99 お茶と思いやりと
射抜くような据わった冷たい瞳。
笑顔を見せているはずなのに、まるでマネキンのような無機質さ。慧は結に群がる男達を見て、鼻で笑うように見下す。その態度が男達を煽ったらしく、一斉に激昂して食ってかかる。
「やれやれ」とゆっくりと立ち上がった慧は、掴みかかろうとした男の腕を難なく躱す。その態度が火に油を注いだようで、次は殴りかかっていくのだが、三人がかりでも触れる事すらできない。
男達が息を切らしているのを見て、呆れるように口を開いた。
「運動不足だよそもそも。ナンパなんてしてる暇あったら、少しは努力してみたらどうかな?」
「おまえ……何者だよ! ……いや、その顔どこかで」
男達の一人が慧が誰なのか分かったらしく、一瞬で顔が青ざめていく。
「たしか駿河慧」
「よくわかったね。理解したらさっさと消えてくれるかな?」
「ボクサーは手出しできないだろ。ははっ! こりゃいいや!」
ニヤニヤした男達は再び慧を取り囲む。その様子を見た楓は、一応確認のために声を掛けた。
「手は必要か?」
「必要ないよ。ちょっと待ってて」
慧はその場でたーんたーんとステップを刻む。ノーガードなのは相変わらずのようだ。
「な、なんだよ! やる気か!?」
「僕はまだプロですらないしね」
「SNSとかで拡散してやるぞ!?」
「拡散する気が失せるぐらいに……ボコボコにしてあげる。知ってる? 恐怖ってね、刻まれるんだよ?」
「ひっ」
慧が動き始めようとしたその刹那、結が慧の前に立って制止する。結は無表情のままで、その顔から感情は読み取れない。
「姉さん邪魔だよ」
「邪魔なのはあなたのほうよ。余計な事をしないで。私は自分の事は自分で守れるわ」
結はファイティングポーズをとると、決して速くはないが、流れるように男達に迫っていく。一人の男の前で「パン!」と軽い音が鳴り響いた。
何が起こったのかわからないようだったが、それでも自身の鼻に痛みを感じた事で、顔を殴られた事を察したようだ。鼻血すら出ないほどの軽いパンチだったが、心を折るには十分だった。
「手加減はしています。ですが、これ以上絡んでくるなら次は本気で打ちます」
「……なんだよこの女。女のくせにボクシングやってんのか? あーあ、しらけちまったな! 帰ろうぜ!」
男達は結に興味をなくしたのか、教室から出ようとしていた。そんな男達の一人の腕を楓は捕まえた。
「な、なんだよ!」
「金」
「は?」
「タピオカなんたら……の支払いがまだだ」
「わ、わかったよ! くそ!」
しっかりと代金を徴収して、ようやく男達は解放された。その様子を見て堪えきれなかったのか、慧は声を出して笑い始めた。
「ははは! 元気そうだね楓くん!」
「おう。おまえも元気そうだな」
「姉さんが君のジムに入ったって聞いてね、ちょうど近くに来たから寄ってみたんだ。まさか姉さんがいるとは思わなかったけど」
「なんだよ、連れ戻しにきたのか?」
「まさか!」と慧は首を横に振った。結はどこ吹く風で席に座り直すと、コーヒーを片手にスマホを眺めている。目の前に想い人がいるのに、微塵も態度に出さないのは、さすが結といったところだろうか。
「慧、せっかく来たのだから座ったら?」
「そうだね。楓くん、僕は紅茶を」
「おう」
姉弟の会話を盗み聞きするつもりはない。だがやはり目立つ二人であるので、教室中がその動向に注目していた。しかし、二人の間に会話はなく、ただ向かい合わせに座っているだけだった。
(凄え空気作ってんなあの二人、近付いていいのか?)
躊躇している楓を見て、泉が助け舟を出した。紅茶の乗ったお盆を楓から受け取ると「私が行くわ」と近付いていく。
「お待たせしました。こちら紅茶になります」
「ありがとう」
「……少しいいですか?」
「ん? なにかな?」
不思議そうに首をかしげる慧を見て、泉はゆっくりと話し始めた。
「昔、何かの本で読んだのですが、イギリスでは紅茶というのは"接着剤"なんだそうです」
「接着剤?」
「紅茶は人と人を繋げるらしいですよ。喧嘩したり嫌な事があった人には"お茶と思いやり"を届けるんです」
「へー、面白い考えだね」
「そう考えると少し素敵でしょう? お二人がどういう姉弟関係なのかはわかりませんが、無言でお茶を飲むのは味気ないと思います。それに……」
「それに?」
「お二人はとても目立つので、緊張感のある空気を作られては周りが困ります。見ているほうは胃がキリキリしますよ」
「はは、ごめんね。別に僕達は喧嘩してる訳じゃないんだけども……」
それでも「営業妨害です」とまで言い切った泉の姿を見て、慧は大きく息を吐くと「まいったよ降参だ」と一笑した。
「わかっていただけたらよかったです。それでは失礼します」
一礼して泉は帰ってきた。
「す、凄えな委員長」
「そう? たいしたことないわ」
「いや、響だったら無理だ。顔引き攣らせて紅茶置いてくるロボットだろうよ」
「はぁ!? それはあんたも一緒でしょうが!!」
結のテーブルでは、たどたどしいながらも笑いながら話している姉弟の姿があった。二人の間にあるしこりはわからないが、その光景はとりあえず悪くない。
結の悲願成就への道は果てしない。それでも「慧が好き」と一途な想いさえ貫けたなら、どうにかなってしまうのではないかと思えてしまう。
いや、どうにかなってほしいな、と楓は思った。
"接着剤"の力は偉大だ。一時的なものかもしれないが、それでも姉弟の温かみのある空間は、他者が立ち入れない絆のようなものを感じた。
◇ ◇ ◇
「ありがとう美味しかったよ」
「おう」
「そこは「ありがとうございました」ぐらい言えないのかな」
「この喫茶店ではこのキャラで売ってるからな」
「売ってるもなにも……素の君じゃないか……」
呆れながら代金を手渡してきた。「じゃあ僕はこれで」と、立ち上がった時だった――。響と泉が近寄ってきた。
「ねぇ駿河さん、せっかくだからちょっと身体を動かしていきませんか?」
「ん? どういう意味かな?」
「私も今朝付き合わされたんだけどさ、ボクシングってマス(寸止め)の練習あるよね?」
泉の説明はこうだ。
せっかく有名人が来てくれたのだから、ついでに本物のボクサーの動きを見てみたい。クラスの皆も同じ事を感じており、しかも盛り上がるだろうから集客効果も見込める。
ようは、「客寄せパンダとして少し協力して!」ということだ。抜け目のない考え方が実に泉らしい。慧の返事を待たずに、隣の響は机をどかして教室の中央を空けるように指示している。
「はは、いい性格してるよ委員長さん」
「それはありがとう」
「相手は……考えるまでもないか。楓くんだね?」
「まぁ、マスならいいぞ」
結が楓の背中を軽く叩いた。どうやら耳を貸せということらしい。
「ちょうどいいですね。ぎゃふんと言わせてやってください」
「奇遇だな。俺も同じ事を考えてた」
教室の中央に丸くスペースが作られた。観戦者もぞろぞろと集まってきており、教室の中は慌ただしい雰囲気に包まれる。
そんな時、どこから聞きつけてきたのか、息を切らしながら走ってきた女性が一人――。
「はぁはぁはぁ……お前達はなにをしようとしている!!」
「あずみ先生か……残念だが中止だ委員長」
「なにを言っている!! スパーリングではなくマスなのだろう!? 私も見たいに決まっているだろう!! 水臭いぞ神代!!」
「おまえも観戦したいのかよ」と楓は心の中で突っ込む。とはいえ、これで障害はなくなった。
ざわついた室内で二人は準備を始める。準備といっても上着を脱いで、軽くストレッチをするぐらいではあるが。
脱いだ上着を陽に預け、その場でストレッチを始めた。
「楓、リベンジだ」
「おう、任せとけ」
陽に背中をパン! と叩かれると、ゆっくりと慧に近付いていく。
(さて、結と会ってからどれだけ進化したかな俺は)
マスなのが少しだけ残念だが、急造されたリングのような熱気に自然と気持ちが高揚していく。意図せずに笑みが溢れてしまうほどだ。
「神代くん、自身の何が変わったのかを実感してください」
「おう。思い切り殴れないのは残念だがな」
「それは本番にとっておきましょう」
笑いながら結は頷く。どうやら気持ちは一つだ。
夏に慧とやりあった時は失望された。悔しかったし、迷走もした。だが今はあの時とは違う――。
「おい」
「なにかな?」
「ちゃんと寸止めはしてやるが、一応全力で避けろよ?」
「してやる、か。いいね!」
歓声は次第に大きくなるが、もう二人の耳には何も届かない。視線の先にはお互いの好敵手の姿だ。
静かに二人は向かい合った。




