13 天才と原石
今回はシリアス回です。
楓くんの過去になります。
「さて、これから何すっかなぁ。禁欲長かったからはっちゃけねえと」
病院から出たこの男は天童明。フェザー級WBAタイトル14度防衛。後にWBCタイトル獲得。統一世界王者となる。
だが、その後は網膜剥離により引退を余儀なくされた。27戦27勝26KO無敗。圧倒的な強さを見せつけたままリングを去った。
日本人最強の呼び声が高かったこの男は、2階級制覇、3階級制覇と大きな期待を寄せられていたため、引退を聞いた時は周囲の失望は凄かった。
網膜剥離も今では手術である程度視力は回復する。制限はあるがリングにも戻れる。
だがそれは明のプライドが許さなかった。自分はあくまで最強。不完全な姿を晒すぐらいならいっそ引退だと潔く身を引いた。
そんな明は暇を持て余し、公園のベンチに座って今後のことを考えていた。
(まぁ指導者とかが妥当か。俺に指導させたら壊れそうで笑えるが。それも悪くねえ)
立ち上がり軽く拳を突き出す。一度始めたら思いのほか乗ってきてしまった。ワンツーを繰り返す。
周囲の視線を感じるがそんなものは関係無い。ここは自分だけの世界、気ままに拳を振るう。
「ねぇ、あの人なんで右手だけ動かしてるの?」
「素人なんだろ? 笑えるよな」
周囲からの嘲笑が聞こえてきた。遠目に見たシャドーは素人では見えないのだろう。グローブ無しだから尚更だ。
(ふん、凡人どもが)
そんな声も無視しつつシャドーを続けていたら不意に話しかけられた。
「なぁ、おっさんの左むちゃくちゃ早いな。ボクサーなのか?」
「なっ!? お、おまえ見えるのか!? 何歳だ?」
「8歳だよ。つーかブンブンうるせえんだけど」
少年は一つ離れたベンチで読書をしていたらしい。読んでいた本をベンチに置き話しかけてきたようだ。
明は辺りを見回し落ちていた野球ボールを手に取った。そこにマジックで何かを書く。少年と少し距離を取ると「おい、取れ」と一言。軽くボールを投げた。
少年は両手でそのボールをキャッチ。直後に口を開いた。
「誰がクソガキだよ。ふざけんなおっさん」
「……やっぱり見えてんのか。てめえ名前は?」
「楓だ。神代楓」
傍若無人な態度の楓を見て、明は思わず吹き出す。目の前の少年はまるでボクサーになるために産まれてきたように見えた。性格も間違いなく向いている。思わず笑みが溢れる。
「何笑ってんだよ、気持ち悪いぞ」
「はっはっは! おもしれぇ!! なぁクソガキ、おまえボクシングやってみないか?」
「は? なんで俺がそんなことを」
明は左手を楓の顔に向けて突き出す。もちろん威力は抑えている。
頭を傾けるとそれを見事に避けて見せた。
「は…はははっ! これが証拠だよクソガキ。おまえは愛されて産まれてきた」
「当たったら痛いから避けただけだろうが。バカじゃねえの?」
明に強く勧められて渋々左ジャブを教わった。これが楓にとって最も大きな人生の転機。そんなことを知る由も無い本人は言われるがままに左を振るう。
力を込めすぎてはいけない。最短距離をノーモーションで走る左はボクシングで一番重要なことかもしれない。
翌日からも楓は学校帰りに公園に立ち寄った。名前も知らない奇妙なおっさんは嬉々と楓に指導を繰り返した。ストレート、フック、アッパー、ボディ、一通りのパンチを教わる。ミットまで用意していたのは軽く引いた。
今日もまた拳を振っている。
「なぁおっさん。おっさんの名前なんていうんだ?」
「あ? 俺か? 言ってないっけか?」
「キモいボクシングマニアってイメージしかねえぞ」
「言うじゃねえかクソガキ。まぁマニアっていうのは間違ってねえかもな。俺は天童明だ」
「ふーん」と何も気にしないあたり、明が元チャンプなどということは知らないのだろう。また、それを明かすつもりもなかった。
何度会っただろうか。季節は夏から秋に変わろうとしていた。今日もまた二人だけの世界で拳のやり取りをしている。
「おい、だから打ち終わり気をつけろって言ってんだろうがタコ」
「あ? おっさんのヨボヨボパンチなんか当たるかよ」
「クソガキが」という言葉とは裏腹に明の心は昂ぶっている。教えれば教えるほど確信できる大器。教えるのがこれほど楽しいのは明自身も意外だった。
一瞬の隙を突き、楓の左アッパーが明の唇を掠めた。
「よし! 当たったぞおっさん」
「てめえ…調子乗ってるんじゃねえ!」
明の唇は軽く切れて血が滴る。
「血出てるぞ。ほら倒れろよ。KOだ」
「こんな傷程度で倒れるかよ! バカかてめえは!」
血を服で乱暴に拭き取る。
「おい、まだ終わってねえぞ! 打ってこいクソガキ」
「あ? 次は顔面にぶち込んでやるよ」
この時間がただただ明は幸福だった。思えばタイトルを取った時よりも楽しいのかもしれない。そんなばかな…と思ってみても心は止まらない。楽しくて仕方ないのだ。
その日の練習を終えて帰ろうとした時、些細な変化が見えた。
「おい、おっさん。唇の血、止まってねえぞ?」
「あん? お? そうだな。まぁ帰って治療すりゃいいだろ。じゃあな」
背を向けて歩き出した明の影がいつもより薄い気がした。
――次の日明は来なかった。
――その次の日も。
楓は教わった拳を振り続けた。晴れた日も、雨の日も、明はそのうち来るだろうと振り続けた。
季節は変わり雪が降ってきた。その日も楓は拳を振っていた。
「あなたが楓くん?」
「はい、そうですけど」
突然話しかけられた女性。どこかで見たような顔だ。
「息子からお願いされていたの。それを今日届けに来たわ」
「息子…もしかして明さんの?」
女性は首を縦に振る。取り出したのは液晶付きのDVDプレイヤー。
ベンチに座りそれを手に持つと電源を入れる。
映し出されたのは楓もよく知る人物。天童明。だが顔色は悪く帽子を被っている。まるで別人に見えた。
『ようクソガキ。これ見てるってことは俺は死んだんだな? まぁしかたねえよな。病気はどうしようもない…………なんて言うと思ってたろ? はっはっは! んなこと言うかよ!』
『俺がこれを撮ったのはてめえに言いたいことがあっただけだクソガキ。いいかよく聞け? てめえはムカつくクソガキだが才能がある。続けてみたら大成するかもしれねえぞ? まぁ俺より強くなるとかありえねえけどな』
『こんな人生でもな。悪くねえ。人生の最後におまえみたいなクソガキと知り合った。割と楽しかったぜ。だから最悪ではねえんだ。な?それほど悪くねえだろ?』
『せいぜい必死に生きろよ。天国…いや地獄から笑って見ててやるよ。じゃあなクソガキ。元気でやれ』
映像はそこで暗転した。だがまだ再生時間は残っている。
『……よう。まだ見てるか? 俺は本当におまえに会えてよかった』
そこで映像は途切れた。
薄々は感じていた。だが認めたくは無かった。毎日来ていればある日いきなり現れそうで。
だがそれもどうやら叶わないようだ。明はもういない。
涙を流せば楽になったかもしれない。でも泣いたら明への侮辱になる気がした。涙を流す代わりに拳を握り締めて必死に耐えた。
「あの子ね。いつもあなたの話をしていたわ。凄え奴に会ったって。クソガキだけどアレは日本の至宝になるって」
「遺志を継いで頑張ってなんて私は言わないわ。あなたの人生だもの。ただ、あの子がそう思っていたことを伝えたかったの」
ハンカチを目に当てて涙を流している。その姿を見ても頑なに楓は涙を流さない。握った右拳からは僅かに血が滴る。
「……おっさんは亡くなる間際どんな顔してましたか?」
「笑っていたわ」
やっぱりなと思った。あの人が悲壮な顔しながら死ぬなどありえない。
これからは明のためにボクシングを、なんてことを考えたら殴られて怒られそうだ。あくまで自分のために頑張れと言われる気がした。
楓は誓う。
"必ずチャンピオンになる。あの人と同じ位置に立つ。そこはどんな景色なのか、どんな気分なのか。墓の前で笑ってやるんだ。どうだ俺のほうが強えだろう!って"
握った拳の血はもう止まっていた。
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