表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/237

58 前方確認

ご感想いただきましてありがとうございます。

100件を超えておりました。感無量です......。

感謝しかございません。

 

 五分ほどだろうか――。


 夕月の小さく啜り泣く声は楓の耳にももちろん届いており、何か言葉を掛ける雰囲気でも無かったので、黙って梓に任せていた。

 溜め込んでいたものを吐き出すようなその姿を見ていると、自分だけでは足りない部分もあるのだなと実感する。


 もちろん楓としても、自分が夕月の支えとなっている自覚はある。辛い事があった時の捌け口となっているとも思う。だが梓と抱き合っているその姿を見ると……。

 やはり母親というのは特別なものなのだろう。「必要な愛情なのだな」と思えてしまう。愛情が足りなかった、というだけならまだいい。夕月の場合は違うのだ。



 目の前に、手の届くそこに家族はいるのに。その手は届かない――。



 愛情は貰えなかった。それどころか鬱陶しい、挙げ句の果てには「死ねばいいのに」とまで言われてしまった。

 そんな夕月の心情を想像すると、苦虫を噛み潰したような……不快な気分になるのも当たり前と言えた。


 そんな楓の表情を見て、梓は内心驚いていた。

 楓のその表情は、夕月を想ってのものである事は疑いようが無い。他人に対してこれだけ感情移入する息子を初めて見たのだ。少なくともこれまでの楓から考えるとあり得ないことであり、良い意味で人間としての成長が伺えた。


 梓は「ふっ」と吐息を漏らしてから楓に話し掛ける。


「楓、おまえは夕月さんが本当に大事なのだな」

「あぁ、そうだ」

「ふっ。そうか、あの楓が……母はうれしい。人としても一回り大きくなっていたのだな。近くでその成長を見られなかったのは悔しいが」


 嬉々と弾むようなその声色に場の空気が一変する。

 夕月はゆっくりと梓の身体から離れると、ぺこりと小さくお辞儀をした。梓は再び夕月の頭に手を乗せると満面の笑みを作る。


「ありがとう夕月さん。楓と一緒にいてくれて」

「……い……いえ…………お礼を言うのは……私……です」


 たどたどしい口調でそう返すと、視線を下に向けて沈黙してしまった。だがその視線は強制的にまた上へと移る。梓が両手で夕月の顔を自分に向けていた。無理矢理にではなく優しくゆっくりと、涙の痕を指で拭ってやると、少し間を置いて口を開く。


「下を向いていても何も落ちてないぞ。何か落ちているのなら儲け物なのだが、この世はそれほど甘くは無いようだ」

「…………」

「うちの自慢の息子はな、血の気は多いし、あまり他人には関わろうとしないし、今時の男子高校生の中では異質かもしれない。でも……見てて感じないかな? そして()()は夕月さんにとってはプラスに働くものだと思うぞ」

「……え?」


 二人の会話を楓は黙って聞いていた。「梓に任せておけば問題無い」と信頼を寄せており、口を挟むのは野暮な事だと自覚もしている。何よりそのやり取りを見ていたかったというのもある。


「楓はな。ひたすらに自分自身を信じて努力を重ねてきた、前だけを向いて。辛くて下を向く事もあったかもしれない、だがすぐに上を向いてまた走るんだ。これは実は凄い事でな。自分が強くなる事を疑っていなかったんだ。少なくとも同年代の子達の中では明らかに異質だったよ」


 諭すような口調は、楓の胸にも少しだけ痛みを与える。「さっさと頭を上げろ馬鹿者」と言われている気がした。

 夕月はその言葉を噛み締めるように聞き入っている。


「どうしてボクシングを始めたのか、それは私も聞いていないのだ。だが……覚悟が決まった顔をしていた。当時小学生だぞ? 目を疑ったよ、だが嬉しかった」

「…………嬉しかった?」


 梓は小さく頷くと視線を上へと向ける。思い出すように目を細めるとゆっくりと話しだした。


「楓は幼少の時からどこか大人びていた。周りで遊んでいる同年代の子供達を見て、くだらないとでも言いたそうな様子だったかな。だからなのかもしれない……ボクシングを始めると言った時のあの瞳、あの表情は今でも忘れられない。強い瞳だった、そしてキラキラとしていた。親でよかったと思ったよ」


 思いもかけずに梓の心の内を話されて、楓も顔が熱くなる。当時を思い出して「そんなこともあったか」と苦笑する。


 言われてみると当時は確かに無気力だった気がする。とりあえず学校に行って勉強をして、少しだけ背伸びをしてミステリー小説に手を出したり。まぁ当然ながら内容は頭に入って来なかった。

 子供ながらに「何をやっているんだろう」などと自身に疑問を持っていた。幼いながらにも行動に疑問を持つという事は、それ自体が非凡であるという証明になるのだが……本人はもちろんのこと、両親さえも気が付かなかった。


 そこを見抜いたのが天童明であった。

 もし生きて居たのなら指導者として大成していたかもしれない。当の本人は「選手を壊しそうだ」と笑い飛ばしていたが。

 などと少し脱線した事を楓は思い出していた。


 唐突に梓は夕月の両手を包むように優しく握る。


「夕月さんが何を思い悩んでいるのかはわからない。でもその涙は軽いものでは無いのだろう? だから気軽に元気を出せ、というのも違うのだな。だから私から言える事は限られてくる訳だ」


 梓の言葉は昔から妙な説得力がある。

 本人の雰囲気や話し方、独特の空気感がそうさせるのだろうか。スッと心の隙間に入ってくるというか、強く印象に残るのだ。

 様子を見ていると、どうやらそれは楓だけではなく夕月も同様のようだ。聞き逃すまいとじっと梓を見つめている。


「人間というのは弱い生き物でな、悪い事を考えるとどこまでも堕ちて行くんだ。それはもう際限無くどこまでも。だからな……辛くても前を向くんだ。それは虚勢だって構わない。重要なのは視線を上げること」

「……視線を……上げる」

「そうだ。とりあえず前を向いていれば、太陽の光が目に入るかもしれない。それだけで元気になれるかもしれないぞ? それに楓の顔だってそうしないと見れないだろう?」

「……た……確かに」

「おい。変な事吹き込まないでくれよ」


「ははは」と梓が笑うだけで場の空気は一気に弛緩する。「本当にこの人は……」と心の中で文句を言ってはみるが本心では無い。

 むしろありがたいと思った。自分では伝えられない事を伝えてくれて。





 ◇ ◇ ◇



「夕食を一緒に」と夕月は梓に提案したものの、滞在しているホテルに戻って一仕事残ってるようだった。明日も一緒だということもあり足早に去っていったのだが、帰り間際に夕月を抱き締めるのはもちろん忘れていない。

 夕月もある程度慣れてきたのか、されるがままであった。表情は蕩けていたので、嫌というよりは好意的なそれであろう。


 再び楓と夕月の二人となる。


「悪かったな、うちの母が」

「……むしろ……羨ましい」

「それならよかった。長い付き合いになるから慣れてくれると助かる」

「…………また……サラッと……そういう事を」

「ん? 事実だろうが」

「…………うむ」


 夕月は恥ずかしいような、不満なような、複雑な顔をしていた。それがあまりに可愛らしく見えたので、無意識にその桃色の頰に手を伸ばしてしまった。

 触られると「……ん」と目を瞑りながら甘い吐息を漏らし、その手に自分の手を重ねていく。


「……いひゃい」

「ふーん、やっぱり餅みたいに伸びるなこれ」


 楓なりの照れ隠しである。


 両手で夕月のほっぺを摘むと両側へ引っ張る。これが予想外によく伸びる。遊んでいたら睨んできたのでここが潮時だろう。


「……痛い」

「悪いな。なんとなくやった」

「……なら……お詫び……して」

「お詫び? 何だ?」

「……ちゅー」

「断る」


 その答えに不満だったのか、頰をこれ以上無いぐらいに膨らませている。全く怖くは無いが……。

 その楓の反応が気に入らなかったらしく、おもむろに椅子を楓の前に置く。


 そして椅子の上に立った。


「なんだよ?」

「……私は……プンプンで……ある」

「だからなんだよ、っておま、むぐっ! んんん!!」

「……」


 唇が触れ合うなどという軽いものでは無い。逃げられないように楓の頭をがっちりとホールドすると、貪るようにキスをしてきた。


 身体中の何かを吸い取られるような感覚に、楓はただ呆然としながら流れに身を任せた。

面白いと感じていただけましたら、下の評価欄から評価いただけますと幸いです。


それを励みに頑張ります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ