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179 無知なのは一人だけ

「こんなところでしょうか」

「思ったより早く終わったなぁ」


 陽は両腕を上に伸ばしながら欠伸をしている。結局引っ越し作業は二時間もかからずに終わった。そもそも荷物が少ないので、むしろ軽トラで移動の方や、役所での手続きの方が時間を取られたかもしれない。


 皆昼食は各々で軽く取ったが、夕食は引っ越し終了ということで蕎麦を食べることにした。光は日用品の買い出しで出掛けている。色々周ってくるらしいので、もう少し時間がかかるかもしれない。


「光遅いな。俺ちょっと身体動かすついでに外行ってくるわ」

「あ、それなら俺も行く! ちょっと用事できたし」

「ん? 夜食べていかないのか?」

「そうしたいんだけど響に呼び出し食らってさぁ。強制召集な訳よ。光さんにはよろしく言っといて!」

「慌ただしい奴だな」

「では、今度またゆっくりいらしてください」


 楓と陽は共に外へと出た。いつのまにか空は群青色に染まり、間もなく日が沈みそうだ。乾いた空気の風が心地良く、本日の短夜は天気予報どおりの星月夜になりそうだ。


 隣を歩く陽は、半ば強制的呼び出されたという割には機嫌が良い。


「なんかおまえ呼び出されたにしては機嫌いいな」

「ん? あー、それは響からメールきてさ――」

「メール?」

「ん? あ、あぁ! なんでもない! ただの呼び出しメールだ! うん!」


 陽が挙動不審な気持ち悪い動きをしているので、うわぁといった目で見つめた。そんな楓の様子を見ても陽の態度は変わらない。


「じゃ、俺はここで」

「おう。じゃあな」


 二手に別れようとした時、背後から再び話し掛けられる。


「楓!」

「ん? どうした?」


 走り出そうとする足をピタリと止めると、陽の方へと振り返った。


「良かったな!!」

「いきなりどうした?」


 夕月の件がひと段落したからという意味に捉えたが、どうも少し様子がおかしいようにも見える。終わってホッとしたというよりは、何か楽しい事があったような喜び方な気がした。


 不思議そうに首を傾げる楓を見て、なぜか陽は満足気な表情を見せる。


「まぁひと段落だしな。うまくいってよかったよ」

「とりあえずもう帰った方がいいぞ! なるべく急いで。なんなら全力疾走で!」

「?」

「いいから行けって!」

「だからなんでーー」

「行けぃ!」


 ーー意味がわからない。


 早く帰れと言って聞かない陽にイライラしつつ、これ以上話しても無駄だと思ったので大人しくその場を後にする。次に会った時は無条件で殴ってやろうと心に決めた。


(結の家までは……十分ぐらいか)


 そのまま向かってもいいのだが、せっかくなら光が通りそうな道を行ってみることにする。運が良ければ鉢合うこともあるだろう。少し遠回りになってしまうが、それもロードワークだと思えば何も問題はない。


 辺りが薄暗くなり街灯がつき始めた。足元が確認できるような大通りを選んで走っていたので、若干暗くなったところで大丈夫そうだ。


(とは言ってもさすがに暗くなってきたな)


 買い物しそうな所は一通り回り終えたので、大人しく帰路につくことにした。陽の命令を無視して道草を食ってしまった形だが気にはしない。


 そうこうしていると見慣れた自転車が見えてきた。カゴにこれでもかと詰め込んで重くなったのか、少しヨロヨロしていて見ていて危なっかしい。楓は走るスピードを上げると光に並走する。


「よう。荷物重そうだな」

「ーーッ!! ……あ」


 楓の声に一瞬ビクッと反応した光は、無言で隣を見つめている。そしてボッと音が出そうなぐらいに顔を真っ赤にしたかと思うと、楓を置き去りに全力で自転車を漕ぎ始めた。


「お、おい!」


 呆気にとられた楓だったが変にやる気が湧いてくる。その場で軽く屈伸をし両脚のアキレス腱を伸ばすと、全速力で走り始めた。ちなみに楓の100mのタイムは11秒フラット、調子が良いと10秒台も出たりする。いずれにしろ男子高校生としては早い方だろう。


(ほー、おまえは自転車でも俺に勝てたことあったか?)


 何度も一緒にロードワークはしているのだ。競争したことだって数え切れないぐらいあり、その中でも負けたことは一度もない。


 楓は思い切り地面を蹴って走り出した。すでに100m以上離れた自転車との距離はみるみるうちに縮まっていき、数十秒後には完全に横に並んでしまう。


「はぁはぁ!! おら! 追いついたぞ!」

「ひぃ」


「なにこいつ信じられない」とでも言いたそうな光。楓に張り合って再び全力で漕ぎ始めたものの、次第にスピードは落ちていき、ついには楓にとって丁度良いぐらの速さになってしまった。


「だいたい、はぁはぁ。おまえが俺に勝ったこと、はぁはぁ。一度もねぇだろうが」

「……」


 自転車の前に回り込むと、ゆっくりと光を制止した。


「ま、少しはいい練習にはなったな。ほら、それよこせ」

「……あ」


 強引に自転車のカゴの中に入っている袋を取り出す。飲料なども入っているようで、見た目よりずっと重量があった。走りながらヨロけてしまうのも無理がない重さだろう。


「……あ……ありがとう」

「気にすんな。ていうか今朝から元気ねぇな。どうした? おまえもっとウザかっただろ?」

「…………ウザい……だと?」


 気が付くと完全に日は沈み、隣に立っている光の表情は確認できない。声色からして怒ってはいないようなので、楓は冗談混じりに話し続けた。


「まぁそっちの方が夕月っぽくて安心するけどな。話し下手な方が俺は好きだ。あ、別に(おまえ)が嫌いって訳じゃねぇからな?」

「……す……好き?」

「ん? あぁそうだが?」

「……世界一……可愛い?」

「ん? なんか言ったか?」

「……なんでも……ない」


 一言だけそう漏らすとあとは沈黙してしまった。ゆっくりとはいえ走りながら話すのはなかなかキツいので、そこからは二人とも無言で家へと向かう。





 ◇ ◇ ◇





「思っていたより遅かったので少し心配しました。神代くんと一緒だったんですね」


 アパートの前でしゃがんでいた結は、二人の姿が見えるとゆっくりと立ち上がり、持っていたスマホを操作しながら近付いてきた。そしてスマホの画面を光に向ける。楓には見えない角度だったので、中身を知ることはできなかった。


「ーーと、響さんからメールをいただいたのですが……。その様子だと本当みたいですね。良かった」


 光は何も言わずに結に向かって頭を下げる。


「気にしないでください。ところでーー。神代くんは変わらずでしたか?」


 光は軽く首を縦に振った。


「神代くん。私はとても残念です。いえ、色々と残念なのは神代くんですが」

「は? いきなり何言ってんだ。喧嘩売ってんのか?」


 結の深い溜息の意味は全く分からない。特に何かをやらかしてしまったつもりはないし、なんなら光を心配して帰り道に合流したのはファインプレーだとまで思っている。だが、結は「だめだこいつ」といった様に首を横に振っていた。


「俺が何をした?」

「何もしていないのが悪いんですよ」

「は?」

「……まぁいいです。それよりーー。今日は家の整理があるので夕月さーー、光さんは神代くんの家に泊まってもらえますか?」

「は? まだ飯食ってねぇし、片付けなら一緒にやった方が早いだろ」

「光さんは神代くんの家に泊まってもらえますか?」

「いやだからーー」

「光さんは神代くんの家に泊まってもらえますか?」

「なんだってんだちくしょう!」


 壊れた機械のようにそう繰り返す結は、憐んだような瞳でじっと楓を見つめている。光はと言うと特に何か言う訳でもなく、楓と結を見てオロオロしているようだった。


 だが、楓としてはできれば光を家には泊めたくないというのが本音だ。勿論、嫌っている訳ではないし、困っているのなら考えなくもない。だが、身体が夕月とはいっても中身は光のままだと思うと、なんだか浮気をしているような気分になってしまう気がした。だからできることなら、夕月の人格が戻ってくるまでは結の家で生活してもらいたい。


「なんていうか。その、ほら、外見が夕月でも今は中身は違うだろ? だからよ……なんか浮気してるみたいになって気持ち悪いんだよ」

「あー、そういうことですか。それなら心配いりませ――」


 光は結の口を必死に押さえると、目を潤ませながらブンブンと首を横に振っている。


「あ? なんだよ。言いたいことあるなら最後まで言えよ」

「と、とにかく! 今日は神代くんのところに泊めてあげてください! 晩御飯もそちらでどうぞ! 光さんいい加減離して……って力強ッ!」


 光はいつのまにか結の両腕を取ってしまい、壁ドンどのような体勢になっていた。そんな光の頭を背後から鷲掴みにすると、軽く引っ張って結から引き剥がしてやる。


「まぁよくわからんけどわかった。とりあえず一晩だけな」

「わかってくれればいいです。それと女の子の頭部を鷲掴みはどうかと思いますよ」

「こいつ思ってるより力強いし、頑丈だから平気だ」

「…………酷い」


 ぼそりと恨み言が聞こえてきた。楓を振り払った光は小走りで再び結に駆け寄ると、ちょいちょいと手招きしてから顔を寄せ、耳元で何か話している。


「……結さん……色々と……ありがとう…………ごめんなさい」

「それだとお礼言いたいのか謝りたいのかわかりませんね」

「……どっちも」

「いえいえ。私も妹ができるみたいで嬉しいですし。あ、というかお礼なら一番最初は神代くんにですよ? 今回凄く必死だったんですから。愛されていますね」

「……」


 後ろから二人の姿を眺めていたら、光の耳がどんどん朱色に染まっていく。突然動き出した光は勢いよく自転車に跨ると、脇目もふらずに漕ぎ出した。方向は勿論楓のアパートに向かってだ。


「おまえ何言ったんだ? 俺もう今日はアレ追いかける気力ないぞ?」

「まぁまぁ。行き先分かってるしいいじゃないですか」

「なんなんだよ。おまえら今日はなんかおかしいぞ」

「いえ、だって悪いのは神代くんですし」

「だから俺は何もしてねぇ!」


 すでに光の後ろ姿は確認できない。どれだけ飛ばしているのだろうか。楓は大きく溜息をついてから、手に持っていた重い袋を結に差し出す。それを受け取った結は、笑顔でしっしっと手を振っている。早く行けということらしい。


「あ、そうだ。神代くん」

「なんだよ」

「良かったですね」

「陽といいおまえといいなんなんだ」


 スマホを持っていない楓が悪いのかもしれないが、どうやら楓以外は繋がっているようだ。


(この分だと響もか?)


「……そういえば俺もスマホ買うんだっけか」

「いいじゃないですか。便利ですよ?」

「本当はいらねぇよ。でも緊急事態の時はあった方が便利なのはわかったからな」

「なんか神代くんは普段はメールしても電話しても繋がらない気がしますね」

「許されるならそうしたいところだ」

「夕月さんは絶対許さないでしょうね」

「……はぁ」


 色々と考えていたら憂鬱になってくる。楓は重い足を動かして自宅へと向かった。

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