番外編1 駿河慧
時刻は朝5時。
スマホのアラーム音が鳴り響くのは、決まって既に目を覚ました後の事である。軽く顔を水で洗うとジャージに着替えて玄関を出る。
――駿河慧。
走っている姿でさえ軽やかで品があり、犬の散歩をしている女性なども思わず見惚れてしまうほどだ。声を掛けられるなど日常茶飯事であるが、無視せずに受け答えはしている。全ては計算の上であるが。
慧の頭の中にあるのはプロになって世界チャンピオンとなる事。それだけではなく、統一王者、そして複数階級でのベルト奪取。その野望を数えてみるとキリがない。
メディアやファンは大事にしないといけないのだ。自分が上に行くために必要なツールであり、そこに感情は入らない。あくまで道具は道具。
思惑通りにメディアは踊ってくれた。「期待の新星現る」や「日本の至宝。約束されたベルトへ」などなど、過剰なぐらいに騒ぎ立てる。それを見て鼻で笑っていた。
(そうやって僕を引き立てていればいいのさ。メディアもファンも。騒がしいのは鬱陶しいけど我慢してあげるよ)
一直線に世界の頂点へ。
邪魔をする者などいない。敷かれたレールをただ愚直に進むだけ。
そう思っていたが……最近になって妙な噂を耳にした。
階級は自分と同じミドル級。そしてその男は雑誌の取材などは完全拒否しているらしい。だがその実力は記者の折り紙付き、慧に勝るとも劣らない力を持っているとのこと。その男の名は神代楓。
それを聞いた時、慧の心臓は異常なほど高鳴った。
自然と笑みが零れるのだ。次から次へと溢れてくる不思議な感情は、慧にとって初めての体験であった。
いる――。
わかる。嫌でもわかってしまう。
きっと同類、そいつは自分と同じでボクシングに全てを捧げているはずだ。取材拒否などからも明らかだ。
慧は神代楓の頭の中を想像する。
『取材なんか受けている暇はない。騒ぎ立てるのは鬱陶しいとしか思えない。俺の邪魔をするな凡人共』
(ふふっ! こんなところかな?)
その男の事を考えると気分が高揚して頰が赤みを帯びていく。妖艶な魅力を醸し出した中性的なその表情は、まるで恋する乙女のよう。だがそれもあながち間違ってはいないのかもしれない。
他人の事をこれだけ考えるのは初めての経験であった。
どれだけ綺麗な女性から声を掛けられても、好意を伝えられても心は冷め切っていた。作り物の笑顔を貼り付けて丁寧にお断りする。うんざりするような一連の動作は最早ただの作業になっている。
だが……神代楓。
その男の存在を知ってからというもの、頭はその事で埋め尽くされている。
恋とはこのようなものなのだろうか。愛しくて愛しくてたまらない。考えるだけで心臓をキュッと掴まれたように苦しくなる。
あぁ……会いたい。
あぁ……僕のこの拳で壊したい。
戦ったらどうなるのだろうか。
自分よりその男は強いのだろうか。
想像する。何度も何度も。だが結局は同じ結論に至るのだ。
(僕のほうが強いに決まっているね。立っているのは僕で、君が倒れるんだ)
不敵な笑みを浮かべながらひたすらに走る。いつもより動悸が激しいのは気のせいではないのだろう。
◇ ◇ ◇
日課のロードワークを終えると、シャワーを浴びて着替える。軽めの朝食を取ると学校に行く支度をする。
慧は学校というものが心の底から嫌いである。勉強など無駄でしかないと思っているのだ。最低限の一般教養を身に付ける、そういう意味で通ってはいるものの本音としてはすぐにでも辞めたい。
学校での人間関係も正直鬱陶しい。
その優れた容姿と人当たりの良さに、勘違いしたクラスメイトは絶え間なく寄ってくる。心の内では「邪魔だ」と思っていてもそれは口には出さない。将来のファンを増やしていると思えば何とか耐えられた。所詮は引き立て役。将来の展望も持たない凡人共にはそれがお似合いだ。
通学は自転車を利用している。
これであれば声を掛けられる事はほぼない。歩いて通学しようものなら女生徒が寄ってきて邪魔なのだ。それに気付いてからは割と快適にはなった。
学校に着いて正面玄関を潜ると、自分の下駄箱を開ける。
「はぁ……またか」
中にはラブレターらしきものが二通。
「相変わらず慧は凄いな。またラブレター?」
「おはよう。そうみたいだね」
「ははっ! 俺にも分けてくれよ!」
「できる事ならそうしてあげたいよ」
話し掛けてきたクラスメイトとは、このように普通に受け答えはする。内心は見下しているが。
慧にとって最も鬱陶しいのがこのラブレターとかいう紙。好意を伝えたいのなら直接来たらいいのに、中身は大抵放課後に場所を指定してくる。
人の貴重な時間を勝手に奪おうとする奴が心底憎い。ラブレターなどという手段を取った時点で、相手の顔や性格は関係なく評価は最底辺へと落ちる。
だが無視する訳にもいかない。
世間体の評価は高く保っておかなくてはならないのだ。全てを踏み台にして頂点に立つために。
考えるだけでも憂鬱になるのだが「仕方ないな」と自分に言い聞かせる。
◇ ◇ ◇
無駄な時間を終えた慧はジムへと直行する。
早く身体を動かしたくて仕方がないのだ。神代楓の事を考えると燃えるように熱くなってくる。発散しないとすぐにでも爆発しそうだ。
ジムに着くや否やトレーナーが話し掛けてきた。
「慧。喜べ」
「ん? 何ですか?」
「決まったぞ! 神代楓とのスパーリング」
「……そうですか」
「意外だな。もっと喜ぶと思っていたんだが」
「嬉しくないように……見えますか?」
身体が勝手に震え出す。もちろん恐怖などではなく、歓喜からくるものだ。
(ようやく……ようやく会える!!)
――想い人にようやく会える。
慧の興奮は楓に会うその時まで冷める事はなかった。
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