199 後出し交換条件
早めの更新になりました。
「……ふぉぉ」
(試合間隔空かないで試合してぇな。結に言ってみるか)
「……旗……旗が!」
(彗も順調に勝ってんのか。負けるわけもねぇか)
「……美味!」
「ん? あぁ、良かったな」
試合後は思ったよりも顔面が腫れてしまい、ダメージを抜く目的も兼ねてしばらく休養を命じられた。ミット打ちは勿論のこと、ロードワークまで禁止にされている。
とはいえ、それでも隠れて練習してしまうのが楓なので、結からのスパイが派遣された。間者はしばらくは家に居座るつもりらしい。
今日はプチ祝勝会という名目のもと、あずみ、結、響、陽とジム近くのカフェに来ている。結は空き時間によく利用しているらしいが楓が入るのはこれが初めてだ。
コーヒーに並々ならぬこだわりがあるらしいが、何種類か試し飲みしてもあまりよく分からなかった。かろうじて認識できたのは酸味と苦味の違いぐらいだろうか。
「私の奢りだ。好きなものを飲んで食え」
「ありがとうございます。……でもあれだな。コーヒーは市販の奴で充分だな。違いが分からねぇ」
「おまえな。そういうのは店の中で言うことじゃないぞ」
事実だから仕方がない。もしかすると年齢を重ねれば変化があるのかもしれないが、今のところあまり分からない。
結はというと、まったく遠慮せずにどんどん注文していた。気になっていたケーキや、新作のメニューなど候補は数え切れないようだ。
そして問題はこいつだ。
空腹なのは分かるが、だったらパスタやパンなど色々あるのに、なにを思ったか“お子様ランチ“を頼んでしまった。
「……美味いか?」
「……うん!」
本人が納得しているのならいいのだが、そんなもの頼んでよく恥ずかしくないものだと感心する。
「……旗。いいなぁ」
「こら、やめなさい」
ひとつ空席のテーブルを挟んで座っていたのは母娘の親子連れらしく、娘は3、4歳ぐらいだろうか。夕月が手に持った小さな旗を指差して「私も欲しい!」と母親にねだっていた。
夕月は席を立つと女の子の前でしゃがんで旗を手渡した。
「くれるの!? お姉ちゃん!!」
「……うん……あげる……大事に……してね」
「すみません! ほら! きちんとお礼しなさい!」
「ありがとう、ございます!」
保育園で教えられたのか、びっと気を付けをして大きな声でお礼が飛んできた。夕月は女の子の頭を軽く撫でると自分の席に戻ってきた。
「夕月ちゃんやさしー!」
「神代くんにも見習ってほしいものです」
「ちっ」
夕月は着席と同時に手を上げ注文をお願いする。
「……お子様……ランチを」
「いや、おまえな――」
「……この……人が……食べます」
「食わねぇよ!!」
追撃のお子様ランチは響と陽が美味しくいただくこととして、楓はハンバーグランチと牡蠣グラタン、白身魚のムニエルを注文した。三品だと多いような気もするがこれも計算のうちだった。
テーブルの上に並んだ料理をいただいていると、隣からそろりと箸が伸びてくる。
「おい」
「……なに?」
「食べたいなら頼め。全て先生の奢りなんだから容赦するな」
「神代。言い方を考えろ」
「……でも……ひとり分だと……多い」
「仕方ねぇな」と夕月の前に牡蠣グラタンを置いた。最初からこうなると思っていたので、多めに頼んでおいたのはやはり正解だったらしい。
とりあえずハンバーグから食べ進める訳だが、これがかなり美味しかった。粗めに挽いた肉は食べ応えがあって、噛めば噛むほど肉汁が口の中に広がる。
女性が好みそうな店舗だったので、どうせ意識高い系の味なんだろうなと思っていた。しかし、どちらかというと男性向けのワイルドな味で、これはかなり楓好みの味だ。
(この感じだと牡蠣グラタンも期待できそうだ)
そう思って夕月の食べ残しに手をつけようとしたら――。
「なんだそのパンパンの頬は」
「……」
予想は裏切られ既に夕月は完食していた。頬を限界まで膨らませているのは、楓に取られるのを防ぐために急いで詰め込んだのだろう。
「ひとり分だと多いんだろ!? 完食してんじゃねぇか馬鹿野郎!」
「……食べたい……なら……頼めば……よい」
イラッ。
両手で夕月の顔を挟むと、ひょっとこのような口をしながらこちらをじっと見つめている。
「オラァ!」
「……る」
「あぁ?」
「……むにえる」
「やらねぇよ!!」
左手で夕月の顔面を押さえながら手早くムニエルを食べ進めた。
――――――
食後のデザートとして各々が好きなものを食べていると、あずみがなにやら改まっている。なにを話すのか皆が息を飲んで見守っていた。
「さて、まずは神代。今回もご苦労だったな」
「ありがとうございます」
「して、おまえはしばらく休養のため身体が空く。そうだな?」
「まぁ、はい」
「――よし。で、おまえは食ったよな? な? 私の奢りで」
「……」
少し前からあずみの夫は単身赴任で他県で生活しているのだが、そこで露呈したのがあずみの生活力の低さだ。車の中が汚いのは知っていたが、まさか主だった家事を夫が担当していたとは予想外だった。
楓でさえ部屋は片付いているしなんとか生活できている。夕月に下支えされているのは否定できないが。
そんなあずみからの要求はひとつ。「部屋の掃除を手伝え」だった。
「おまえら全員食ったよな? な?」
「あー……私は大会近いから練習しないと」
「……私は……ジムの……おしごと」
「私はもちろん無理です。バイトとジム両方ありますし」
「よーーし!! では藍原と神代だな!!」
先に餌を与えて脅迫するとは本当に教師なのだろうか。そもそも掃除などひとりでやればいいのに、それすらできないとはどういうことなのだろうか。
平日学校が終わったらあずみに連行されるらしい。ただ、あくまで楓と陽の勉強会だ。しっかりと勉強して、そのついでに掃除するという建前だった。
楓はすでに諦めているが、陽はそうではないようで先ほどから必死にバイトを探している。
(そんな都合よくバイトなんか見つかるか! 逃がさねーぞ!)
「……あ! 先生やっぱ俺無理でした!」
「ほう。なんの用事だ?」
「生徒会の手伝いです。庶務の手伝いで助っ人募集していましたよね? あれやるつもりだったんです」
「……くっ、そうか、そうか生徒会か」
「ふざけんな陽!! 俺ひとりに腐海の掃除させんのか!?」
「腐海とか失礼なことを言うな!! では、神代頼むぞ!!」
楓も生徒会の手伝いをすると主張したが、すでに時遅し。あずみも楓だけは決して逃がすまいと必死だ。
結局は一週間あずみの手伝いをすることになってしまった。できれば夕食ぐらいは自宅で食べたいので「夕食ぐらい奢る」との提案は拒否する。そもそも家事ができない人と一緒の食卓など想像したくないし、最悪、楓が作るまであるのだ。
半ば強制的に話が纏まったところでお開きとなった。一応、祝勝会の名目だったはずが後味最悪で帰路につく。
「では、私はここで。また明日」
「……おやすみ……なさい」
「しっかり見張りお願いしますね夕月さん」
夕月はブンブンと首を縦に振った。
皆と別れると歩きながらあずみの部屋を想像した。車の中ですらあのレベルだったなら、部屋となると――。絵面がエグいのは想像に難くない。
「ていうかそんなんでよく夫婦やってんな」
「……なんと……失礼な」
あずみの夫に同情した。




