよ……。普通は手を繋ぎたいとか、くっつきたいとか思うんだぞ?」
「ほー、変わってるな」
「だめだこりゃ」
呆れ顔の陽は「夕月さん大変だなぁ」と零していた。
学校へ向かって歩いている四人は、珍しいことに男二人と女二人に分かれて歩いており、夕月達は楓達の少し先にいる。
夕月が楓から離れているからだろうか、響はここぞとばかりに夕月に猛アタックしている。勿論陽は置き去りである。
「おまえの彼女も距離遠いぞ?」
「はは……だって響だし」
「苦労してんだなおまえ」
「二人の時は結構甘えてくるんだよ? めっちゃ可愛いんだこれが!」
「物好きな奴め」
放っておくと延々と惚気話を聞かされそうなので、適当なところで会話を切った。
すると唐突に後方から声が聞こえてきた。
「あ、あの! すみません!」
振り返ると、同じ学校の制服を着た少女が立っていた。手に持っているのは手紙だろうか、恥じらいながらもゆっくりと楓と陽に近付いて来る。
さすがの楓でもわかる。あれはラブレター的なものであろう。「ほらおまえに用みたいだぞ」と陽の背中を軽く押す。
だが少女は陽の隣を過ぎると楓の目の前に立った。
「あの! こ、これ!」
「あ? 相手間違ってるぞ。陽はそっちだ」
「合ってます! 神代楓さん! スマホ持ってないって聞いて……それで」
「確かに俺が神代だが。これラブレターってやつだろ? 何で俺なんだ?」
「……駿河慧さんと戦ってる動画見て、カッコいいなぁって」
どうやら出回った動画を見たらしく、しかも夕月という恋人が居る事を知らないようだ。初めての状況に「どうしたもんかなぁ」と困惑する。
陽に視線をやると、ぷいっとそっぽ向かれてしまった。どうやら「自分で考えろ」という事らしい。
(面倒臭え。受け取らずに返してやりたいが)
少し考えると楓は口を開く。
「ま、せっかく書いてくれたんだから受け取る。だが返事は期待しないでくれ。俺は……その、彼女いるんだ」
「え……そうですか。でも読んでくれると嬉しいです。気持ち込めて書いた、ので」
「あぁ、わかった。悪いな」
「いえ……では私はこれで」
少女はあからさまに悲しそうな表情を作ると、前の夕月達を追い越して足早に去っていった。若干心苦しいがこればかりはどうしようもない。
陽は少し感心したように楓を眺めていた。
「てっきり読まずに突き返すと思ってたのに。意外だ」
「まぁ読むぐらいならな。目の下にクマ作ってたしあいつ。さすがに突き返すのは酷だろ」
「へー、よく見てたんだなー。うんうん! いいよ楓! 感心した!」
「てめえは俺を何だと思ってんだ?」
「冷酷な殺戮マシーン」
「なら殺戮してやろうか? あ?」
「いや、普通に怖いって!!」
陽とそんなやり取りをしていたら、腕を引っ張られている事に気が付いた。見ると夕月が頰を膨らませて見上げていた。
「……さっきの……何?」
「さっきのって、走ってった女子の事か?」
夕月は楓が手に持った手紙を凝視している。
「……むう!」
「あぁ、これか。なんか貰った」
「……ラブレター?」
「だろうな。とりあえず中は読むつもりだが」
「……断る……よね?」
夕月の頭に手を乗せるとぐしゃぐしゃと撫で回した。
「……あぅ」
「当たり前だろうが。余計な心配すんじゃねぇよ! 俺はおまえだけだし、おまえも俺だけだろ? 疑うなバカが」
「……だって」
「なら隣に居たらいいだろうが。なぜ離れる」
「…………」
――またしても無言だ。
だが少し間を置いてから楓の服の袖を掴んだ。躊躇いがちなその行動に楓は苦笑した。
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