幸せは虹の彼方に。
私が死んだのはある晴れの静かな日。ゲリラ豪雨が喧しい連日の合間、珍しい一日だった。私は誰にも知られずにひっそりと、路地の奥で息絶えた。私は『リトル』という名で呼ばれていて、意識が遠くなるその寸前に、その声を聞いたのだ。あぁ、ご主人様が呼んでいる。
「リトルっ。リトルっ。どこにいるの」
小さな体に貼りついた白い体毛が乾くのを待たずして、私は静かに目を閉じた。ご主人様が来てくれた。これで、安心して夢を見ることができる。
私は体を置いて遠ざかるご主人様の声を追いかけた。
★★★
ご主人様が大変だったことはよく知っていた。介護というものだ。人間は年老いた人間の面倒を見るために、心身を削り始める。私はそれを仕方がないと感じつつも居た堪れず、ご主人様を困らせた。
私を見てくれる時間が減っている。私が呼んでも先に介護。お膝に乗ってゆっくりしていても、ご飯を食べさせてもらっていても、どこか何か足りない。急にやってきたご主人様の『母』というものに嫉妬の感情しか生まれなかった。
だから、白い大きな車がけたたましい音を立てて、家の前に貼りついて、ご主人様が慌てて扉を開けた時、こっそりとついて出たのだ。私は白い服、ヘルメット姿の人間が怖くて、その様子を物陰に隠れて見つめていた。ご主人様は外に出た私に気付かず、扉を閉めて、その車に吸い込まれた。
ご主人様を吸い込んだ白い車が走り出す。慌てて私も走り出す。怖がっていないで一緒に乗り込めばよかったのだ。でも、出来なかった。追いかけたが、白い車は視界から消えてしまったのだ。
途方にくれる私。
そして、雨が降ってきた。その年初めてのゲリラ豪雨。閃光が走れば、雷鳴が空を切り裂いたかのように鳴り響き、雲の中で光を収めれば、おどろおどろしく音を轟かせた。車が水を撥ねて通り過ぎる。怖くて路地へと逃げ込んだ。それは、人間で例えれば、一時というものに値したのかもしれない。しかし、チワワの私には恐怖の数百年に思える時間だった。そして、雨は容赦なく私を叩き潰そうとした。
雨が上がった時には、もう体が動かなかった。地面に貼りついたようにして、私の体は横たえられていた。少し眠ろう、そう思って見上げた小さな空に虹が延びはじめていた。
私が死んだ後もご主人様は私をずっと探し続けていてくれていた。だけど、私はもういない。体を棄てて、戻って来た時、私の話を家族とずっとしているご主人様がいた。警察へ届けた後もインターネット上の迷子犬を探し続けるご主人様。一週間に一度保健所に電話を掛けるご主人様。散歩コースを外れても歩き回るご主人様。雨の度に涙を流すご主人様。
悲しそうな表情しかないご主人様。
もう、大丈夫だよ。だから、悲しまないで。私はここにいるんだから。
何度もそう伝えたが、伝わらなかった。夢の中でも伝えたが、伝わらない。
そして、ご主人様は私と同じチワワが保護犬としてネットに上がっていたのを見つけた。神様が私にくれたこの世に留まる時間はもうあまりない。大丈夫だからと伝えるには時間が足りなかった。だから、彼を助けてあげることで、ご主人様の気持ちが治まるのなら、紛れるのならそれでいいと思った。
私はこっそりと耳打ちする。
「この子を助けてあげて。きっといい子よ」
私の言葉はご主人様の心に響いた。ご主人様が呟く声が聞こえた。
「リトルはこの子を助けたいの?」
それから、六か月後、ご主人様は迷いに迷った結果、彼をもらうことに決めた。
そう、六か月も待っていてくれたの。だから、あなたも幸せになってね。
★★★
僕がこの家に来たのはもう五年前。ふと飛び出してしまった家に戻れなくなってしまい、そのまま冷たい場所へと移動した。別にそこの人間が怖い人達だったわけではない。でも、ご主人、という感じではなく、適度な距離を保ち僕にご飯をくれていた。そして、今のご主人がやって来た。僕は「コウ」と呼ばれるようになった。
幸せの「コウ」らしい。
彼らはご飯をくれる以外にもたくさんの物をくれた。
僕は暖かい家族を得、膝に乗ったり、遊んでもらったり、散歩へ行ったりして毎日を過ごすようになった。みんな僕を「いい子」だといい、撫でてくれる。しかし、時々、僕の知らない名前が出て来て、話をする。
『リトル』
一体誰なのだろう。でも、僕はリトルに助けられたようだ。しかし、それは僕の名前に反し、幸せな結末の結果ではないそうだ。だから、ご主人たちはその話をすると悲しそうな表情を浮かべる。
ボールを投げて、取ってくると、リトルはそんなことしなかったよね、と話す。
ご飯をモリモリ食べると、リトルは本当に食べない子だったよね、と話す。
『マゴ』というものに焼きもちを焼くと、リトルと一緒だね、と話す。
その度に僕はよく分からずに首を傾げる。
そして、夏に差し掛かかると、ゲリラ豪雨を生み出す黒い雲を見遣り、雨の音を聞きながら、あの時もこんな雨だったねと話し出す。そんな五年間。
それが今年はあまりない。黒雲から降る雨は長雨ではあるが、滝のような雨になることがない。静かに雨音を響かせて、閑けさを生み出した。僕は、散歩へ出かけられなくて、窓の外を眺める。そして、微睡む。雨って本当に嫌だ……。
「コウ、雨やんでる間に、散歩にいこう」
ご主人の声に僕は目を覚ました。リードを付けて、僕はしっぽを振って歩き出す。雨上がりの匂いがする。湿ったアスファルトが肉球にじわっと染み込む感触がする。少し雲が切れて、青い空が見えている。
ねぇ、コウ?
誰かに呼ばれた気がした。空を嗅ぐ。何かこそばゆい。記憶の奥というよりも、感覚の先っぽの方に何か霞んで見えるような感じだった。幸せの『コウ』その言葉が脳裏を掠める。
幸せになってね
そうだ。僕は誰かに幸せを願われていた。
そして、思い出した。小さな何か。僕が聞いた悲しい声。
もう少し待っていてあげてね。きっともう少しで気持ちを切り替えられるから。きっと幸せになれるから。
雨上がりの風に乗って微かに、僕の鼻に届くものがある。そうだ。彼女の匂いがするんだ。行かなくちゃいけない。僕は慌てて、ご主人を引っ張る。あの信号の向こう。あの公園の茂みの中に彼女は待っているんだ。小さな命に形を変えて。
もう悲しまなくてもいいんだよ。
空には虹が綺麗にかかっていた。僕は彼女に聞こえるように一鳴きした。それに応えるようにして、かさり、という音がした。茂みから出て来た彼女は小さな猫。本当はまだ母猫から離れられないくらいの。ご主人は僕が鼻をくっつけている小さな仔猫を不思議そうに抱き上げると、やっと背負っていたものを降ろしたかのように、彼女に微笑んだ。
「お母さんからはぐれたの?」
彼女は愛らしく「にーっ」と鳴いた。
彼女の新しい名前は、「ちぃ」
今日もご主人のお膝に乗って、気持ちよさそうに眠っている。ご主人が優しく背を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。
何だか僕も幸せだった。
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画:猫じゃらし様