第一章 第一生
明け六つの時の鐘が鳴った。やれやれ、きょうも一日はじまったか。兵吉は伸びをすると布団を片付けた。
きょうも野菜を仕入れなければ。身支度をし、箪笥の中の六百文を出すと、慌てて家を出た。早くしなければ、同業者に新鮮な野菜を取られてしまう。
しがない棒手振り。働かなければ食い扶持だってない。それほど働き者とは言えない兵吉だったが、夜に呑む酒だけが楽しみで生きている。働かざるもの、呑むべからず。きょうも一日、頑張ろう!
野菜を仕入れ、兵吉は大声で問いかける。
「ナスはいかに~、きゅうりはいかに~」
声を響かせながら、ゆっくりと歩く。
「兵吉さん、ナス三つ頂戴」
「あいよっ、今日の献立は何だい?」
「焼きなすさ。毎日変わらないって旦那に言われそうだけどねぇ」
「ははは、この時期のナスは美味しいからね、どんどん食べとくれ」
兵吉の周りには野菜を買いたい女性が集まってきた。その中の一人がこんなことを聞いてきた。
「兵吉っあん、あんた、いい人は居ないのかい?」
「ええ?」
突然の質問にしどろもどろになる。そんな姿を見て周りにいた女性達は笑った。
「兵吉さん、あんた、そろそろいい年でしょ。紹介しようか?」
「若者宿にでも行ったらどうだい?」
矢継ぎ早に質問や提案されて、兵吉はどうしたらいいか分からなかった。今まで、一人で自由に過ごすのが楽だった。自分がどんな感じの女性が好きなのかも考えたこともない。
このことがあってから、兵吉は若い女性を意識するようになった。野菜を売っていても年頃の女性に会うとじっと見てしまう。少しばかり、挙動不審になってしまっていた。
兵吉が女性ばかり気にしていることに気付いた友人がいた。その友人は人をからかうのが大好きで、今の兵吉のような状態の人はとてもいい餌食ともいえた。
「兵吉、お前、最近色気づいたな?」
友人のまっすぐな言葉に兵吉はどきりとする。が、平常を保ったふりしてこう返した。
「何を根拠にそんなことを言うんだ。あっしは今までと変わらない」
その返事は友人の想定内だった。友人は含みを持たせた笑みを浮かべると、兵吉に一つ提案した。
「兵吉、美人がいっぱいいるところに行きたくはないかい?」
「え?」
返答に困る兵吉。今度はしどろもどろしてしまう。
「び、美人たって、…………え…………あっしはそんな…………」
そりゃ、不細工より美人の方がありがたい。ありがたいが、そもそもどこにそんな大勢の美人がいるんだ。若者宿に行っても美人がいっぱいとはいえなかったが。
「いいから、ついてきな」
友人はさっさと歩き出した。慌てて兵吉もその後をついていく。先程の言葉とは裏腹に、足取りは軽かった。つい、気分が上がっていた。
友人はすたすたと何も言わずに歩いていく。その方向に兵吉はとある場所を思いついた。
「おい、まさかとは思うが…………」
「そのまさかだよ」
そこは吉原。遊郭だった。
「おいおい、あっしは吉原で遊べる金なんて、これっぽっちもないぞ」
兵吉の慌てぶりに友人は大笑いした。
「誰もお前が遊べるほどの金を持ってるなんて思ってないよ。ただ、目の保養になると思って連れてきただけさ」
ここにきて、やっとからかわれていることに気付いた純粋な兵吉だった。
「もう勘弁してくれよぉ、もう引き返そうぜ」
兵吉の言葉を聞かず、友人は足を進める。
「おいおい、もういいだろ、からかうのは止めてくれ。遊べないのに吉原へ行ったって、意味がないだろ」
慌てる兵吉を友人は諌めた。
「お前もここまで来たら観念しろ。誰も遊女と一晩過ごせなんて言ってないだろ。あくまでも目の保養だ。わっちだってそんな金ねぇよ」
そう言うと友人は吉原大門をくぐった。仕方なく、兵吉も門をくぐる。
店がいくつも並んでいる。そして、格子の向こうに何人かの着飾った女性がいた。確かに美人ぞろいだ。
兵吉はそわそわする。友人が慣れているように見える。
「おい、もしかして、ちょくちょく来ているのか?」
兵吉が尋ねると、友人はニカッと笑う。
「見ているだけなら金はかからないからな。まぁ、楽しいことはできないがね」
兵吉はただただ驚いていた。初めて見る吉原、友人の落ち着き具合。
「なぁ、帰ろう…………」
左右見ながら歩いていた兵吉だったが、浮き足立って一言、言おうとしたとき兵吉の目に一人の花魁の姿が入る。
立ち止まった兵吉はその花魁に一目惚れしていた。凛とした姿、見抜くかのような細い目、綺麗な鼻筋、キュッと結んだ口、全て美しく感じていた。
「お、おい」
友人の肩を強く叩く。
「痛いな、そんなに力を入れなくても気付くぜ。どうしたんだ」
「あ、あ、あ、あ、あの」
「落ち着け、どうした」
「あの花魁の名前、分かるか?」
「あん?」
友人は店の中を見る。
「どの花魁だい?」
「ほら、青い着物に赤い帯の…………」
「ああぁ、お夏か。止めとけ止めとけ」
一蹴されて兵吉はムッとする。
「なんでだ、めちゃくちゃ綺麗じゃないか」
友人は一瞬黙り、すぐにくすくすと笑った。
「お前も男だな、安心したよ。とことで、名前を知ったわけだが、どうしたいんだい?」
「ど、どうするって」
友人はため息をつく。
「格子太夫だぞ、お前程度の稼ぎでなんとかなる遊女じゃない。それに、あれは性格悪いらしいしな」
友人の言葉に、兵吉は文句を言う。
「あっしの稼ぎのことを言われるのは構わんが、彼女の悪口は止めてくれ!」
友人はキョトンとした。
「おいおい、何を真剣に怒っているんだ。相手は遊女だぞ?それに、おめぇ、話したこともない女のことを言っただけでそんなに感情高めてどうする」
「だが…………」
言葉に詰まった兵吉の肩を友人は軽く叩く。
「悪いことは言わねぇ、諦めろ。太夫なんて何両かかると思っているんだ。いつも使っている文銭で会える女にしときな」
「いや、彼女じゃなきゃ駄目だ…………」
落ち込みながらも、意思を曲げられなかった。
「あっしは…………」
「ん?」
兵吉は決意した。
「働く!」
「は?」
「働いて、銭貯めて、お夏に会いに行く!」
「はぁ?!」
友人が驚くのも無理はない。花魁に会うためには一回、十両以上かかるだろう。兵吉がよく使う文銭で一両は四千文くらい。野菜の棒手振りでの売り上げが千二百文くらいだろうか。でも、次の日の仕入れに六、七百文はかかる。自分の食い扶持を引いたら大して残らない。今までその日暮らしだった兵吉の生活で十両も貯めるのは相当努力しなければ無理だろう。
「おめぇ、正気か?」
友人は兵吉の頬をペチペチと叩いた。
「うわ、止めてくれ、叩いてもあっしの意思は変わらない!」
兵吉の言葉を聞いた友人は呆れた。
「こんな阿呆、初めて見た」
しばらく沈黙が流れた。兵吉はむっとしていたし、友人は呆れっぱなし。そして、二人してため息をついた。
「確かに、あっしは阿呆かもしれねぇ。でも、もう決めたんだ」
その言葉に、友人は微笑んだ。
「おめぇは昔から変わらないからな。決めたのならやり遂げるんだろうよ。…………何年かかるか分からねぇが、応援するよ」
その言葉につられたかのように、兵吉は笑顔になった。
一方、その話を聞いていた者がいた。当の、お夏。話は格子から筒抜けしていた。
お夏には夢があった。もともと、借金のカタに売られた身。下手に格子太夫になったがために花魁として必要な教育費や着物代もかかり、返すに返せない額になっていた。大金持ちのお客にそれを全部返してもらって吉原から出たくて仕方がなかった。そんなお夏だから、格子の向こうから聞こえてきた兵吉の話はため息の原因にはなるが、全く喜ばしいことではなかった。お夏が性格が悪いと噂されるのも、気持ちに正直に金持ちしか相手しないことが原因かもしれない。
「何年かかるか分からないような人の相手なんて、したくないわ」
ボソリと呟くと、結った髪に刺さったかんざしを挿しなおした。
兵吉は人が変わったようだった。友人に吉原へ連れられて以来、酒は一滴も飲まなくなったし、時間が空けば寝る間も惜しんで働いた。昼間の棒手振りはもちろん、元締めのところへ行って仕事を紹介してもらっては起用にこなしていた。お金は少しずつ貯まってはいるものの、なかなかお夏に会いにいけるほどは貯まらなかった。そこで、友人の真似をしてお夏の姿だけ拝みに吉原へ行ったりした。たまに目が合うと手を振ってみるが、お夏はツン、と横を向いてしまう。兵吉はそれでも構わなかった。姿を見れただけで幸せだった。
ただ、食べるものも我慢してお金を貯めていたため、兵吉はみるみると痩せた。見かねた友人が食事に誘った。
「大丈夫、おめぇの事情は知ってるからな。きょうはわっちの奢りだ」
兵吉はありがたく奢ってもらうことにした。
「どうだい、その後」
兵吉はニカッと笑った。
「まぁ、ぼちぼちだね」
笑顔の兵吉を見て、友人は複雑な顔をした。
「おめぇ、顔がゲッソリしているぞ。そんな顔じゃお夏に嫌われるぞ」
言われた兵吉は思わず手で顔を包んだ。
「おめぇ、知ってたか?」
「な、何を」
酒を飲み、友人は続けた。
「花魁は客を選べるんだ。そんな身なりじゃ嫌がられて会えない」
兵吉は愕然とした。お金さえ貯めればお夏に会えると思っていた。でも、そうなるとどうしたらいいのか分からない。
「あ、あっしはどうしたらいいんだい?」
友人は複雑な顔のまま兵吉に言う。
「まぁ、食いねぇ」
友人に言われ、兵吉は魚をつつく。
「まず、しっかり食え。そんなやせ細ったら倒れそうだ。病気にでもなってみろ、お夏になんて会えないぞ」
兵吉はしょんぼりする。
「それから、身なりだ」
兵吉は下を向いた。裾がほころびている。裾だけではない、帯も擦り切れている。そして、なんといっても裏地がない。見るからにみずぼらしい。
「あっしは、着物を新しくしないといけないのかい?」
友人は酒を飲んで一息ついた。悲しそうな顔をしている兵吉に微笑む。
「そんなことはない。借りればいいんだ。おめぇの場合お夏に会いに行くときだけ綺麗な着物を着ればいいんだから」
兵吉は笑顔になる。友人は分かりやすい奴だな、と思った。
「お、お前、新しい着物、持っているか?」
「貧乏人に聞くんじゃないよ、そんなこと。その時が来たらいい着物持ってる奴、紹介するよ」
兵吉は不安が消えてホッとした。とりあえず、やることは三つだ。健康でいること、綺麗な着物を借りること、金を貯めること。ただがむしゃらに働くより、目標がはっきりしていていい。着物を借りるときにお金が要るかもしれないが、お夏に会うための十両のついでに貯めればいい。まだ十両には程遠いが、今までと比べたら貯めることができる自分もいるのだと自信がついてきたところだ。やればできる。お夏にも、きっと会える。
そう思ったら急にお腹がすいてきた。目の前の友人の奢りだ、しっかり食べよう。こういうときにはちゃっかりが一番。
急にガツガツ食べだした兵吉を見て、友人は一息ついてから微笑んだ。こいつ、なんだかんだで幸せそうだ。今までの自堕落な生活に比べたら生き生きしている。夢が実現するかどうかは置いといて、この状態でいてくれたらとりあえず大丈夫そうな気がしてきた。
「あのさ」
兵吉が急に食べる手を止めて聞く。
「なんだい」
「酒、もう一本頼んでいいかい?」
「ちゃっかりしすぎだ、バカ」
兵吉は友人と食事をして以来、働く量は変わらないものの、ちゃんと食事をするようになった。おかげで顔つきも先日までのゲッソリした顔からちょっとふくよかな顔へと変わり、棒手振りで呼びかける声も大きくなった。夜も安い鰯油を灯しておぼえたばかりの内職を始めた。しかし、希望というものは人をこんなに明るくするものだろうか。仕事の量から考えたら疲れているはずだが、兵吉は元気そのものだった。
切り詰める生活が八年も過ぎた頃だろうか。兵吉は見事にやり遂げた。十両という、庶民には大変なお金を貯めたのだ。嬉々として友人にそれを報告し、着物を貸してくれる人を紹介してもらった。着物がいる理由を聞いた相手は話の内容に感激し、好意で無料で着物を貸してくれた。
今夜、お夏に会える。…………お夏が選んでくれれば。
お夏はため息ばかりついていた。自分が格子太夫になってからかなり経つ。借金はまだ返せない。返してくれそうな結婚相手も見つからないまま、気付けば二十六歳になっていた。格子太夫でいるうちに結婚しなければ、一生がひどいものになる。ずっと安い銭で体を売って暮らしていかなければならないだろう。お夏は焦っていた。誰でもいい、結婚してくれるなら。
お夏はふと思い出した。昔、格子の向こうから筒抜けで聞こえてきた話を。確か、働いてお金を貯めて会いに来ると言っていた。あれ以来、あの人は格子越しに定期的に手を振りに来ていた。もし、あの人が本当に来たら。あの人のような強い想いにはなかなか出会えないのではないだろうか。お夏の気持ちは揺らいでいた。借金を返すための暮らしは大変かもしれない。でも、あんな強い想いでいてくれる人となら、それほど苦痛ではないかもしれない。わらをもすがる気持ちとはこんなものだろうか、と、お夏は自分で呆れた。
今日も格子の中で座る。よくよく見れば、今日の着物は兵吉に見つけられたときのものと同じだ。青い着物、赤の帯。あの日のことを思い出したのも仕方がないのかもしれない。
兵吉は友人から指導されていた。
「兵吉、自分の仕事は棒手振りだなんて言うなよ?」
「なんでだよ」
「格子太夫は、特にお夏は金持ちと相手することが多いからな。しがない棒手振りだと言ったら途端に帰られるかもしれん」
「じゃ、なんと言えばいいんだ?」
「酒問屋の息子とでも言いねぇ。そのふっくらした顔つきなら通るかもしれねぇ」
着慣れない新しい着物で落ち着かない兵吉。
「なぁ、あっし、大丈夫かなぁ?」
「ここまできて不安になるな。あたって砕けろだ。奉公人の言うとおりにしたらいいんだよ」
友人は背中をバンッと叩いた。
「砕けたくない」
兵吉は呟く。
「あ、思い出した。おめぇ、財布はどうしてる」
言われて兵吉は財布として使っている巾着袋を出した。
「あぁあぁ、予想通りボロボロだな。わっちのを貸してやるよ。それよりはましだろう」
十両のお金を友人の巾着袋に入れた。
緊張しながら歩く。一応、友人もついてきてくれた。お夏に会えるという緊張、巾着袋に入っている十両のための緊張。
吉原大門をくぐる。着ている物のせいか周りのみんなの視線がいつもと違うように感じた。
お夏がいる店に着く。お夏は初めて見たときと同じ着物と帯を着ていた。兵吉は運命を感じていると、友人がまた背中を叩いた。
「さ、行ってこい」
兵吉は頷くと店に入る。奉公人にお夏に会いたい旨を伝えると、まず財布を預けてくれと言われた。ここのしきたりだと言われ、財布を渡す。
「こちらの利用は初めてで?」
「あ、ああ」
「では、説明させていただきます。お客様は初めてということで、『初会』としての遊びとなります。触れることはご法度です。花魁はあなたと離れた所に座ります。言葉を交わすこともありません。お客様を気に入れば、帰りに煙草を一服して出て行きます。次は『裏』として会っていただくことになりますが、次にいらしたときにご説明させていただきます」
そう言うと、奉公人は頭を下げて去っていく。少し待っていると、再び奉公人が来て部屋に通された。座って待っていると豪華な料理と酒が運ばれた。…………お夏はまだだろうか。話せないが、お夏と一緒の部屋にいるだけで幸せだ。…………早く会いたい。
後ろに気配を感じた。振り向くと、お夏がしずしずと歩いてきた。
初めてお夏を見たときより、少し色っぽくなってる気がする。兵吉はしばらく見惚れていた。
お夏は肘掛に寄りかかる。お夏も、兵吉の顔を見つめていた。
この人、本当に来てくれた。長かったけど、私がここにいる間に来てくれたわ。
兵吉はお夏に見つめられて自然と笑顔になった。屈託のない笑顔を見たお夏も、つられて微笑んだ。二人はしばらくニコニコと見つめあった。
八年という月日は二人を結び付けていた。
「主、いつもありがとう」
お夏から、自然と感謝の言葉が出た。兵吉は驚く。言葉を交わすことはないと説明されていたこともだが、今まで格子越しに見ていた態度からは出てこない言葉だったから。
「な、なにがだい?」
「主が格子の向こうから手を振ってくれたことが励みになりました」
お夏は兵吉へのこの態度が破格なのを知っていた。普段、初めての客とは会話はしない。お夏のすることといえば、肘置きにもたれながら気に入った客の前で煙草をふかすくらい。裏(二回目)で会話ぐらいはするものの、こんなに笑顔で話したことはない。
「そ、そいつぁ、良かった」
兵吉はまだ緊張していたが、何か返事をしなくては、と、言葉を絞り出した。その様子を見て、お夏はまた笑顔になる。
ああ、なんてことだろう。私はこの人に恋している。
お夏は今になってはっきりと実感した。あれほど、お金持ちと恋仲になって結婚したいと思っていたのが嘘のように消えていた。この人とこんな風に笑いあえたら貧乏でもきっと幸せだ。そう思えるようになっていた。
兵吉は手酌で酒を飲む。いつもしていることなのに気分は最高だ。
一晩は長いようで短かった。あっという間に感じる二人もう、兵吉は帰らなければならない。お夏は思い切って聞いた。
「主、次はいつ来てくれるでありんす?」
酒を口に運ぼうとしていた兵吉の手が止まった。兵吉は嘘の付けない男だった。
「八年後…………かな」
「へ?」
お夏はキョトンとした後、コロコロと笑った。
「ご冗談を」
お夏の笑いが兵吉の心にぐさりと刺さった。兵吉はお猪口を膳に置くと、座布団から降り、土下座した。
「すまねぇ、本当なんだ。あっしはしがない棒手振りだ。毎日、野菜を売って何とか暮らしている。今までお夏っあんに会いたくて必死で働いたが、八年もかかっちまった。次に来られるとしたら、また八年かかると思う」
お夏はその姿を見て黙ってしまう。兵吉は土下座をしたまま、次のお夏の言葉を待った。…………ひどく長く感じた。
「…………八年は、待てないでありんす」
横を向きながら言うお夏。兵吉は当然だろうなとは思っていたが、残念で悔しくて仕方がなかった。涙が出てくる。
兵吉はお夏にかける言葉も見つけられず、ゆっくりと頭を上げ、お夏の顔を見た途端に驚いた。
お夏は、泣いていた。静かに、化粧が落ちるのも構わずに涙を流し続けていた。泣く姿も兵吉から見たら美しかった。
短い無言の後、お夏は切り出した。
「…………わっちが、会いに行きます」
兵吉は冗談だろうと思った。吉原は遊女が逃げられないように大門一つしか出入り口はない。つまり、世間から隔離されている。そんなことは兵吉だって知っていた。
「年季が」
お夏はゆっくり言った。
「年季が、次の文月の一日に明けます。そうしたら、わっちが会いに行きます。
年季とは、遊女が遊郭を去る日。数えで二十七歳になるともう吉原では用済みになる。
まさかの発言に、兵吉は固まった。お夏は昨日まで会うことすら叶わなかったお夏が年季が明けたら自分の下に来てくれる。これを驚かずにいられるわけがない。そして、涙を拭いて笑顔になったお夏を見たら、兵吉は我慢しきれず万歳をしていた。
「本当か、本当に来てくれるのか?」
兵吉の問いに、お夏は満面の笑みで頷く。これを見た兵吉は再び万歳をした。
それからというもの、兵吉は毎日が春のような気分だった。毎朝毎朝、お夏が来るまであと何日、と、唱える。仕事にも身が入り、以前のお夏に会うためにお金を貯めているときよりも陽気になった。例の友人は『ありゃ、頭がおかしくなったか。大丈夫か?』と問われたりもした。棒手振りの仕事ではみんなにおまけしすぎてちょっと苦しい生活になったが、そんなことはお構いなしだった。八年前まで呑んでいた酒を今でも飲まなければ充分に生活できる。とにかく、お夏が来ることが待ちどうしかった。
会えない日々が我慢できなくなったら、吉原まで行ってお夏のいる店まで行き、顔を見て手を振った。お夏は手こそ振らなかったが、にっこり笑顔で返す。それを見て兵吉はまた元気になって毎日働いた。
冬がやってきた。今年はずいぶん冷える。兵吉は火鉢にあたりながらお茶を飲んでいた。
「お夏はどうしているかなぁ」
これは毎日の口癖のようなものだった。そして、口に出すと会いたくなる。兵吉は吉原へ向かった。
「お夏はどうしているかなぁ?」
寒さに震えながら吉原大門に向かう。雪も降ってきた。こんな日はお夏に会って気持ちを暖めるに限る。
お夏のいる店の前まで来たが、お夏は格子の向こうには居なかった。今までにないことだったから兵吉はびっくりしたが、休みでももらったのかと深くは考えず、とりあえず帰ることにした。
次の日も、その次の日も吉原に出向いたが、お夏の姿はなかった。さすがに兵吉もおかしいと思い、その場に居た他の客にも聞いてみたが誰も知らないようだ。『年季が明けたんだろう、残念だったな」と言う人もいたが、それが間違いだということは兵吉が一番知っている。
兵吉は吉原を出ると、例の友人に会いに行く。
「お、どうした、しけた顔して」
「あ、あ、あ、あのさ」
お夏のことが絡むと、今でもしどろもどろになる兵吉。
「落ち着け。わっちは逃げない。どうしたんだ」
「近頃、お夏の姿を見ないが、彼女はどうしたんだ?」
それを聞いて友人は、はぁ~、と、ため息をついた。
「おめぇ、口を開けばお夏、お夏って。こっちは耳にタコができるよ。少しは他のことを考えたらどうだい」
兵吉のしゅんとした姿に、友人は苦笑した。
「まぁ、気持ちはわからないでもないがな。なんてったって、八年も思い続けて成就した恋だもんな」
言われて兵吉は照れ笑いした。
「ただな、わっちも知らないんだな、お夏が居ない理由。おめぇが一番知っていると踏んでいたんだが」
兵吉は首を横に振った。友人は手に持っていた蒸かし芋を半分にしてその片方を兵吉に渡しながら続けた。
「まぁ、心配するな。ちょっと腹が痛くて休んでいるだけかもしれねぇ。すぐに会えるよ」
渡された芋にかじりつき、口をもごもごさせながら兵吉は呟いた。
「お夏が病気…………心配だ」
芋を口に運んだときにその言葉を聞いた友人はむせた。
「おめぇなぁ、わっちが適当に言ったことを鵜呑みにするんじゃないよ」
友人はお茶を飲み、今度はあちっと呟く。そしてため息をつくと、兵吉に言った。
「じゃぁ、確かめに行くか、吉原へ」
「え?」
「奉公人に聞いてみろ。ぐだぐだ悩むより、その方がいいだろう。わっちもついていくから」
「お、おう」
二人は雪がちらつく道を黙々と歩いていた。兵吉は不安に駆られながら。友人は呆れながら。
そして、信じられないことに、兵吉の不安の方が現実になる。いや、思い浮かべていた以上に悪い。
お夏が居る店の奉公人に兵吉が聞いてみると、そんなことか、とでも言うかのように奉公人はしゃべった。
「ああ、お夏ね。死んだよ」
「え!!」
それを聞いた二人は呆気にとられた。
「今年、風邪が流行っているだろう。お夏も風邪をこじらせてしまってね。咳が止まらずに医者に見離されてしまったよ。
兵吉は涙が流れるのを必死でこらえていた。そこへ、追い打ちをかけるようなひどい言葉を奉公人は発した。
「花魁ってね、金かかってんのよ、教育費とか着物代とか。お夏の親は死んじまってるし、借金の元も戻ってないのに、死なれたら大迷惑だよ」
兵吉は激昂した。あまりにひどいことを言われて頭にきたので、奉公人の胸ぐらを掴んでいた。
「おい、やめろ!」
…………そこからは兵吉に記憶はない。
気付いたら家に居て、着物がボロボロになっていた。
「大丈夫か?」
兵吉はボーっとした頭をなんとか働かせようとしたができなかった。
「まぁ、今はゆっくりしろ。あんなこと聞かされたら、わっちでも頭にきた。おめぇがああなるのも無理はないよ」
友人の言うことが、いまいち理解できなかった。
「あっしは、なにかしたのかい?」
友人は目を丸くした。
「覚えてないのかい?」
兵吉はコクリと頷いた。
「どこまで覚えている?」
「えぇっと、吉原へお夏の様子を聞きに行って…………あれ、どうなったんだっけ?」
友人は困り果てた。どう説明したって兵吉が傷つくのは目に見えている。仕方なく、腫れ物に触るように兵吉に説明した。お夏が死んだこと。奉公人の言葉。そして、兵吉がその奉公人に殴りかかったこと。友人が止めたため、事なきを得たが、もう少しで町奉行に捕まりかねなかったこと。
お夏が死んだ。兵吉は全く実感が湧かない。また吉原へ行けばお夏が笑ってくれそうな気がする。まだボーっとする頭で自分の着物を見たとき、兵吉はこみ上げてくる何かを抑えられなかった。
「わーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
兵吉は奉公人に殴りかかったことは後悔できなかった。というか、一発でいいから殴りたかった。せめて、一発お見舞いしてから止めに入ってほしかった。お夏が死んだことをあんなふうに言う奴は、そいつ自身が死ねばいいと思う。
友人の前で泣きじゃくった。立ち直れなかった。お夏がもう居ないなんて考えたくなかった。兵吉の悲しみを友人も癒すことはできなかった。
いつまで経っても兵吉の気分は沈んでいた。八年間やめていた酒も呑み始めた。…………というより、浴びるように呑んでいた。仕事にも身が入らず、借金ばかりが増えていく。
お夏と暮らす日々を夢見ていた兵吉。その夢が破れた今、自分の人生なんてどうでも良かった。酔っ払って自分をごまかした。
兵吉は急に痩せていった。ほぼ何も食事を取ってなかったのだから当然だろう。見かねた友人が食事に誘ったが、兵吉は出かけるのも嫌だと断り続けた。友人も兵吉のところへ訪れるのをやめる。
こんな生活を続けたら、体を壊すことも当然だろう。病院に行くお金もない。家で一人でしばらく苦しみ、とうとう死んでしまった。