170 何度でも何度でも
遅くなってしまい申し訳ありません。体調の関係でなかなか執筆できずにおりました。
これから更新頻度を増やしていく予定です。
(新聞? 隣の部屋と間違えたのか?)
以前にも何度かあった。隣に住んでいるのは二十代半ばぐらいのフリーターが住んでおり、今時の若者には珍しく新聞を購読している。人は見かけによらないと思ったりしたものだ。
稀に間違って投函された事もあったが、朝早いとはいえ時間帯が若干違っていた。いずれにしろこの時間は普通ではない。
手に持ったグラスをグイと飲み干すと、皆を起こさないようシンクに静かに置いた。そして玄関に向かって歩き出す。ギシギシと床が軋む音がやけに大きく聞こえた。ドアの向こうに誰かいるのだろうか――。少しだけ身構える。
そしてポストに入っていたそれを手に取った。
「――ッ!!」
よく見覚えのあるものだ。大切な人と自分を繋げてくれた大事なものだ。表紙に描かれた不格好な″ウサギさん″はどこか寂しげに自分を見つめてくる。
「なんで――。なんで日記が」
少しだけ形の崩れたノートを急いで開くと、最後の方にクシャクシャになったページがある。それが目に入ってきて――。
「くそっ!!!!」
壊れるような勢いで玄関のドアを開けると、辺りを見渡す。どうやら誰かがいる気配はない。
(まだ二、三分だ! 追えば間に合う!)
急いで靴を履くと、上着を羽織るのも無視して走り出した。向かう方向は分かっている。夕月の家の方向だ。
転びそうなほどに勢いよく階段を駆け下りると、前を向いて道の先を確認する。チカチカした街灯に照らされた人影を見つけた。
息をするのも忘れながら、必死にその人物の背を追った。人違いの可能性など考えるまでもなく、背後から肩を掴んで強引に制止する。
「夕月!?」
「……神代楓さん? ――そうですか。起きていましたか」
ゆったりした口調で振り返った人物は、夕月ではなかった。背丈は夕月と同じぐらいだが、年齢はおそらく五十代。会ったことも話したこともない人物だ。
大きく目を見開いた楓は、乱れた呼吸を整えながら肩を掴んだ手を下ろした。
聞きたいことが山ほどあるはずなのに、なぜかうまく言葉が出てこない。そんな楓を見て目の前の女性は優しく微笑む。皺を深くしたその表情を見て、少しだけ心が落ち着いた。
まるで楓から何か話すのを待っているかのように、じっとその場で立ったままで見つめてくる。
「あの、これ、あなたが?」
「はい。夕月さんに頼まれたものです。誰もわからないうちにこっそり置いてきてと頼まれました」
「なんでそんなっ!!」
悲痛な楓の表情を見て、その女性は辛そうに視線を下ろした。
「私は小日向様の家政婦をやっています。いえ、それは正確ではありませんね。やらせていただきました」
「……家政婦の、人?」
「そうです。平たく言うとメイドですね。……とはいえ、それももう終わりましたが」
「え?」
「クビです」
――夕月の家のメイド?
――なんでメイドが?
――メイドだったら夕月の家族寄りの人間か?
理解が追いつかないながらも、必死に頭を回転させた。小日向のメイドということは、つまりはあの父親や兄の息がかかった人間という可能性もある。
楓はキッと目つきを鋭くすると、敵意を隠さずに目の前の相手を睨んだ。相手に少しでも配慮するような余裕は、残念ながら今の楓に望むのは難しい。
そんな楓の胸の内を理解しているのか、女性は一瞬だけ驚いたような様子を見せたが、すぐに満面の笑みに変わった。呆気に取られたのは楓の方だ。どうしていいかわからずにただただ困惑する。
だが、なんとなく分かったこともある。少なくとも目の前の人物は敵ではない――。穏やかでどこか品のある笑顔を見ていると、そう感じざるを得なかった。
きっと普段はもっとかしこまった話し方をするのだろう。そんな雰囲気を持った女性だった。それなのに楓に合わせてある程度砕けた接し方をしてくる。自分への配慮が見てとれた。
「聞いていた通りですね。まっすぐで芯があって、なにより――。優しい」
「……すみません」
「なんで謝るんですか? あなたが怒っているということは、夕月さんの境遇を理解しているからこそでしょう?」
「あなたは夕月の味方ってことでいいんですか?」
「はい。何にもできない役立たずなメイドですけどね……。結局最後まで夕月さんの力になれなかった」
「あいつの今の状況について教えてくれませんか?」
楓が頭を下げたのとほぼ同時だろうか、女性の両目からは静かに涙が溢れ落ちた。強く閉じた瞳から横に伸びた皺を深くし、同じように閉じた唇は血色が引いて白くなっている。
震える唇をゆっくりと開くと、やはり声色も少しだけ震えていた。
「話したいことは山ほどあります。ずっと――。夕月さんのご両親やお兄さまより、ずっと私は夕月さんを側で見てきたつもりです。夕月さんの中身は複雑です。きっと神代さんが考えているよりもずっと……」
「……」
――あぁ、きっとこの人がいたから夕月はギリギリでやってこれたんだ。
夕月が本当に一人だったのなら、とっくに押しつぶされていてもおかしはなかったはずなのだ。
もしかするとメイドとしての気遣いは、些細なものだったのかもしれない。それでも殺伐とした家の中で、悪意のない視線があったということが、夕月にとってどれだけ支えになっていただろうか。
――目の前の女性は夕月のために泣いているんだ。
そう分かったら肩の力がスッと抜け落ちた。
「夕月さんは今も家にいます。離れに閉じこもったままです」
「それで代わりに交換日記を?」
「はい。そっと分からないように神代さんの家のポストに入れて欲しい、と」
「ちっ……あのバカ」
人はきっと一人では生きてはいけないのだ。自分一人でやってるつもりでも、誰かに支えられて今がある。
一人で強くなると誓いを立てて、でもそれだってやはり一人ではなくて――。それをすんなり受け入れるのは簡単ではなかったが、少女はその壁をあっさり超えてきた。いや超えてきてくれた。
一人増え、また一人増え。気がつくと周囲は笑い声で包まれている。きっとそれは夕月だって同じなのだろう。
だからこそ分かる。いや、きっと今この瞬間、楓にしか分からない。
「夕月は今部屋にいるんですね?」
「はい。言い難いのですが――。お父様と結構な言い争いになってしまいまして。外から鍵をかけられている状態です。でも捲し立てるように怒鳴られ続けて……あんなの自分の子供にする事じゃ」
きっとこの女性は精一杯夕月を守ってくれたはずだ。だからクビになったと言ったのだ。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「いえ、あんな非人道的な家なんていつ辞めてもいいつもりの覚悟でしたので。唯一気がかりなのは夕月さんです」
聞きたい事は山ほどあるが、そんな事は今は後回しだ。一番重要な事を聞かなくてはならない。
「夕月の……閉じ込めらているあの建物は抜けられる窓は残っていましたか?」
「いえ、玄関は当然閉じていて、窓冬囲いが残っているうえ本邸から丸見えですし――。あっ!」
「トイレは!?」
「夕月さんのサイズだと通れます! しかも本邸からも死角です!」
「ちっ! すみません!! 俺行く所があるので失礼します!!」
「えっ? どこに!?」
目の前の女性への返答を無視して走り出す。向かうのはあそこだ。あの場所以外にないはずだ。
楓と夕月が初めて会ったあの橋――。
(夕月が今少しでも助けを求めているのなら、他の場所じゃない。きっとあそこだ!)
自分の杞憂であってくれればいい。間違っていたのならバカみたいに空回りしたボクサーが、ひたすらに走り回っただけの笑い話だ。
――後悔してたまるか!!
薄暗い中、街灯も少なく車の往来もゼロに近い。足下さえ覚束ないが、それでもひたすらに走った。
肺が悲鳴を上げて視界がチカチカする。何度か縁石に足をぶつけて痛みを感じても、構わず走り続けた。
ようやく橋の手前の灯が見えてきて、さらに近付いていくと橋の上の様子が鮮明になった。
「――ッ!!」
そこに向かって一目散に走り寄り、そしてギリギリで手首を掴んだ。あの時と全く同じ状況だ。
「はぁはぁ、間に合った!! 間に合ったぞクソがッ!!!!」
「……か……え…………で?」
「なにしてんだてめえは!! 約束破ってんじゃねえ!!」
「……」
「てめえがどれだけ死にたくても、絶対許さねえからな! 何回だって繰り返すぞ俺は!」
「……」
見上げてくる瞳には力がなく、生気も感じらない。
「クソッ!」
夕月は全身の力を抜いているようで、疲労困憊の楓では手首を掴んで堪えるので精一杯だ。それでもギリギリ右手に力を込める。たとえ夕月の手首が折れてしまっても離すつもりはない。
「おい!! 早くおまえも掴め!!」
「……」
「聞こえてんだろ!?」
「……」
掴んだ時に右肩を脱臼したようで、痛みからか右手の感覚がなくなってきた。
(くっ! 感覚が!)
離すつもりはないが、右手からは少しずつ力が抜けていく。もう時間の問題と思ったその時――。
「間に合っちゃうんだよなあ!! 俺マジ神懸かってる!!」
「間に合った!! 間に合ったよ夕月ちゃん!! バカッ!!」
楓を挟むように隣にきた陽と響は、身を乗り出して夕月の腕を掴んでいた。




