198 環境の違い
「結果的には圧倒的なKOだったわけですが次の対戦は――」
「別に誰でもいいです」
「さすが日本の至宝。期待していますね!」
「至宝とか大袈裟ですが、がんばります」
控室には記者が二人ほど待っていていくつか質問された。受け答えはあまり好きではないが、これも仕方のないことだろう。プロとしての仕事という自覚はある。
とはいえ、不快な質問はなかったのがありがたく、メディアが皆こうだったら楽なのにと思った。月刊紙の記者だったが二人とももうすぐ還暦らしい。男女で長年コンビを組んできたようで、取材も慣れたものだった。
ひと通り質問を終えると女性の方の記者が静かに話し始めた。
「私の初めての取材は天童明さんでした。今日の神代さんの試合を見ていると、本当に彼が帰ってきたのかと錯覚してしまいました。負けん気の強さからパンチまでそっくりです」
「……そうですか」
「同じようなことを何度も言われて嫌になりますか?」
「……」
何度も聞いたセリフで嫌になるのが恒例なのだが、朗らかに笑う目の前の記者には不思議と嫌悪感が湧かない。
「ふふっ。そんなふうに困った顔もそっくりです。だからなんでしょうね。皆が神代さんに期待してしまうのは」
「……」
「天童明さんが亡くなったと聞いた時、頭が真っ白になりました。記者としてはもちろんですが、大ファンだったので。将来は彼が育てたボクサーが彼自身を超えていく――。私はそんな未来を想像していました」
「天童明が教育側、つまりトレーナー的な? ……ははは」
「そりゃないな」と思って笑う。直接指導を受けた身としては、トレーナーとしては絶望的にセンスがないと思った。本人も向いていないと言っていたので間違いなかったのだろう。
記者はそんな楓に柔らかな眼差しを向ける。きっと楓が笑ってしまった理由を理解しているのだ。それだけで明とどれだけ親密だったのかが窺えた。
「「俺は絶対に指導者は向いていない。だからそれは諦めて」と言われましたね」
「でしょうね」
「「なにが楽しくて自分より強いやつ作るんですか。弟子が自分より実績残すとか悔しいじゃないですか」とも」
「でしょうね」
いかにも明が言いそうな言葉に堪え切れずに吹き出してしまう。
「ですが――。彼はきちんと次を育てていました。年甲斐もなく胸が高鳴っているんです。まさかまた一緒に夢を追えるとは……。あ、長くなってしまってごめんなさいね。次の試合も期待しています!」
記者の名刺など受け取るのは初めてなのだが“ボクシングマ○ジン 愛田恵子“と書かれたものを手渡された。事務所の連絡先の下には、個人の携帯番号も記載されている。
楓が試合後ということに気を遣ってくれたようで、手短に挨拶を済ませると退室していった。結はずっと無言でそのやり取りを見ていたのだが、楓が名刺を受け取ったことに衝撃を受けている。
なにせ今までは記者の対応は基本会長か結が主導で、嫌がる楓の代わりに名刺交換もしていた。
(……毛並みが違う記者もいるんだな)
「感じの良い人でしたね」
「そうだな」
「あのような人は大切にした方がいいと思います」
「……あぁ」
バンテージを外しながら結と話していると、ぞろぞろと見知った顔が控室に入ってきた。夕月を先頭とした学校の連中で、少し後ろの方で笑顔の校長が手を振っている。
小走りで駆け寄ってきた夕月は、楓の頬に触れたかと思うと絆創膏を何枚か貼っていく。不気味な猫の柄のそれは、驚くほど楓の顔にはミスマッチだった。
「…………よし……完成」
「よし、じゃねーんだよ」
「あっはっは!! ぼっこぼこにされてんのー!! ざまぁー!!」
「ちっ。バッティングのせいだろうが」
「はいはい言い訳言い訳」
にやけ顔の響の顔面に一発入れたくなったが堪える。
「結果だけ見ると圧勝だったが苦戦したな神代。とりあえずおめでとう!」
「私も生でボクシング見たのは初めてだったが、やはり画面越しとは違うね!」
校長やあずみ、クラスメイト達から賛辞を送られさすがに恥ずかしくなってきた。控室と言っても個室という訳ではなく他の選手やその関係者もいて、見せ物のようになっているのが耐えられなかった。
地位が上がれば待遇も良くなるだろうが、新人のうちなこんなものだ。無駄に目立ってしまうのは、それだけ楓が注目されている証でもある。
「……楓……おつかれ……さま…………かっこ良かった……よ?」
「おう」
体躯に似合わないゴツいカメラを構えた夕月は、正面から、横から、様々な角度から楓を撮っている。どうせ止めても無駄なので好きにさせた。
結果オーライとはいえ不甲斐ない試合だったと思う。事実、試合中もやばい場面はあったが、その都度意識にすっと入り込んでくる声があった。そのおかけでこうして勝利することができた。
どれだけ歓声が大きくても夕月の声だけは聞き分ける自信がある。
(普段は大人しいくせしてあんな大声で――。思い出すと情けなくてなるな)
普段は口に出すことなどあり得ないが、楓だってできることなら夕月には誇れるようなカッコいい姿を見せたいと思っている。以前は自分さえ良ければ無問題だったのだが、今は戦う理由も増えてきた。
家族。
応援してくれるクラスメイトや教職員。
ジムメイト。徐々に増えてきた自分のファン。
そして夕月――。
あとはほんの少しだけ天童明のため。
ひとつ試合を勝つ度に思い知る不思議な感情は、険しかった楓の表情を少しずつ、少しずつ解している。
それが人間としての成長なのかボクサーとしての成長なのか――。楓自身は認めなくとも明のような人間に少しずつ近付いていく。だからこそ周りで見ている者は面白いし、その将来に大きな期待をしてしまう。
悪気は無いのだ。
楓を後継者として期待してしまうぐらい、天童明というチャンピオンは素晴らしいボクサーだった。極太に短く人生を終えた姿は、きっとファンやメディアの記憶から消えることはない。
(周りがどう言っても俺は俺だしな)
「よし、帰るか」
「……うむ」
楓の腕にしっかりとしがみついた夕月は、当然のように響達とは別行動のつもりでいるらしい。
「いや、おまえは別だからな? ほら響、連行しろ」
「夕月ちゃんは私達と一緒に帰るんだよー?」
「……覚えて……いろ……んぐぐ」
夕月は不吉な言葉を吐きながら響に引っ張られていった。部屋のドアを閉める直前、響は思い出したように一言残していく。
「ま、おめでと」
ひらひらと手だけ出してそう言うと、楓の反応を待たずにドアを閉めた。労いの言葉ぐらい素直に言えばいいのに、こんな形でしか伝えられなかったのは響なりの照れなのだろう。
傷の手当てをもう少し丁寧にしてから、荷物を纏めて会場を後にした。
◇ ◇ ◇
「お、ようやく来たか」
「イタタ」と軽く顔を押さえながら声を掛けてきたのは神原だった。病院直行かと思っていたが、自力で歩けるぐらいには無事だったらしい。
「まずは……はい」
「は?」
「見たらわかるでしょ? 握手だよ握手」
なにがなんだか分からないが、半ば無理やり右手を握られ、神原はにかっと笑った。
「なんですか? 反則打を平気とする人に話すことはありませんが?」
「こ、怖っ!!」
結は二人の間に立つようにして握手した手を振り払うと、仁王立ちして神原をじっと睨んでいる。
「待って! 謝るから! ほんと申し訳なかったって!」
「謝って済むことではないです! 反則打とはなぜ禁止されているか分かりますか? あってはならない事故を防ぐためなのですよ? それをあなたは!!」
「あー、会長。ちょっと結連れて先に行っててくれますか?」
「ちょっと! 神代くん!?」
別に神原を助けた訳ではないが、このまま話していても時間の無駄だと思ったので二人きりにしてもらった。自分から話すことは特にないのだが、どうも向こうは違うらしい。
神原は姿勢を正してからきっちりと頭を下げてきた。
「本当に申し訳なかった」
「別にいい。たいした怪我もしていないし。この怪我は反則打じゃなくあんたのパンチでできた傷だ。……なぜあんな汚いことを?」
「……うちのジムって同階級のチャンプがいるだろ?」
「そうだな」
「……脅されたんだ。会長とチャンプ二人に。指示に従わないとボクサーとしてのキャリアを潰すぞ、って」
奴等ならやりかねないと思った。神原のことなど捨て駒程度にしか思っていないのかもれないが、それにしてもやり方が汚なすぎる。
自分の手は汚さず、こうして新人を使い潰していくのだろう。きっとこれが初めてではなくて、被害者は神原の他にも多数いるのだと思う。
夕月の名前まで出してきたのは本当に腹が立つが、それが神原の本意でなかったのなら、いつまでも怒っているのも違う気がした。
「なるほど。あの会長ならやりかねない、か」
「俺は黒瀬ジム辞めるよ。……命令通りに戦わせておいて、負けてしまったら「本当に使えないやつだ」ってさ。酷いよ」
ジム選びさえ間違えていなければ、神原は新人王タイトルぐらいは獲っていたかもしれない。楓、彗とは僅かに年代がズレるので充分可能だったはずだ。
神原の行いは擁護できるものではない。だが、確かに過去の試合を見ても反則打を使用したのは今回が初めてだったので、指示されてやったというのは本当のことなのだろう。
(……まぁ、仕方ねぇのか)
結が怒っていたのは当たり前で、楓も同じような気持ちはある。だが、もう責める気にはならなかった。
「そうか、辞めるのか」
「うん。ついでにボクシングも辞めるつもり。……あんなパンチもらっちゃったら、ね。俺がどれだけ積み重ねても一発でチャラとか。色々察したし、もともと痛いの嫌だし」
なんと声を掛けていいのか分からず、とりあえず「そうか」としか言えなかった。
「ありがとう。最後が神代くんで良かった。ベルト取ってよね! 応援してるから!」
「おう」
「神代楓に駿河彗か。ほんと嫌な時代に産まれたなぁ。……あ! 小日向夕月って誰?」
「……名前しか知らなかったのかよ」
「じゃあね」と軽く手を上げると神原はタクシーに乗り込んだ。試合後の選手をひとりで帰らせるとは、どれだけ舐めたジムなのだろうか。
遠ざかっていくタクシーを眺めていたら、いつのまにか隣に結が立っている。
「神原さん、辞めるんですね」
「盗み聞きはどうかと思うが」
「声が勝手に耳に入ってきただけです。さぁ帰りましょう」
駅に着き新幹線に乗り込むと、張り詰めていた糸が切れたように眠りについた。




