56 白い記憶
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夢を見ている――。
白い霧の立ちこめる公園で拳を振っている。初秋であろうその空気の冷たさは、頰に刺さるように感じられる。脇のベンチで休んでいるカラスが三羽、楓の拳の風切り音に合わせて飛び立った。無音の世界で、その羽ばたき音だけが澄んで聞こえてくる。
夢であるのにまるで現実かと錯覚してしまうような鮮明な景色。だが、まだ短い己が手足を見ると、やはりこれは夢であるのだろう。
周りには誰もいない。
ミットを持ってニコニコと、そして皮肉めいた嘆息を吐く男も……いない。
「あぁこれは夢だ」と意識してみても、覚める気配が無いのには困ったものだ。
強く目を閉じて額の皺を深くし、ただ願う。「早く夢から覚めてくれ」と。そんな願いを嘲笑うかのように、景色は悲しいぐらいに変わらない。
霧を、邪推を、悲しみを振り払うかのように拳を振るが、振り切った拳の先には何も無い。空を切る音ばかりが反響して辺りに響き渡る。
「夢なのに何をやってんだ」と切なく眉尻を下げる。
一人で進むのは慣れている。
明をじっと待っているこの期間でさえ、涙一つ零さずに懸命に抗った。だが……本音はやはり悲しく、寂しかった。
待っていればそのうち何くわぬ顔で現れそうで。だがその願いも徒労に終わることは、今の楓は知っている。
ならばせめて夢の中だけでも顔見せてくれてもいいだろう? 縋るように楓がそう願うのも無理は無い。そしてその願いに呼応したように、霧の先に人影が見えた。
遮二無二にそこへ向かって走る。
途中で躓いて転んでしまい、膝からは鮮血が滴り落ちる。
それでもすぐに立ち上がるとそこへ向かって走る。深い霧を掻き分けていくと、その人物は姿を現した。
「遅えんだよおっさん。どれだけ待たせるんだよ」
明は僅かに笑みを浮かべているものの、その言葉に反応を示さない。じっと楓を見つめているだけだ。
「何か……何か言えよ!! どうして!!」
わかっている。
これは夢なのだ。きっとこの言葉は伝わらないし、答えも返ってくる訳が無い。
それでも叫ばずにはいられなかった。そうしないと自分の中で何かが壊れそうな予感がした。
「……何で、黙っていなくなったんだよ。俺は……俺はっ!!」
わかっている。
きっと明は楓の事を思って敢えてそうしたのだ。理解はしているのに勝手に口から出て行く言葉。
相変わらず明に反応は無い。
そして軽く手を上げると、楓に背を向けて霧の中へ溶けていく。
必死に追いかけた。
だが距離は一向に縮まらない。それどころか差は開いていくばかりだ。
それでも走る。
ひたすらに走り続けても……ダメだった。
息は上がり、心臓は爆発しそうなほどの脈動を立てている。
苦しい。
誰か――。
――――――――――
「楓!!」
目を覚ますと夕月の顔が見えた。
少し茶色が混じった潤んだ瞳は、心配そうに楓を見つめている。
この顔を見ていると安心する。
暖かい空気に優しく包まれるような、自分の居場所に戻ってきたような……
その桃色の頰にそっと手を伸ばす。
驚くほど滑らかでマシュマロのような肌は、どれだけ触れていても飽きそうには無い。
見つめているとその可愛らしさに溜息が漏れる。相変わらずよく整った顔だなぁと感心さえする。
そんなバカなことを考える余裕はあるようで、気持ちを落ち着けるとゆっくりと話し掛けた。
「おはよう。どうした大声出して」
「…………酷く……うなされてた」
掌を見るとじっとりと汗が滲んでいた。いや、掌だけではなく全身が汗で濡れている。
自嘲しながら身体を起こした。
昨夜の事を思い出す。
夕月と一緒に夕食を取った後、シャワーを浴びた。
そして夕月が風呂から戻ってくるのを待っていたら――。
「そうか。俺そのまま寝たのか」
夕月には悪い事をしたと罪悪感を覚える。普段の楓であればこんな事は無いだろう。心のバランスを崩しているのはやはり間違い無いようだ。
夢の中ではあるが、久しぶりに見た明の顔を思い出す。改めて考えてみると明はいつも笑顔だった。
今になってようやくわかった事がある。
ボクシングを教えている時のあの表情。よく楓を見て目を細めていた。
きっと明は楓に教える事が楽しくて仕方なかったのだろう。嬉々と指導するその瞳は少年のような純粋さがあった。
明の事を考えていると懐かしくて切ない気分になる。だがそれは決して嫌な記憶では無く、むしろ忘れないように大切にしたいと感じるのだ。
今の楓の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
だがそれとは対照的に今は穏やかな表情を作っている。普段の排他的な雰囲気は鳴りを潜めている。
そんな楓の表情に夕月は釘付けだ。
夕月にとっては初めて見る表情だった。普段の楓とのギャップが凄まじく、まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
口を開けたまま見惚れている。それほど異性として魅力的に映った。
「どうした? 何か俺の顔についてるか?」
「……あ……あぅ……」
「顔赤いぞ。熱あるのか?」
夕月の額に手を当てるが熱は無いようだ。顔はこれ以上無いぐらいに真っ赤に染まっているが。
「…………楓」
「なんだ?」
「……その顔……外では……控えて」
その言葉は何を意味しているのだろうか。「その顔」と言われても楓はピンとこないため、困ったように夕月を見つめる。
じっと瞳を見つめていたら夕月から目をそらした。これも実は珍しいことであった。
何にせよ困らせたい訳では無いのだ。
一緒にいてくれる、それだけでありがたい。
今は夕月の顔を見ていると、胸を締め付けられるように苦しくなる。
――その頬に、唇に、髪に、触れたい。
手を伸ばすと再度その頬に触れる。
夕月はびくっと一瞬だけ驚きの表情を見せたが、頬に触れている楓の手に、優しく自らの手を重ねる。
まるで宝物に触れているかのように、うっとりと蕩けた表情となった。
「……楓」
「ん?」
「…………大好き」
「あぁ、知ってる」
結局、夕月が満足するまで頰に触れていた。掌から直に伝わってくる体温、それを感じていると欲情しそうになる。
楓は内心では必死に抗っていた。そんな心の内など知る由も無い夕月は、ただ目の前の幸せに身を委ねる。
◇ ◇ ◇
早朝のロードワーク、楓と夕月はとりあえず不参加とした。
楓の様子を見た陽は半ば強引にそう決定した。
楓としても今はどれだけ練習しても身が入らない事を自覚している。なのでその提案をそのままそっくり受け入れた形だ。
だが、いざボクシングから離れてみると、どれだけ自分がそれに時間を費やしていたのかがわかった。
空いた時間で何をしようか……
初めのうちは夕月と共に勉強に励んでいたのだが、それにも限界は来る。そもそも課題等は溜め込んでいないため早々に切り上げてしまった。
どうしようかと考えていると、夕月が何か思い付いたようだ。躊躇いがちに話し掛けてきた。
「……お墓」
「墓?」
「……お墓参り……行こう?」
「誰のだよ」
「…………天童……明さん」
その言葉に楓は、唖然としながら大きく目を見開く。
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