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168 住人の足りない部屋

いつも読んでいただきありがとうございます。少し重めの話が続きます。

「なにがあったんですか?」


 楓のアパート、共有スペースの階段に腰を下ろしていた結は、楓達の姿を見て驚いたように立ち上がった。いつものような動きやすいジャージ姿の彼女は、足早に駆け寄ってくる。


 デートのお誘いなどあり得ないので、大方ボクシング関連の話をするために待っていたのだろう。だが、楓の様子を確認した途端、本題は頭から消え去ってしまったらしい。


「まさかとは思いますが、喧嘩ですか?」

「……」


 ボクサーに喧嘩などご法度だ。ライセンス剥奪どころか警察のお世話になってしまう。基本的に結は楓を信頼しているが、今の楓の様子は――。人を殺してしまいそうなぐらいに殺気立っているようにも思えた。


 結の声は届いていないようで、少し後に控えている響に同じ質問をする。


「響さん。なにがあったんですか?」

「えっと、ちょっと色々あって……。とりあえず楓の部屋に行きません?」

「……わかりました」


 空気の重さとその場に夕月がいないことで、結も多少は察したようだった。言われるがままに楓達に続き、四人は楓の部屋に入る。


 高校生の男の一人暮らし、それに加えてひたすら汗をかくボクサーの部屋なのだから、汗臭いと言われても仕方がない。にも関わらず、楓の部屋は女子特有の優しい香りさえ漂っている。


 だが、その香りの主はここにはいないーー。


 四人はリビングで各々のスペースを見つけて座ると、しばし無言になった。


「相変わらず掃除のよく行き届いた部屋ですね」

「……」


 楓は何気ない結の一言にピクリと反応する。


「……不思議なものですね。夕月さんはここにいないのに、そこの壁からひょっこり顔を出してきそうな気がするぐらいです」

「夕月は――」

「なにがあったんですか?」


 楓が話そうとするのを制して、結は静かに楓をじっと見つめる。楓にとってはそれは不思議な圧力だった。早く話せと急かしてくる訳でもなく、怒っている訳でもなく呆れている訳でもない。


 強いて言えば″私も力になりたい″だろうか。そんな優しい瞳に射抜かれて、楓は無意識に視線を逸らした。


「夕月さんの話し方、人との距離感。他にも色々ありますがずっと気になっていました」

「それはーー」

「話してもらえませんか? もしかすると力になれるかもしれません。…………いえ、違いますね。力になりたいんです。私も夕月さんが好きですから」


 陽と響は二人のやり取りに一切口を挟まず、じっと見つめていた。


「おまえに話したところでーー」

「楓、やめろよ。それはただの八つ当たりだ。かっこ悪いぞ」

「…………」


 さすがに黙っていられなくなった陽が口を開く。


 そこからまた数分、再び室内に沈黙が流れた。時を刻む機械的な音だけが部屋の中に響く。


「……初めて見たんだよ。あいつのあんな顔。()()()とは全然違ったんだ。″もうだめ″って叫んでる気がした」

()()()とは?」

「あいつが自殺しようとした時だ」

「……え? 待ってください。夕月さんが自殺?」

「ああ、橋から飛び降りようとしていたところを俺が助けた。ギリギリでな」

「……自殺、ですか」


 そこから一時間ほどで楓が知っている夕月の事を話していった。


夕月自身の事、そして家族の事。中には陽や響ですらまだ知らない事もあったようで、楓が質問攻めされる場面も多々あった。


 一通り話し終えたところで、結から意外な提案をされる。


「……なるほど。では、響さんではなく私が夕月さんに電話してみましょう」

「え? どうしてですか?」

「夕月さんは家族に異常な程嫌われている。でも今日はお父さんから連絡が来て、しかも迎えにまで来た。これで合っていますか?」

「はい。そうですけど……」

「さらに夕月さんの家はお金持ちなんですよね?」

「やはりーー」


 結は口元に指を当ててなにやら考えている。少し経つと一通り考えが纏まったのか、今度は楓に話し掛けてきた。


「少し休憩にしませんか? 神代くん何か飲み物ありますか?」

「……コーヒーとお茶、ミネラルウォーターぐらいなら」

「炭酸水がいいですね。申し訳ありませんが散歩ついでに買ってきてくれませんか? 神代くんも少し頭を冷やした方がいいと思いますしーー。あの……藍原さん」


 結はちらりと陽に目配せをすると、陽はすぐに察したのか勢いよく立ち上がり、楓の腕を掴んでグイグイと引っ張る。場が一変するような元気な声色で、わざとらしくおどけてみせた。


「よーし!! 楓ほら行くぞ!! 俺とコンビニデートだ!!」

「は? 今はそんな場合じゃーー」

「うるせえ!! 結さんが干からびたらおまえのせいだぞ!? 行くぞほら!!」

「おい! 分かった! 行くから離せ!!」

「じゃあ行ってきまーす!!」

「ちっ、なんで俺がこんな事を」


 陽に強制連行される形で二人は外に出て行く。部屋に残ったのは結と響の二人のみーー。


「……楓に聞かれたら都合悪いんですか?」

「おそらくは」


 結は冷静に淡々と語り始めた。





 ◇ ◇ ◇





「それにしても結さんって本当に美人だよなあ」

「響に殴られるぞ?」

「楓は密告とかセコイ事はしないからだいじょーーぶっ!」


 大きめのスーパーの袋を二人で一つずつ持ちながら、陽は「でも響が世界一」と楽しそうに笑っている。


 結から頼まれたおつかいは近くのコンビニで済むはずだったが、陽からの後出し提案によって少し離れたスーパーまでやってきた。場合によってはこのまま結も響も泊まっていく事も考えられるため、それ相応の準備が必要という訳だ。


 すでに響には陽から連絡しているようで、嫌でも付き合わなければいけなくなってしまった。


「楓は結さんと響どっちが可愛いと思う?」

「は? それなら結だろ」

「よし。響に密告しておく」

「セコイのはてめえじゃねえか」


「ははは! そうかも!」と悪びれる様子もなく、手に持ったレジ袋をブンブンと振り回している。その姿が犬が尻尾を振っている絵と重なって、楓も自然と笑みが零れた。


(犬かよ)


 フラフラしながら少し前を歩く陽の背中を、レジ袋を持っていない左手で軽く突いてみる。勢いよく振り返った陽は「なんだ? やるのか?」と拳を構え始めた。


「おまえはやっぱりバカだ。アホだ。マヌケだ」

「悪口の語彙力低っ!」

「………………でもーー。ありがとな」

「ん? なんか言ったー!? その小声は夕月さんの真似か? 惚気か?」


「くだらねえ」と無視して前を歩き始める。


 陽のおかげか夜風のおかげか。まだ充分とは言えないものの、普段の冷静さが幾らか戻った気がした。

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